145.伏した狼と神の禍
迫り来る追跡者から一人の少女を護る為、ロウは必死に駆けていた。
増幅した魔力を足へと集め、背後から降り注ぐ攻撃を気配だけで巧みに躱し、全力で戦場を駆け抜けていく。
ロウを、正確にはアリサを追うエンペラー級は低空を飛行し、横切る降魔をも巻き込みながら激しい魔力の暴威を撒き散らしていた。
この状況の中、救いの手が差し伸べられるようなことは期待していない。
戦線はすでに大きく後退し、どこを見ても降魔の姿ばかりが視界の中に映り込む。
だからこそ、ロウの目的地は一つしかなかった。
腕の中で眠る少女の懐かしい温もりを、感じる鼓動を失わない為にロウは走る。
少女の愛する母を殺した穢れ手で、その少女を救いたいなどいったいどの口がほざくというのか。彼女とてそのような事は望んでいないだろう。
それでも護りたいと思う意志は強く、故にアリサが気絶しているのはロウにとって幸いだった。
辛く苦しい窮地の最中、どこからともなく現れて助けてくれる無敵の英雄……そんなものを望んでも、そんな存在などいはしない。
それならと、生き残れた後にその罪過を背負う事を覚悟し、ロウが求めた者たちは決して英雄などではなく……
「あれは……」
「どういうことですの」
そこにいたのはエナと、真っ先に彼女と合流したトゥリアだった。
アリサを抱え、血を流しながら必死に走って来るロウの姿を捉えると、ロウの意図が読めない二人は静かに身構えた。しかし――
「アリサを頼むっ!」
「は? え? ちょっ!」
真っすぐに二人を見据えながら叫んだロウの言葉に、打算も何もありはしない。
ロウは大切に抱きかかえていたアリサを二人に向かって投げると、すぐさま踵を返してエンペラー級の降魔へと刀で斬りかかった。
降魔の鋭爪とロウの刀が交わると同時に、トゥリアがアリサを抱き留める。
「こいつの狙いはアリサだ! 早く引き返せ!」
「ど、どういうつもりですの? この子は貴方の命を狙っていたんですのよ?」
エンペラー級が空いた手をロウへと振り下ろすと、ロウは交差していた鋭爪を受け流し、がら空きになった腹部へと魔弾を放った。
降魔が一瞬よろめいた瞬間、間髪入れず刀で斬り上げると、降魔は上半身を逸らしてそれを躱す。
同時にロウは刀を逆手に持ち替えると、それを地面へと突き刺した。
すると、一瞬にして降魔の下半身が氷漬けになる。
「死なせたくない……それだけだ」
アリサを抱えたトゥリアに突き出した降魔の右手に魔力が集まると、ロウは刀を引き抜き、後方へと下がりながらその間に割って入る。
そして放たれた魔弾を両断すると、顔だけを後ろへ向けながら切実な声を漏らした。
「……頼む」
「っ、わかりましたわ。この子はわたくしたちの仲間ですから、貴方に言われるまでもありません。エナ!」
「えぇ」
エナは頷くと、伝達石に魔力を流しながらトゥリアと共に駆け出した。
降魔が下半身の氷を砕くと、ロウは静かな動作で刀を鞘へと納める。
同時に大きな黒羽を広げて地を踏みしめ、降魔がアリサを追いかけようと低く飛翔し、ロウのすぐ横を通過した瞬間――降魔の体が地面へと落下し、土煙を上げながら勢いよくその体を地に滑らせた。
「敵を助けるなんて……愚かな男ですわ」
一度だけ振り返ったトゥリアの視界に映ったのは、片羽を失ったエンペラー級と、悲し気な瞳をアリサへと向けるロウの姿だった。
「こちらエナ。集合場所の変更です。各自、そのまま帰還してください」
『え? エナ姉ぇ、なんで?』
『近くにエンペラー級の魔力を感じる。僕たちでもあれの相手は御免こうむりたいところだからね。美しい戦いはできそうにもない』
『ってことは、やっぱオクトのせいかよ。俺はズィオを回収してから帰還する。あの野郎、いくら声をかけても一向に繋がらねぇ』
「頼みました。エプタは大丈夫ですか?」
『うん。一人でもお家に帰れる』
「帰還後はいつもの広間に」
その場で立ち止まったエナが収納石から浮遊盤を取り出すと、トゥリアもそれに続いて浮遊盤を取り出してその上に乗り、上空へと浮き上がっていく。
ロウがいなければ、アリサを見捨てるか皆で戦うかの選択に迫られていただろう。浮遊盤の速度ではエンペラー級から到底逃げるきることはできない。
だがアリサを見捨てないという選択は、実際のところ選べないものだった。
制御された状態の力では決して敵わないし、アリスモスが本気を出すということは、それ自体がかなりの危険性を伴うものだからだ。
「これが答えですか……」
エンペラー級と死闘を繰り広げるロウを見下ろし、エナはそっと呟いた。
「何か言いまして?」
「ただ…………いえ、なんでもありません。行きましょう」
そして、エナは視線を魔門へと戻すとその中へと消えて行き、戦場を離脱した。
ロウの刀で片羽を斬られ、目的であったアリサを逃がしてしまったのだとしても、エンペラー級の持つ知能は高く、怒りに我を忘れるようなことはない。
降魔は一度距離を取るとロウを真っ直ぐに見据え、冷静な声を出した。
「人間如キガ……大シタモノダ」
「……お前の目的は潰えた。大人しく帰る気はないか?」
「我ノ狙イハアノ娘ダッタガ、コレダケノ餌場ヲ前ニ、帰ル理由モナイ」
「……そうなるよな」
少し引きつったようにロウが口角が僅かに持ちあがると、額から一筋の汗が頬を伝って流れ落ちた。
このエンペラー級の降魔に対して、ロウの感じたことはこうだ。
まず、エンペラー級の中でも能力を持たない個体であるため、幾分戦いやすいということ。
次に、人の魔力を喰らうという性質は他の降魔と同じだが知能が高い分、他の降魔とは違って何かを楽しむ概念を持っているということ。この降魔の場合、それはおそらく狩りだ。しかしそれは同時に、目の前の降魔がまだ本気を出していなかったことを意味している。
片羽を失ったといえど、降魔の再生力は条件を満たせば魔憑を遥かに凌ぐ。
その条件とは、人の持つ魔力を喰らうことであり、大量に喰らえばいずれ片羽も再生してしまうことだろう。
ロウの魔力には、人の形を成す魔獣が二人分も含まれている。
ここでロウがやられれば一度の捕食で降魔の片翼は復活し、この戦場を自由に飛び回ることになるのだ。……かといって、逃走だけは選択できない。
闘技場には神々とその護衛がいる為、そこにいる者たちの身の安全は無用な心配なのだろうが、それ以外の戦場での被害は避けられないからだ。
このとき、ロウはシンカの姿を思い出していた。
(無事に安全な場所まで戻れたのか……)
今、ロウが取れる作戦はただ一つだけだった。
エンペラー級を相手に時間を稼ぎ、閉じた魔門から降魔の出現が止まって他の部隊が現存する降魔を一掃して安全を確保した後、一斉にエンペラー級を叩く。
しかし……どこまで粘ることができるのか。
ここでロウが稼げた時間と犠牲者の数が直結する以上、ここでの役割は重要だ。
何より、シンカたちとの約束を果たす為にも死ぬわけにはいかない。
ロウは刀に手を添え、目の前のエンペラー級を注視して静かに構えた。
ロウがとった行動の一部始終を、セレノは遠くから見ていた。
月の女神アルテミスの瞳は常人のそれとは大きく異なり、かなり遠くまでの距離をその瞳に映すことができる。
セレノはアリサを救ってくれたロウに感謝しつつも、たった一人でエンペラー級と対峙するロウの窮地に心を痛めていた。
闘技場とセレノの位置の中心から、降魔の侵攻は二分されている。
女神の魔力など、降魔にとっては絶好の獲物なのだ。
そんな彼女を護る為に戦い続けているのは金銀の鎧を纏う者。
ブラッドとヴォルグ、二人の猛攻は凄まじかった。
右手の細剣で降魔を斬り伏せ、時には攻撃をいなしつつ、左手の長銃から放った魔弾で降魔の核を的確に打ち抜くブラッドは、まるで戦場を舞っているかのように降魔を屠り続けている。
ヴォルグの戦闘は単純明快だ。素早い動きで殴り、蹴り、潰す。だがその剛の動きは、かなり洗練されたものが窺えた。
しかしどちらとも、不思議なことにそれだけだった。能力は使用していない。
鎧を着ていながら縦横無尽に飛び回るブラッドと、明らかに常人離れした身体能力を誇り、武器を手にしていないにも関わらずヴォルグに切り裂かれたように消滅する降魔を見るに、それらが能力といえばそうなのかもしれない。
女神の懐刀――ルルディ隊に属するブラッドとヴォルグについての詳しい情報は、月国の中でも知る者はほとんどいなかった。
しかしそんな二人にも長時間の戦闘から疲れの色が見え始めると、一方的だった展開も徐々に形勢が変わり、攻撃を受ける回数が増えていった。
圧倒的な数の暴力を前に地面に飛び散る赤い雫が増え始めている。
だが魔門はなおも開き続け、降魔の数は一向に減りはしなかった。
「リンちゃん!」
「ッ、大丈夫っ! スキア、次!」
「こっちもお願いします!」
「ほらよ!」
スキアは影から湾曲した剣と鎖鎌を取り出し、リンとアフティに投げ渡した。
リンが湾曲剣を、アフティが鎖鎌を手にとると、降魔を一掃しながら突き進む。
オトネはその後ろをついて行き、そのさらに後ろからスキアは全体の状況を把握しながら走っていた。
四人は極力無駄に魔力を消費をしないように努めていた。やむを得ず使うときは、デューク級が現れた時だけだ。
能力を全開で使えば、セレノたちの元へ辿り着くのにそう時間はかからないだろう。しかし、辿り着いただけでは意味がないのだ。無事、闘技場まで引き返さなければならない。
ブラッドがセレノを救出したのは見えていたし、スキアたちはブラッドとヴォルグの強さを知っている。二人なら持ちこたえてくれると信じていた。
そして、合流した後に全力全開で引き返す。それこそが最善の選択だったのだ。
「にしても、エンペラー級が近いな。あっちはどうなってんだ?」
「知らないわよ」
「一瞬、ロウさんの魔力を感じたような気がしましたが」
「ッ、あの人は本当にどうしていつも……」
「ロウちゃんらしいけど……まさか、戦おうとなんてしてないよね?」
「わからねぇ。でも、こっからならアルテミス様の方が近い。先に合流しよう。さすがのロウもエンペラー級を相手にはしないって、祈るしかねぇ」
一瞬、リアンとセリスの顔が過ったが、スキアたちはそれを振り払った。
この現状で戦力を分けることはあまりにも愚策だ。
エンペラー級の相手がロウだという保証がない上、二つを選ぶことができない以上、今はロウを信じるしかない……信じることしかできないのだ。
しかしそんなスキアたちの祈りも届かず、ロウに逃走の選択はなかった。
ロウの目的は時間を稼ぐことだ。自ら攻撃を仕掛けるようなことはしない。
かといって、相手がそれに付き合うかというとそれは否だ。
エンペラー級は周囲に五つの魔弾を作り、それを放ちながらロウへと駆け出した。ロウは左手に生成した氷の銃で二つの魔弾の軌道を即座に逸らし、二つを刀で斬り捨て、最後の一つを回避しながら、振り下ろされた降魔の鉤爪を次に生成した氷の剣で受け止める。
氷剣に亀裂が入るが、一瞬でも受けれたならそれでいい。
ロウが降魔の鉤爪を横に流すと同時に氷剣が砕けるが、右手の刀で横一文字に薙ぎ払った。が、降魔がそれを左手から放った魔弾で弾き上げ、よろけたロウへと向けた右手から魔砲を放つと、ロウは魔障壁を展開してその威力を軽減させる。
しかし、瞬時に作った魔障壁の強度はそれに耐えきれずにロウを呑み込んだ。
吹き飛ばされたロウが空中で体勢を立て直し膝をついて着地すると、すでに五つの魔弾が再び放たれていた。
一つ目を横に回避し、二つ目を刀で斬るが、三つ目の魔弾でさらに吹き飛ばされると、四つ目と五つ目の魔弾が飛ばされたロウへと襲いかかる。
激しい音を立てながら上がった土煙が晴れると、地面に散らばる砕けた氷の欠片の中心で、膝を尽きながら息を荒げるロウの姿があった。
「はぁ……はぁ……(まただ……体が思うように動かない……)」
ロウは自分の身体に違和感を感じていた。
以前からあったことだが、こう行動しようと頭の中で思っても、体が勝手に違う動きをしようとしてしまう。
何かに操られてるのか、それとも何かに突き動かされているのか。
どちらにせよ、その僅かな隙がロウにとっては致命的といえるものだった。
『主様。ここは退くでありんす』
(駄目だ)
『……今の主君では勝てません。死ぬおつもりですか?』
(俺が逃げたらあの降魔は孤立した者を狙うだろう。他の部隊か、アルテミス様のいるところか……一人で闘技場へ向かってるはずのシンカか……)
『……』
(だから退けない……ここで食い止める)
変わらぬロウの意志を感じ、ルナティアとハクレンは押し黙った。
ロウの中にいる二人は、ロウが絶対に退かないという事をよく理解していた。
主であるロウの流れる想いが、感情が、意志が痛いほどに伝わってくる。
それでも言わずにはいられなかったのだ。
それと同時に、ロウにも二人の気持ちはよくわかっていた。
悔しさと悲痛な二人の感情が、苦悩がロウにも伝わってくるからだ。
そんな中、降魔が右手に魔力を集め、一回りほど大きな魔弾を作りだした。
「――ッ」
咄嗟にロウが氷の壁を作ろうとするも、身体が勝手に前に出ようと試みる。
それに抗って氷壁を作りだそうとした瞬間、蓄積した疲労と傷が今になってロウを襲い、抗おうと踏み留まった足がふらついた。
『……やはり、運命は変わらないのですね』
ハクレンの小さな声が頭に響く中、その意味を理解する暇もなく目の前に迫る魔弾にロウが歯を食い縛ると、その視界に飛び込んで来たのは一つの影だ。
その少女の背中にロウは絶句した。
少女は突き出した手から黒い渦を作りだすと降魔の放った魔弾を吸収し、増幅させた魔弾を跳ね返した。
「クッ――!?」
予想外の攻撃を降魔が回避すると、その後ろで激しい爆発が起こる。
突然現れた少女が顔だけ振り返ると、ロウが言葉を発するよりも先に静かに声を漏らした。
「ごめんなさい、ロウ……やっぱり駄目だった。なんでもいう通りにするって言ったけど、貴方を見捨てるなんてできない。それだけは……できない」
そう言って困ったように、あるいは悲し気にシンカは微笑んだ。
言いたいことは多々あるものの、シンカの浮かべた表情を前に、ロウは何も言葉を口にすることができなかった。
シンカは右手を突き出したまま降魔へ視線を戻すと……
「ねぇ、ロウ……私は世界を救いたい。でもそれはね、他の誰かでもいいの。私がここで倒れてもカグラが、アルテミス様が、ツキノたちが……きっと救ってくれるわ。でもね、今ここで――貴方を救ってくれる人は誰がいるの?」
「俺は……」
ロウが何か言葉を口にしようとした瞬間、降魔が不気味な声を発した。
「面白イ娘ダ。誰カヲ守ル事ガ人間ノ力ノ本質。ダガ、先ノ娘ヲ助ケタ結果、ソノ男ハ死ニカケテイル。ソシテ、ソノ男ヲ助ケヨウトシタ貴様モマタ、同ジダ」
そして一気にシンカへと距離を詰めると、エンペラー級は鋭爪を振りかざした。
シンカはロウのように降魔の攻撃を受けきれるほど力は強くないし、降魔の攻撃に耐えれるだけの武器を持ってはいない。そして、降魔の鈍く光る鋼のように固い皮膚を貫けるかと問われれば、おそらくは不可能だろう。
そうなれば、必然的にシンカにできることは限られていた。
降魔の攻撃を紙一重で躱しながら背後へ回り込み、胸の中央にある核へと鋭い突きを放つ。
剥き出しになった核。それだけが唯一シンカの攻撃の通る場所だといえる。
しかし自らの弱点を、知能を持つ降魔が理解していないはずもない。
瞬時に振り返った降魔が細剣を掴むと、そのまま勢いよくシンカの体ごと持ち上げて投げ捨てた。シンカは空中で体勢を立て直すと、そのまま地面に着地する。
だが、すでに眼前へと迫る降魔の姿を視界に捉えた瞬間、短い悲鳴を上げながら蹴り飛ばされたシンカの体が地面すれすれを飛び、ロウの胸に抱き留められて止まった。
それでも無論、降魔の追撃は終わらない。
シンカを蹴り飛ばした直後に溜めた魔弾をシンカへ向けて解き放つ。
「――ッ」
瞬時に半球状の氷結界を作り出すも強度が足りるはずもなく、咄嗟にロウがシンカを抱き留めたまま反転し、氷結界を砕いた魔弾の直撃を背中に受けると、シンカを護るように胸に抱いたまま吹き飛ばされた。
受け身も取れずに何度も地面を跳ねて転がり、そしてそのまま、今まで辛うじて繋ぎとめていた意識を手放した。
「……ロ、ロウ?」
苦痛に顔を歪めながらシンカがロウの腕の中から抜け出ると、頭から血を流して両眼を閉じているロウの顔が映る。
心配する暇もないまま次に放たれた魔砲が迫ると、シンカは右手を突き出して黒い渦を出し、その魔砲を吸収して跳ね返した。
しかし、予め分かっていたように降魔がそれを軽く躱すと、シンカを真っすぐに見据える中、シンカはゆっくりと立ち上がると降魔を正面から睨み返した。
「身体能力ハソノ程度カ。我ガ魔力ヲ使ワナケレバ、貴様ハ只ノ人間ダ」
「……」
「人間ハ追イ詰メレバ、面白イホド魔力ノ高マル生キ物ダ。ダカラコソ、ソノ時ニ喰ラウ魔力ニ価値ガアル。我ヲ高ミヘ至ラセル為……娘、前ニ出ロ」
シンカは振り返り、倒れているロウを見下ろした。
以前、ブリジットから聞いたことがある。魔憑の回復力は人間のそれを遥かに上回るが、魔憑の中でも魔獣と会話できる者の身体能力、回復速度は別格だと。
ロウの中には今、S級指定のハクレンとルナティアがいる。
二人がロウの死を望むはずがないのだから、今頃必死にロウの回復に努めているのだろう。……なんとしても時間を稼ぐ必要がある。
エンペラー級がいったい何を考えているのかはわからない。
しかし降魔の言う通り、シンカの能力が魔力反射である以上、普通に戦って勝ち目のある相手ではないのだ。
シンカはぎゅっと唇を強く結ぶと、降魔の方へと歩き出した。
すると、降魔は右手を突き出して魔力を溜め始める。
「貴様ノ技ガ、ドノ程度マデ耐エレルカ」
その言葉にシンカは降魔の言いたいことを理解した。
両手を重ねるように前へと突き出し、黒い渦を作りだす。
「イクゾ」
放った魔弾は先ほどよりも密度の高いものだった。
黒い渦がそれを呑み込んだ瞬間、弾けるような音を立てながら雷のような魔力が荒れ狂う。
「――ッ!」
それをなんとか跳ね返すも真っすぐに跳ね返すことはできず、降魔から大きく外れて飛んでいき、遠くで大きな爆発を起こした。
「今ノガ限界カ? ソレデハ、ソノ男ガ死ヌゾ」
言って、エンペラー級が次の魔弾を溜め始めると、シンカは再び両手を重ねて前へと突き出し、黒い渦を作りだした。
さらに密度の増した魔弾が放たれると黒い渦がそれを吸収した途端、暴発するように弾け飛び、空高くへ飛んでいく魔弾の下、シンカは膝から崩れ落ちた。
「――くっ」
「モット魔力ヲ高メロ」
そして、降魔は再び魔力を集め始めた。
奥の歯を強く噛み締めたシンカが震えた手つきで両手を突き出すと、一際大きく膨らんだ魔弾が放たれる。
魔弾を少し吸収したところで爆発するように弾け飛び、苦痛を伴う大きな悲鳴と共にシンカの体が大きく後方へと吹き飛ばされた。
地面に伏したシンカのすぐ目の前に、倒れたロウの姿が映る。
「ぐっ、う……ロウ、貴方はいつも……こんな……」
「魔力ノ上昇ガ見エヌ。貴様、意志ヲ持タヌ魔憑カ?」
無情に告げられたその言葉に、シンカの肩が小さく揺れた。
シンカが今まで努力して強くなったのは、あくまで元々あった力の使い方の要領を覚え、より上手く使いこなせるようになったに過ぎない。
魔獣との意思疎通もできず、九つの惑星の上昇も見られず、魔力の精密な扱いさえ苦手なままだ。
それは何故か……シンカが自らの力の根源を理解できていないからだ。
そんなことはわかっている。降魔に言われるまでもない。
シンカは悔し気に歯を食い縛ると膝を立てて立ち上がり、俯きながら降魔の方へと振り返った。
「私は……確かに誰よりも何もかもが劣っているわ。ブリジットたちみたいに亜人の力なんて持ってないし、ツキノたちみたいに自分の能力を理解していない。想いだって、努力だってそうよ。何十年も誰かを想い続けるなんてしたことないし、何十年も努力したわけでもない。そんなみんなに追いつくなんてできるわけない。ロウに追いつくなんて……できるわけない。それでも……」
顔を上げたシンカは強く降魔を睨みつけると、両手を前へと突き出した。
「それでも、守りたいって思うの! この人を死なせたくないの!」
「ソレガ貴様ノ根源ナラバ、耐エテミヨ」
想いの乗った強い叫びと共に、放たれる紫黒の魔弾。
シンカは全力で魔力を注ぎ込み、黒い渦でそれを呑み込もうと試みる。
しかし、そんなシンカの想いとは裏腹に、現実とは残酷なものだった。
再び起こった爆発と共にシンカの華奢な身体はいとも容易く弾き飛ばされ、ロウのすぐ傍に倒れ込んだ。
現実を前にすれば、少女の儚い願いなど何処にも届きはしない。
悲劇とは往々にして無情であるからこその悲劇であり、救いの祈りは意味を成さず、此処にあるのは抗えぬ絶望と、自らの弱さを示す結果だけだ。
災禍の異形はあらゆる希望と可能性を呑み込み、喰らい尽くしていく。
(……なんで……どう、して……)
悔しさで涙が出そうだった。
顔を横に向けると、いつも誰かを、自分を守り続けてきたロウの顔がある。
(こんな状況でも……私の魔獣は、応えてくれないのね)
シンカは傷ついた体で地面を這いながら、一生懸命に震えた手を伸ばした。
「私の力が……反射なら……きっとそれは、拒絶の力。ずっとそうやって……生きてきた私に……いまさら誰かを護るなんて……できなかったの、かな……」
そして、そっとロウの手を握り締めた。
人の肌とは思えぬ程に黒く染まり傷ついた手。普段は抜かない刀を死神との戦いの時も使っていたが、それにはきっと代償があるのだろう。
それが何かシンカには当然わからなかったが、ロウが代償を払ってまで諦めずに頑張っていたということだけはわかる。
「ロウ……ごめんなさい。私は……貴方に何も、返せなかった……」
背後の降魔が、今までよりさらに密度の高い魔力を集めているのを感じた。
しかし、今のシンカにもう起き上がる力は残っていない。
全身全霊を込めた魔力反射も破れ、護りたいという想いも届かなかった。
ロウを死なせたくないという確かな固い意志でさえ、魔獣は応えなかった。
「ロウ、私は……想い続けた歳月も……努力してきた歳月も、みんなには勝てないけど……でも一つだけ……今、この世界でたった一人……私にだけしか、できないこと……」
シンカは握ったロウの手を自分の頬へともっていく。
目尻を伝う血が、まるで瞳の奥から湧き出た涙のようにシンカの頬を伝って流れ落ち、ロウの手を濡らした。
「ずっと……ずっと傍にいるわ。一人だけでいかせない……私もいくから。たとえ――」
――貴方の背負った罪が、貴方を地獄へ堕としても。
そう呟いた瞬間、シンカの世界が反転した。
……――――――――――
一人、シンカは立っていた。
薄暗い空間の中、薄い雲から零れ落ちる淡い月明かりが周囲を照らしている。
辺りは一面白い花で覆われているが、それがなんと呼ばれる花なのかシンカにはわからなかった。
「ここは……私、死んだの? ……ロウ?」
周囲を見渡すが誰もいない。何一つ音もなく、とても静かだ。
「ははっ……死んでも……私の、想いは……」
シンカが自嘲するように乾いた笑みを浮かべると……
――チリン
ふいに聞こえた鈴の音と共に、視界の中に一つの影が映りこんだ。
真っ黒い人の形をした何かが静かにそこに立ち、シンカを見つめている。
その手には、小さな芽の出た植木鉢を大切そうに持っていた。
「心配しないで。貴女は死んでいないわ」
雑音の混じったような声で、影が言葉を発した。
「じ、じゃあここは?」
「ここは貴女の心の世界よ。この世界は貴女のすべて」
「私の……? じゃあ貴女は誰? 私の……魔獣、なの?」
「ふふっ、そう思う?」
シンカの問いに、影は薄く微笑んだ。そして――
「私は魔獣じゃないわ。だって――貴女は魔憑じゃないもの」
「…………え?」
その答えに、シンカは言葉を失った。
それが事実なら、自分の扱う力はなんだというのか。
亜人だとでもいうつもりなのか。
だったら、目の前の影はなんなのか。
自問自答を繰り返しても、当然シンカに出せる答えはない。
「貴女は魔憑じゃない。だから魔獣はいない。代わりに私がいて、貴女はやっと私に会いに来た」
影がそう言うと、雲間から零れる月明かりがその影を薄っすらと照らし出した。
「私が……会いに? どういうこと?」
「貴女は酷い人。大切な人が死に瀕しても、涙の一つも流さないのね」
「――ッ」
その言葉はシンカの心を深く抉りとった。
だが何も言い返せない。影の言ったことは、紛れもなく真実なのだから。
シンカは自分の知る限り、一度たりとも泣いたことがない……ただの一度もだ。
どれだけ悲しいことが起ころうと、どれだけ痛い思いをしようと、苦悩、苦痛、後悔、憎悪、何に直面しようとも……涙が出ないのだ。
それがロウと出会った時に、ロウに対して酷く突っかかってしまった理由だ。
泣いていない、泣くことのできない自分に対して、ロウの言った言葉はその時のシンカにとってはとても辛くて痛い言葉だったのだ。
しかしその言葉も、今ではとても温かく感じていた。
涙を流せない自分の心を、まるでわかっているとでもいうかのように汲んでくれるその優しい言葉が、今ではとても嬉しいのだ。
見えない心の涙を拭ってくれる、その優しい指先が、とても温かった。
だからこそ、そんなロウの窮地を前に涙の一つも流せない自分が、憎かった。
「わ、私が魔憑じゃなくて、私の中に魔獣がいないなら……貴女は誰なの?」
「そう……月明かりが照らしても、貴女にはまだ私が見えないのね」
月明かりは辺りを優しく照らしている
その淡い光は目の前の影にも降り注いではいるものの、やはり人の形をしたただの黒い影にしかみえなかった。
「ど、どういうこと?」
「運命が変わっていないということよ」
「それって……世界が滅びる運命のこと?」
その問いに、影は静かに首を横に振ると……
「星歴……今から約二年後。七が重なるその日までに私の姿が見えなければ、貴女は一生後悔の中で生きることになるわ」
「後悔なら……今までだってずっと……」
震えた拳をぎゅっと握り、結んだ唇から漏れた音はか細く弱い。
後悔ならたくさんしてきた。むしろ、後悔の連続といってもいい。
何度弱い自分を責めただろう。何度無力な自分を憎んだだろう。
何度、何度、何度……
だが、そんなシンカの後悔は後悔ですらないとでもいうかのように、影はそれを否定した。
「いいえ。貴女は本当の後悔を知らないの」
「その日に……いったい何が起こるの?」
「……」
影は少しの沈黙の後、ゆっくりとシンカへと歩き出した。
そして緩やかな足取りのまま、迷い込んだ子供のように不安げな表情を浮かべているシンカに問いかける。
「ねぇ……貴女はお母さんの顔を憶えてる? 家族で過ごした日々を憶えてる? 貴女の初恋の人は? 貴女はどうやってこの時代に来たの? 貴女はどうして……泣けないの?」
「私、は……あ、れ? どう、して……」
切れ切れに返した声の中、シンカは何一つ思い出すことができないでいた。
大切だったはずの母親も、幼いカグラと過ごした日々も、初恋の人の顔も、どうやってこの時代に来たのかも……何一つ思い出せなかった。
それは時間遡行の影響だと、自分の中に納得していた。していたはずだった。
それでも今にして思い返せば、自分がどうしてそれを気にすることがなかったのか、まったく理解することができなかった。……だってそうだろう。
今までに何度も初恋の人のことも、母親のことも、話の中で触れていた。
なら、どうして顔も覚えていない初恋の人に、自分の胸は強く痛んだのか。
なら、どうして顔も覚えていない母親に、自分の心は締め付けられたのか。
記憶が酷く曖昧だったにも関わらず、どうして、自分の中に世界を救うという確固たる使命感のようなものがあったのか。
不自然だ……愛していたであろう母親の顔も、初恋の人の顔も、元の時代の記憶すべてが曖昧なまま、まだ子供だった二人の少女が頼れる者が誰一人としていないこの時代の中、そのような確固たる意志を持っていたなどということは。
しかし、それすらただの違和感にしか過ぎず、確固たる矛盾には成り得ない。
――だが、おかしい。
時間遡行の影響が理由なら、どうしてもおかしいことが一つだけある。
今にして思えば、どうしてそれを不思議に思えなかったのだろう。
記憶の中の過去の映像が、すべて壊れた映像のように灰色に染まっている。
思い出す記憶の中の声が聞き取りにくい雑音に変わり、まるで過去を初期化するかのように消失していく。
それはまるで、記憶という舞台の幕が下り、役目を終えた役者たちが舞台から去って行くかのような……作られた物語の中に一人取り残されたような……。
そうだ……ないのだ。
記憶の曖昧な理由が本当に時間遡行の影響だったとするなら、確かにあるはずの五年前にこの時代に来てからカグラと二人で旅して来た、その記憶が。
いや……正確にはあるにはある。
しかし誰にも信じてもらえず、悔しい思いをしながら必死に世界の危機を訴え、導きの元に仲間を探し続けていた子供の頃の記憶は、あまりにも断片的だった。
あれだけの苦悩や辛苦や悔しさという感情が……漠然的すぎる。
なんの一貫性もなく、ただ絵本の頁を切り取ったような記憶。
これが本当に自分の記憶なのか……そう、シンカが思った瞬間、影はシンカの問うた疑問をそのまま問い返した。
「――貴女は……だれ?」
頭を鈍器で殴られ、胸を撃たれたような衝撃。
苦しい……まるで水の中にでもいるかのように、呼吸の仕方を忘れたように、上手く酸素を循環することができない。
「わ……わた、し……は……」
いつからだ。いつの記憶が、自分の最も古い正確な記憶なのだ。
魔憑でもなく、亜人でもないはずの自分はいったい何者だ。
いくら考えても答えに辿りつけない。
灰色に染まった光景。雑音の入り混じった音。
意識が混濁し、いまにも気絶してしまいそうな感覚の中、シンカの意識を引き戻したのは次に発した影の言葉だった。
「貴女は何も知らないの。この世界の残酷な真実が、ずっとロウを苦しめている」
「……ロウ、を?」
見開いた目の中で揺れる瞳。胸を抉り込むような新たな情報。
何もわからない。何もかもが理解できない。
隠しきれない激しい動揺の中、歩み寄っていた影がシンカのすぐ目の前に佇み、その足を止めた。
「答えを教えることはできない。真実はすべて雑音に掻き消えてしまうから。でも、私の姿を貴女が見ることができたなら……きっと、運命を変えることができる」
言って、影の右手がそっとシンカの頬へと触れた。
「だからどうか……その日までにもう一度会いに来て。貴女の世界に咲くこの白い花の意味を、どうか望まぬものへと変えないで。そしてこの鉢に、貴女の望む花を咲かせてみせて」
「……」
シンカは無意識に、頬に添えられた影の手に自分の手を重ねた。
何故だろうか……目の奥に熱いものが込み上げてくる。
どうして、こんなにも胸が痛むのか。
どうして、こんなにも悲しい気持ちになってしまうのか。
後悔、悲しみ、痛み、苦しみ……そういった様々な感情が流れ込んでくるかのような感覚の中……シンカは溢れ出る何かの感情を堪えることしかできなかった。
影の表情は見えないし、わからない。
しかしそれでも、この影が悲痛な想いを宿しながら泣いているような気がしたのは、きっと気のせいではないだろう。
「積み重ねならしてきたわ。死を望むほどの後悔なら、何度も積み重ねて来た。悔しい想いで何度見送り……涙を隠した微笑みの仮面で何度誤魔化してきたか。何度も何度も何度も…………だから、ね? もう……いいでしょ?」
その問いかけは答えを求めるものではなく、まるで決意を示すかのようで……
「落涙なんていらないわ。英雄になんてならなくていい。貴女はただ、あの人の仮面をそっと外して……その涙を拭い、笑顔を取り戻してあげるだけでいい。その為に、これから貴女は勝利を積み重ねるの」
その言葉には隠しきれない強い想いを宿していた。
「貴女の想いも、貴女の努力も、決してこの世界の誰にも負けはしないわ」
――私がそれを、証明してあげるから。
影がシンカをそっと抱きしめると、シンカの意識がふと、真っ白に染まった。
……――――――――――
シンカがそっと目を開くと、エンペラー級の高密度の魔弾が狙いを定めていた。
だが今の彼女に焦燥感は微塵もなく、傍で気絶しているロウの頬を優しくなでると、降魔を鋭く睨みつけながら立ち上がり、すっと右手を前に出した。
「何カガ違ウ。貴様、誰ダ?」
「誰? 私は私よ。おかしなことを言うのね」
明らかに雰囲気の変わったシンカの瞳には、怯えも諦めもありはしない。
宿るのは確かな意志と、絶望を憎悪する殺意だけだ。
「撃たないの?」
「ソレデイイノカ?」
今まで両手を使っていたにも関わらず、今は右手だけをエンペラー級へと向け、黒い渦をまだ展開すらしていない。
しかしシンカは薄く微笑むと、静かに頷いた。
「今ノ貴様ハ実ニ美味ソウダ」
そして、喜悦の声を漏らした降魔が高密度の魔弾を放った瞬間、シンカの右手を膨大な黒い魔力が渦を巻き、放たれた魔弾を一瞬にして呑み込んだ。
これまでよりも遙かに密度の高い魔弾を呑み込んだことに驚きつつも、すかさず降魔が回避行動を取ろうと足に力をいれるが、魔力反射はこない。
「跳ね返す力は拒絶の力……違うわ」
シンカは下げた右掌に視線を落とし、ぎゅっと握りこんだ。
「これはね――相手を確実に殺す為の力なの」
瞬間、右手に渦を巻いていた魔力がシンカの体を包み込んだ。
すると地面から風が吹き荒れるように舞い揺れる長い髪の黒い毛先が、まるで侵食するかのように薄いクリーム色の艶やかな金髪を染め上げていく。
そしてすべての髪が漆黒に染まると、漆黒に揺らめく魔力を身に纏い――
「さぁ……貴方が喰らってきた力は、私の想いを越えられるかしら?」
ゆっくりと顔を持ち上げ、降魔の帝王に臆することなく睨みつけるその双眸は、まるで血石のように紅い輝きを放っていた。




