142.遠のく背中を追いかけて
(ハクレン、ルナティア……すまない。どうやら俺は、お前たちに辛い役を押し付けていたらしい))
ロウは心の中でそう呟くと、様々な表情を浮かべる皆に視線を向けた。
「ロウ……お願い。何か言ってよ……」
震えた声で訴えるシンカの姿に、ロウの胸は酷く締めつけられた。
それでもロウが表情を変えることはない。
込み上げるのは自責の念と、目の前にいる者たちへの愛おしさだ。
(俺の美徳は偽装した悪徳で、俺の正義は欺瞞に満ちている。それでも背負った咎があるのなら……せめて最後まで……)
そして、これから取らなければならない行動に自己嫌悪するも、ロウは迷うことなく言葉を口にした。
「二人とも……もういい、戻れ」
「……ですが主君」
「いいんだ。これは俺が撒いた種だからな」
「「御意」」
ハクレンとルナティアが一言返して頭を下げると、その身体は淡い粒子となってロウの中へと消えていった。
「さて、戻ろうか」
「…………え?」
平然とそう言ってのけたロウに、シンカは驚いたように目を丸くした。
あまりに予想外の言葉すぎて、シンカの口から漏れたのは乾いた疑問の音だけだ。
「次も試合があるんだ。ここにいたら邪魔だろ」
「待てよ、名無しさん。説明してくれ。アンタは本当にあの神殺しなのか?」
「そうらしい。だが、それがどうした? 俺が神殺しなら目的が変わるのか? 優勝を目指したいのなら、お前たちはその想いに従って戦えばいい。俺は俺のために戦う……それだけだ」
ロウの言葉に皆は耳を疑った。信じられないと語るような揺れる瞳。
しかし誰の口からも何一つ音は漏れず、ただまるで別人のように見えるロウの姿を愕然と見つめるだけだ。
そんな中、ロウは割れたお面を拾うと収納石へと仕舞い込み、言葉を重ねる。
「納得がいかないか? なら、変わりを探すといい」
そう言いながら歩き出したロウに、慌ててしがみついたのはカグラだった。
「ま、待ってください。ど、どうしちゃったんですか? な、なんでそんなこと……」
人見知りで臆病で、弱い自分のことをカグラは嫌悪しているが、周りから見ると彼女は決して弱い人間なんかではない。
必要な時に必要な事を成す力を、自分の思いを伝える勇気を持っている。
思えば、外界に来る直前のスキアの誘いがあったとき、カグラが初めて見せた反抗もロウを引き留めるためだった。
「せ、説明してください。ロウさんの言ったこと信じますから……だ、だから」
「……」
見下ろしたロウの瞳に映るカグラの表情は、とても見れたものではなかった。
悲しそうな瞳に涙を浮かべ、縋るような眼差しでロウを見上げている。
だからロウは深く、深く感謝した。……わかっていたからだ。彼女の性格も、その優しさと勇気故にどういった行動を取るのかも。だから……
(……ありがとう、カグラ)
ロウはそんなカグラを振りほどいた。
たいして力を込めたわけではない。しかし、震える今のカグラの足では小さな身体すら支えきれず、僅かな悲鳴を漏らしながらその場で軽く尻もちを着いた。
「カグラっ」
シンカが慌ててカグラの傍に駆け寄ると、そこに立つロウを見上げた。
いつものシンカなら、怒りを露わにしていただろう。
いつものシンカなら、文句の一言や二言が出て当然だ。
しかし、今だけは違った。
その瞳に浮かぶのは怒りではなく、深く深い悲しみだ。
その瞳はロウへ問いかけていた……どうして、と。
ロウはそんなシンカを一瞥すると、何も言わずに踵を返して再び歩き出す。
ツキノ、モミジ、シラユキの三人がロウの名を叫ぶも、ロウは足を止めなかった。
そんな中、ロウの足を止めたのはブリジットだった。
ロウがブリジットの横を通り過ぎる瞬間、彼女はロウの肩を掴んで無理矢理振り向かせると、その頬を思い切り引っぱたいたのだ。
ブリジットの手にしていた革袋が滑り落ち、中から記録石が音を立てて散らばっていく。
両眼から流れる涙。強く睨んだ瞳。堪えるように食い縛った歯。
それを見た誰もがその光景に驚愕した。
あのブリジットがロウへ手を上げることなど、考えられなかったからだ。
事実、彼女がロウに救われてからこれまでの長い歳月の中で、ロウに手を上げたのは初めてのことだった。だが……
「……満足したか?」
「――っ」
冷めた声音でそう言ったロウがまるで何事もなかったかのように、怯えるように身を竦めたブリジットに背を向けると、その背にルカンが言葉を投げた。
「……名無しさん。アンタの言いたいことはよくわかったぜ。俺たちはこのまま優勝を目指す。だが……神殺しの力は借りねぇ。四人だけで戦い抜いてやる。アンタの力は必要ねぇ」
「そうか。なら、せいぜい頑張ることだ」
そしてロウが答えた瞬間、それは起こった。
気配を感じた皆が一斉に少し離れた上空へ視線を向けると、そこに広がっていくのは見間違えようもないものだった。魔門から漏れる禍々しい魔力の流れと共に、その空間がかなりの早さで広がっていく。
そこから次々に溢れ出る降魔の数は凄まじかった。
その中にデューク級が多数含まれているというのも遠目でわかるほど、その場の魔力が酷く乱れている。
そんな中、神々が命令を下すまでもなく、各国の魔憑部隊は迅速に行動した。
慌てふためく観客を落ち着かせ、観客席に張られた魔力障壁を発生させている魔石に魔力を流して強化している。
降魔の量は凄まじく、避難させるにしても被害を抑えきることはできないだろう。
ならば、一箇所に集めたままそこを護るほうが戦いやすい。
幸い此処には六ヶ国の猛者が集まっている。無論、二桁の総位に入る者も多くいるのだ。闘技場を守り切るだけならそう難しいことではないだろう。
闘技場の外ではすぐに戦いが始まっていた。
外を警備していた部隊が交戦を始めたのだろう。激しい音が鳴り響いている。
闘技場内の警備にあたっていた一部の部隊も、降魔を闘技場へは近づけまいと降魔の迎撃のために飛び出して行く中、スキアの隊の面々もロウたちのことが気になるものの、今はそれどころではなく、降魔の迎撃へと向かっていった。
そんな中、疑問の色を濃く浮かべた声を漏らしたのはアルバだ。
「これはどういうことでしょうねぇ。ここは司法に護られし中立地帯。年の終わりを告げる終開の日以外で、自然に魔門が開くことはありません」
「しかし、空間系の能力は希少だ。星国の神以外、使える者の存在は確認できていない。となれば……先の女の仕業か……」
アルバに続いて言ったブフェーラの指す先の女とは、デュランタのことを言っているのだろう。
焦ることなく状況を冷静に確認する神々がいることで、観客席に座る民たちの動揺はいつしか消えていた。
六国の魔憑部隊がいるのだ。冷静に考えれば危険なことなどありはしない。
すると、アルバとヴィアベルの持つ伝達石からそれぞれに声が流れた。
『こちらアンバル01、降魔と共に現れた魔憑を確認。場所は闘技場より南東。その特徴からルインのアリスモスかと思われます。これより迎撃にあたります』
『ゼフント02。南西にルインのメンバー出現。付近にいるゼレヴェ小隊と共に迎撃にあたります』
ルインという言葉に皆が眉を僅かに寄せながら反応するも、ここに集まった魔憑部隊は決して弱い者たちではない。
焦る必要もないだろうと報告を待とうとする中、ヴィアベルだけは違った。
「私が行って終わらせてこよう」
そう言いながら立ち上がろうとするヴィアベルの肩を軽く押さえつけながら、メロウが反対の声を発する。
「駄目よ。貴女は女神なの。ここにいなさい」
「……離せ、メロウ」
「約束、忘れたとは言わせないわよ」
「……」
「貴女の気持ちは理解してるわ。でもね、先代の言葉を忘れてはいけない」
「ッ……わかった」
ヴィアベルが悔しそうに顔を顰めながらも大人しく椅子に座り直すと、メロウはほっと安堵の息を吐いた。
丁度そのとき、魔門付近から二つの人影が近づいて来るのが視界に映る。
円盤のようなものに乗って空を移動していることから、その円盤には浮遊石が装飾されているのだろう。
その人影のうち、一人はまだ幼い少年。もう一人は犬の耳が垂れたような帽子を深く被り、包帯で片目を覆い隠している少女だった。
二人が闘技場上空にまで移動してくると、真っ先に反応したのはブリジット、ロザリー、フォルティスの三人だ。
「――ッ、アイツ!」
ブリジットが目を見開くと、眉間に皺を寄せながらいきなり三つの魔法陣を展開した。そして雄叫びを上げながら人化したフォルティスを掴み、二回りほど翼を大きく広げたロザリーが飛翔する。
誰が止める間もなく、フォルティスとロザリーの二人が少年へ攻撃をしかけるものの、少年の作り出した魔障壁がそれを阻んだ。
それと同時に魔法陣から三つの炎弾が放たれると、少年は面倒臭そうにそれを一瞥し……
「いきなり無礼だな」
手を軽く振るうと、一瞬にして少年の上空に現れた六つの魔弾がそれぞれフォルティスとロザリーに直撃し、三つの炎弾を撃ち落とし、ブリジットへと襲い掛かった。
短い悲鳴を上げながら落下するフォルティスをルカンが受け止め、ロザリーをシンカが抱き留めると、カグラは吹き飛ばされたブリジットへと駆け寄った。
「あの野郎……まさか」
「そ……そうだ……七年前。あの男が……父様を――」
「いきなりどうしたっていうの?」
「……ッ、回……答。あいつが、パピィを――」
「し、しっかりして下さい」
「ア、アイツだけは……許さない。アイツがパパを――」
――中界へと落としたんだ!
その言葉にシンカたちは鋭く息を飲み、咄嗟にロウへと視線を送ると、ロウは真っすぐにその少年――ミゼンを見上げていた。
「七年前? あぁ、あの時か。お前らあそこにいたんだな」
「――っ!」
平然と言ったミゼンの言葉に三人は傷ついた体で戦おうとするが、上手く体が動かない。
ただの魔弾……そのたった一撃で、死神と激戦を繰り広げた三人が膝をついた。
フォルティスの人化が解け、ロザリーの瞳も金から赤へと戻り、翼も元の大きさに戻る。ブリジットの展開していた魔法陣も消滅する中、ツキノ、モミジ、シラユキの三人がまだ完全ではない体で武器を構え、ミゼンを睨みつけた。
そして大きな手傷を負っても尚、立ち上がろうとするブリジットたちと、強くミゼンを睨みつけたまま交戦を始めようとするツキノたちを、ロウが静かに諫める。
「やめておけ。今のお前たちじゃ勝てない」
ブリジットたちはその言葉に息を詰まらせると、悔しそうにキリキリと歯を食い縛りながら強く拳を握り締めた。
握った手から、食い縛った歯から、殺意を向ける瞳から、いまにも血が流れでそうなほどに強く強く悔しさを噛み締め、ただミゼンを睨みつける。
「ふっ、さすがは神殺し。力を失っても力量を見極める目はそのままか」
しかしそんな殺意すらまるで気にも留めず、ミゼンは軽く鼻で笑いながらロウたちを見下ろしていた。
「力を失っている? どういうことだ?」
「ん? お前の魔獣は……って、いちいち説明してやることもないな。死なせたくないなら、そこの好戦的な奴らの鎖を握っててくれよ。今日の要件はこっちだ」
そう言って、ミゼンは神々の座る方へと体ごと向き直した。
「俺はルインを指揮しているミゼンだ。こうして勢揃いしてる神々と七深咲の花冠を前にすると、さすがに圧巻だな。っと、勢揃いとは言わないか」
ミゼンはレベリオに視線を送りながら不敵な笑みを浮かべた。
そんな少年らしくない彼の重圧に耐えかねたのか、レベリオは目を逸らしながら吹き出ている汗を拭う。
「我らを見下ろすとは気に食わぬな。要件はなんだ?」
ブフェーラが低い声音で問いかけると、ミゼンは片側の口角を捻じ曲げた。
「せっかちだな、天国の神は。まぁいいさ。要件は二つ。一つは月国の女神……お前だ」
「……なんでしょうか?」
名指しされ、セレノは微塵も動じることなく問い返した。
「いつまでも先代に表へ出られると困るんだよ。なぜ次代の女神がいまだに跡を継がないのかはわからないが、席を譲ってくれないか?」
「……」
「譲る気はない、か。でもまぁ、それなら継がざるを得ない状況になればいい」
告げると同時にミゼンの魔力が膨らんだかと思った瞬間、観客席より上段に位置する神々の席へと、瞬時に作り出したにしてはあまりに大き過ぎる魔弾を放った。
甲高い音と共に魔力障壁が砕かれ、大きな爆発を巻き起こす。
「くッ、アルテミス様!」
クローフィの叫び声が聞こえたかと思うと、いつの間にかミゼンの傍にいた少女がセレノを抱えている。
視界の悪さとそのあまりの速度に、この場にいる誰も反応することができなかった。
「いいね、エニャ。行こうか」
「……」
満足そうなミゼンにエニャが頷くと、二人の乗った円盤が魔門の方へと引き返していく。そしてミゼンは、僅かに振り返りながら神々へと言葉を残した。
「あぁ、そうそう。二つ目の要件は警告だ。この先、俺の邪魔はするな」
真剣な声音で言った後、薄く微笑むミゼンの姿を横目に見ながら、セレノは何一つ抵抗をしなかった。……いや、することができなかった。
セレノは神の力を持つものの、その病弱な体質故に力を扱えばその反動は大きい。その上、彼女にはどうしても気になることがあったのだ。
セレノが自分の手を後ろ手にして掴んでいる少女を見ると、彼女は紅水晶のような綺麗な瞳でセレノを見つめ返し、僅かに首を傾げた。
そんな中、ミゼンが最後の置き土産だといわんばかりに再び神々の席へと魔弾を放つと、立ち昇る砂塵と共に周囲から聞こえる悲鳴や怒声。
動揺の広がる観客席の上空をミゼンたちが悠然と通過したそのとき、砂塵の中の魔力が凄まじく膨れ上がると同時に、二つの影が煙を切り裂くようにその中から飛び出した。
ミゼンが一つ目の魔弾を放った頃、周囲が慌てふためくその中で、ロウはシンカへと向き直った。
「シンカ……」
不安の色を濃く浮かべ、揺れるシンカの瞳がロウを見つめ返す。
「デュランタは明らかに、俺の正体を晒すことを目的としていた。そして、賽は投げられたと告げて消えた」
「なにが……いいたいの?」
震える声で問いかけるシンカに、ロウはそっと両眼を閉じて思い返していた。
部屋で見つけた箱の中にあった写真。それを見たときに浮かんだ光景を。
ありとあらゆる悲しみと、ありとあらゆる無念と後悔、そして積み重なる屍山に流れる血河……それはきっと――
途端、ロウの思考を遮るように、悲鳴にも似たシンカの震えた叫び声が響く。
「ねぇ、ロウ。わかんない……わからないのよ! エヴァだって言ってたじゃない! ロウにとって当たり前のことでも、私には当たり前じゃないの! ちゃんと言ってよ……。貴方の言う通りにするから……だから……行かないで……」
最後の方は、もうほとんど声にならなかった。
シンカはどうしてそんな言葉が出てきてのか、自分でもわからなかった。
だだ、カグラの導きの札が告げた最後の警告から、世界が注目する中ロウの正体が明かされ、神々が集まる場にルインが現れたことで、理解はできずとも薄々わかっていたのかもしれない。
動き始めた運命の中……ロウが何をしようとしているのかを。
そんな中、突如響いた二度目の爆発音。
上がる爆煙の中から二つの影が勢いよく飛び出すと、ロウの左右に着地した。
――黄金を纏うブラッドと白銀を纏うヴォルグだ。
着地した瞬間、鎧を着ているとは到底思えない身のこなしで強く地面を蹴り放つと、二人は凄まじい速度で連れ去られたセレノを追いかけた。
するとロウは、二人の走り去った方角を見つめたまま……
「心配するな。……約束は守る」
そう言い残してブラッドたちを追いかけたロウの背を見送りながら、シンカはその場で力無く崩れ落ちた。
両手を地面につき俯きながら、今にも消え入りそうな声を漏らす。
「違う……違うの……。約束のことを気にしてたわけじゃない……私は……」
誰もが何もできず、遠くなるロウの名前をただ叫ぶことしかできない中で、ブリジットは散らばった記録石を拾いながら声を漏らした。
「パパは……当分帰って来ないつもりだよ」
その言葉に、シンカの肩が怯えるように小さく揺れた。
ミゼンの放った魔弾によって巻き起こった粉塵が消え去ると、神々の前に立つ護衛たちの魔障壁により、誰一人として傷を負うことなく無事な姿があった。
「してやられましたね。まさか……ルインがあんな隠し玉を持っているとは……」
うっすらと目を開きながら言ったアルバの視界の先には、セレノを逃がさないように拘束しているエニャの姿が映っている。
「舐めた真似をしてくれる」
「だが、あれでは攻撃することもできんな」
苛立つように言ったブフェーラにイグニスが言葉を重ねると、ヴィアベルが僅かに悲痛な色を浮かべながらを言葉を吐いた。
「あの速さは間違いなく星国の女神が使う神力。しかし……なぜだ……」
「それはどうして星神様がルインについているか、ということかしら?」
メロウの言葉にヴィアベルが頷くと、それに答えたのはベンヌだった。
「本人の意思じゃない、というのは間違いないでしょうな」
「そらなぁ。ったく、面倒なことになってきたで。ん? どないしたんや?」
後頭部を掻きながら顔を顰め、そう声を漏らしたアトラスの視線がふとソレイユへ向けられると、ソレイユは真っすぐに去っていくエニャを見据えながら、なんでもないと呟いた。
「ふふふっ、面倒……面倒ねぇ。私はそうは思わないわよぉ? 敵に落ちた二人の女神。いまだ戻らぬ神殺しの力と明かされた正体。これからが楽しみでぞくぞくしちゃうわぁ~」
「リリス、お前のそういうとこはどうにかならんのかいな」
「失礼しちゃうわねぇ。腹黒糸目と一緒にしないでほしいわぁ~」
「失礼なのは貴女ですよ、リリスさん」
アルバが眉を下げながら溜息混じりに言うと、リリスは妖艶に微笑んだ。
「そんなのはどうでもいいのよぉ。それより、もうすぐなのよぉ~? 貴女なら私の気持ちがわかるわよねぇ、メロウ」
「そうね。この時をいったいどれだけ待ち焦がれたかしれないわ。嫉妬なんてしない私でも……嫉妬に狂いそうなくらいにね」
そう言って見下ろした視線の先では、一人の少女が闘技場の出口へと駆け出していたところだった。
ブリジットの言葉にシンカがびくっと肩を震わせると、皆の思いを代弁するように疑問を投げたのはツキノだ。
「どういうことですか?」
「ルナティアが言ってただろ。あの行動はパパの意思だって。あの子たちはね、パパの中に棲む魔獣だ。パパが自覚するよりも早く、パパが出す答えを実行した」
「自覚って、なんでお兄ぃが……そんなこと……」
「神殺しの罪は裁かれなかっただけで、許されたわけじゃない。そんな神殺しと親しくしている……ましてや、一緒に暮らしてる者がどんな扱いを受けると思う?」
「そんな……じゃあお兄さんは……」
「さっきの光景は傍目からすると、アタシらがずっと姿を偽った神殺しに騙されて、姿を晦ますために利用されていた哀れな人に見えただろうね」
それに気が付かなかった皆は愕然とした。
ロウがお人好しなことも、誰かを大切に思える人だとも知っていた。
しかしそれでも、すぐさまその考えに至らなかった自分たちに激しい嫌悪感が溢れ出る。
どうしてそれに気付かなかったのか。どうして気付いてあげられなかったのか。
明かされた真実に戸惑い、渦巻く不安に困惑し……何も見えていなかった。
ブリジットは散らばった最後の記録石を掴むと、それを強く握りこんだ。
その拳に一つの雫が零れ落ち、濡れた音で悔やむような声を振り絞る。
「アタシには……わかってた。パパが、どうして欲しいのか。いくらパパがそれを望んでても……叩きたくなかった……叩きたくなんかなかったのに……」
ブリジットの思いが嫌というほどに伝わってくる。
大切な人の想いに気付いたからこそ、大切な家族を守るために取った行動。
しかしそれは、大切な人を突き放す行為だった。
ロウの事を想うが故にロウの大切な家族を守る代償が、ロウを傷つけることだというのはなんという皮肉だろうか。
暗い空気が立ち込める中、ロウを追うにも外は激しい戦場だ。数多の降魔と熟練の魔憑たちが熾烈な戦いを繰り広げ、中にはルインまでもが紛れ込んでいる。
傷ついた状態の今のブリジットやツキノたちでは、とてもこの過酷な戦場を抜けることはできないだろう。
傷の浅いルカンは持久戦こそ得意とすれど、足が速いわけでもなく、一点を突破するには不向きな能力だ。
皆が悔しさに唇と強く結ぶ中、シンカの背後に立ったのは一人の少女だった。
「お姉ちゃん……」
「……」
「行かないの?」
そう問いかける愛する妹の声音は、とても優しいものだった。
「でも、ロウが私たちを拒むなら……私は……」
「私たちの知ってるロウさんはロウさんで、神殺しなんて知らない。それでもロウさんは拒むかもしれないけど……お姉ちゃんはどうしたいの?」
「私は……私はロウにまだ何も返せてない。このまま……離れるなんてできない」
「だったらお姉ちゃん……行って」
何かを堪えるように振り絞ったカグラの声にシンカが振り返ると、そこには胸に手を重ねながら目尻に大粒の涙を浮かべ、真っすぐにシンカを見つめるカグラの姿があった。
「私だって行きたい。みんなだってそうだよ。でも、行けないの。私には戦える力がないから。でも……お姉ちゃんは違うでしょ? たくさん頑張ってきたのはなんのためなの?」
「……カグラ」
「追いつきたい背中があったからでしょ? 掴みたい背中があったんだよね? ここで追いかけないと、お姉ちゃん……絶対に、後悔……するよ。だから……」
涙を堪えながら振り絞っていた震えた声は次第に途切れ途切れになっていき、最後にはとうとう音を無くし、大粒の涙が悔しさと共に頬を伝って流れ落ちた。
本当はカグラとて、自分の足でロウを追いかけたいのだ。
追いかけて、捕まえて、傍にいたいはずなのだ。
「俺も男だし、プサリがいるからよ。名無しさんの気持ちはなんとなくわかってた。だからあんな言い方をしちまった。でもよ、国に縛られねぇお前くらいは傍にいてやれるんじゃねぇのか? こいつらのことは任せな。仮に降魔がここまで来ても、絶対に守りきってやるからよ」
目を合わさず言ったルカンの言葉を受け、シンカがそれぞれに視線を送っていくと、どの顔も見ていて辛くなるほど酷いものだった。
悲しみ、悔しさ、不安、複雑な感情が入り乱れたような表情を浮かべている。
「あたしはお兄ぃのこういうところが大嫌いっす。でも……」
「そんなお兄さんらしいところも含めて、大切なお兄さんなの」
「シンカ……兄さんの傍にいてあげてください」
「同意。パピィ、独りぼっち。家族を独りぼっちにしちゃダメ……パピィが言ったのに」
「父様は絶対に認めないが、父様が何かを成すときは必ず誰かの為だ。そんな父様が孤独でしか生きられないのは間違っている」
皆が次々に言葉をかけると、記録石を拾おうと背を向けて地面に屈んだままのブリジットがぽつりと濡れた声を漏らした。
「シンカ……アタシに……謝らせておくれ。パパに……ごめんって……。叩いて……ごめんって。……お願いだ」
皆の悲痛なまでの想いをを受け、シンカは覚悟を決めた。
ロウたちはすでにかなりの距離を進んでいるはずだ。相当な数の降魔を抜けていかなければいけない上、ルインの者たちと鉢合わせになるかもしれない。六国の魔憑部隊も前線で戦っているとはいえ、激しい戦場の奥地の危険度は計り知れないものがあるだろう。それは誰もが、当然カグラとて理解している。
それでも尚、そんな危険な場所に行くための背中を押したのは、ずっと共に過ごしてきたシンカの心根も痛いほど理解しているからだ。
立ち上がったシンカが真っすぐにカグラを見つめると、カグラはまるで心配なんかしていないとでもいうように精一杯の笑顔を浮かべ、言った。
「無事、ロウさんと一緒に帰って来てね」
それにシンカは強く頷くと、踵を返して駆け出した。
遠く離れたロウの背中を追いかけた。
その背中に手を伸ばすだけじゃなく、その背中に声をかけるだけじゃなく、その背中を捉まえるために。
シンカの後姿が見えなくなる頃、試合舞台上空にいくつかの映像が映し出された。警備用の遠見石の映像だろう。そこに映し出されたのは激しい戦場だ。
降魔の数は尋常ではなく、ゆうに数百からなる降魔はまだその数を増やしている。
それでも前線で戦う魔憑たちは強く、一体たりとも防衛線を抜けさせてはいない。
しかし楽観できないのはやはり、ルインが現れた地点だろう。
複数の小隊でルインとの交戦をしつつ降魔を迎撃しても尚、戦線を維持しているのはさすがといったところだが、それよりも恐ろしいのは一桁を持つ者だ。
だいたいの小隊は三人から五人で形成されているが、その人数を相手にたった一人で戦い続けていることからその凄さが窺える。
戦場に立っているルインは総勢七名だった。
エナ、ズィオ、トゥリア、テッセラ、ペンデ、エクスィ、エプタ。
闘技場を囲い込むように散らばり、それぞれが前線で戦っている。
神々とその護衛はまるで相手を分析するかのように、その映像を静かな様子で見ていた。
ルインとはその正体がはっりきとしない、いつの間にか現れた謎の組織だ。
まるで降魔を操っているかのような力、各国の精鋭を相手に戦える個々の凄まじ戦闘力、意図して魔門を開いているかのような技術、組織としての明確な目的。
どれを取っても理解の範疇を越えている。
そんなルインが初めて堂々と表舞台に出てきたのだ。
これからの対策のためにも、ルインの戦力を明確に把握する必要があった。
そんな中、激戦を繰り広げる戦場の映像を前に、カグラが心配そうな声音で呟いた。
「お姉ちゃん……」
「事無。シンカはブリジットに力の使い方を教わった」
「その通りだ。お前の姉は自分が思っているより強い。そうだろ? ブリジット」
「……そうだね」
ブリジットはごしごしと目を擦ると、鼻を啜って立ち上がった。
「ただ、シンカの力は魔憑のそれとは何かが違う。死神との戦いで見せた歌の力も、シンカの持つ力の根源もわからないままだ。正直、どこまでやれるかはわからないよ」
振り返ったブリジットの瞳は赤くなっているものの、涙は止まっていた。
脳裏を過るのは、泣き言を言わずひたすら努力し続けた一人の少女。
自分を守り続けた男の力になるために、護られてばかりの自分を卒業するために、必死になって無我夢中で努力し続けた少女の姿。
そんなシンカの姿を思い返しながら、試合舞台上空に映し出された映像に視線を向け、ブリジットは言葉を重ねる。
「でもね、シンカの努力をアタシは知ってる。ずっと見てきたんだ。すべての努力が報われるほどこの世界は優しくない。それでも……」
一つの映像の中に、駆けるシンカの姿が映った。
細剣を抜き、すれ違いざまに降魔を攻撃しては回避し、戦場の中を真っすぐに走っている。降魔の攻撃が体を掠めても、流れ弾が飛んできても、周囲に目も暮れずその足を止めることなく駆け抜けている。
琥珀の双眸に映っているのは、まだ見えぬはずの大切な男の背中だ。
「一人の男の背中を追いかけるくらい……許してやってほしいもんだよ……」




