117.力無き少女の旅路
空からはこの身と大地を焦がすような日差しが照りつけ、少女たちの体力と気力を容赦なく奪い続けていた。
額の汗を拭いながら振り返れば、そこにあるのは砂、砂、砂。
紛う事なき砂の世界に遮るものは一切見当たらず、遠くには地平線が見える。
これまでつけてきた自らの足跡すらも、半刻と経たないうちにきっと砂に埋もれて消えてしまうのだろう。
此処は内界、太陽と砂漠の国ヴェルヴェナ帝国。
国土の大部分を砂漠や荒野が占めており、町や村は河川の周囲や点在する湖などの水場付近に作られている。
一年を通して他国に比べ雨量が少なく気温も高い為、アイリスオウスで育った少女たちからすれば少しばかりといわず過酷な環境だといえるだろう。
この国に住む住人は慣れたものだし、自然淡水の場所も把握しているが、初めてこの地に訪れた彼女たちはそうもいかない。
そうしてなんとか辿りついたのは、この国の主要都市カリオペイア。
建物のほとんどが煉瓦や土を捏ねて作られたような外壁でできており、町に入ってもなお、ここもまた異国なのだと実感させられる。
奥にある白い石柱が続いた先には、神殿のような建物が見えた。
「ようやく着いたのはいいのだけれど……」
そう口にし、水筒の水で喉を潤しながら、エヴァ・カルディアはこれからの予定を頭の中で纏め上げる。
ミソロギアを出立してから早一ヶ月強の間に巡ってきた国々と同じく、主要都市で可能であれば国の代表者に、もしくは神話に詳しい者にディザイア神話やそれに付随する事を聞いておきたいのだが……
「……ひ、干乾びるぅ~」
「水は貴重なのだから大切に飲むように。と、私は言ったはずよ?」
「だ、だって~」
エヴァの隣で今にも死にそうな声を上げたのはキャロ・フォーセル。
喉の渇きに負け、水の残量を気にすること無く飲み続けた結果、再び暑さに敗北している幼馴染に呆れつつも自らの水筒をキャロに手渡すあたり、エヴァにとっては予想通りの事だったのだろう。
彼女自身もこの暑さから一度逃れたいと思っていたのもあり、周囲に飲食店の類がないか見渡していると、向こうの方から鎧を纏った一団が金属のすれる音を響かせながら歩いて来ているのが見えた。
「はぁ~、生きかえるぅ~。あの人たち暑くないのかなぁ?」
「あれは間違いなく暑いと思うのだけれど」
歩いてくる一団は全身のほぼすべてが鎧に包まれており、なにより兜も装着しているので顔すらも確認することが出来ない。
この炎天下の中で全身鎧装着をしていて暑さを感じないのだとすれば、それは最早普通の人間ではないのでは、と思ってしまうものだ。
そんな鎧集団の先頭にいる一際大きな背格好をした者は、見るだけで階級が他の者より高いのだとわかる。
すると、他の面子とは意匠の異なる鎧を纏い外套をなびかせ、強者の風格を漂わせるその者とエヴァは目が合った……ような気がした。こちらからは兜の奥に隠れた瞳を見ることはできないが、直感的にそう感じたのだ。
そしてそれが正しかったと示すように、その者は側に付いていた者に顔だけを向けて何かを伝えたかと思うと、そのまま一団から離れ、エヴァたちの方へと金属音をさらに重く響かせながら足早に向かって来た。
「エ、エヴァ? なんかドンドンこっちに近づいてきてるんだけど!? 鎧なのにこれだけ暑くって走ってくるなんてホラーなんだよ!?」
「はぁ……面倒なことにならなければいいのだけれど」
これだけ暑いのに鎧で走ってくる……と、キャロは言いたいのだろうが、向かってくる鎧から発せられる強者の風格に当てられ混乱しているようだ。
その隣でエヴァは自分たちが国からの正式な認可を受け、書状も持っている事を確認し、この国の法に抵触する様なことは何もしていないはずだと、自身に言い聞かせるように何度も胸の内で呟き、その者が来るのを冷静に待っていた。
「御前達がアイリスオウス所属、エヴァ・カルディア、キャロ・フォーセルに相違ないか?」
エヴァたちの前に立つ鎧の人物から発せられた、兜内で反響したくぐもった低い声は二人に緊張感を与え、キャロの冷静さを取り戻させるには十分なものだった。
「えぇ、そうよ。貴方は見たところ軍の……それも相応の立場があるみたいだけれど……私たちが何かしたかしら?」
他国の、それも立場ある人間に対しての発言にしてはあまりにも不敬で、その自らの意思を貫こうとする微笑みはあまりにも不敵。
太陽の恩恵を過剰にまで受けているというのに、隣にいるキャロだけでなく周囲の人々さえも急に熱が失われたのを感じ、二人の次の行動に目が離せないでいた。
平均的な男女差よりもその体格差は相当に大きく、無言のまま下ろされる視線と退くことなく見据える視線が交わる。
だが、その不穏でいて緊張感のある空気は、鎧の人物の高笑いによってあっさりと打ち破られた。
少しして豪快な笑い声が収まると……
「いやはや、失礼した。是ほどまでに愉快な事は久しく無かったのでな」
「いえ、私の方こそ申し訳なかったと思うわ。ごめんなさい」
一転して和やかなやり取りを始めると周囲は熱を取り戻し、人々は日常へと戻っていったが、ただ一人の少女だけは話に追いつけず、状況を呑み込めないでいた。
「えッ、エヴァ? もしかして知り合いなの? もうっ! さっきのこわ~い感じはなんだったの!?」
「そういう訳ではないのよ、キャロ。どこか落ち着いて話せる場所があるといいのだけれど」
いまだ混乱状態にあるキャロを宥めながら、エヴァが再び周囲を見渡していると、快活な声が頭上から聞こえてくる。
「其れならば、行きつけの良い店が在る。こっちだ」
そちらに視線を向けると鎧の人物はすでに歩き始めており、エヴァはキャロの手を引きながらその後を追いかけた。
…………
……
そうして到着したのは、外観は他の建物と同じく煉瓦造りで、内装も店主のこだわりと客が落ち着けるような気遣いが窺える喫茶店。
ほとんど客は居らず、これから話をするには確かに丁度良い場所だった。
そのまま席へ通され三人は飲み物の注文を済ませると、鎧の人物はエヴァたちに向き直り兜の奥から声を発した。
「それでは、改めて自己紹介とゆこうか。と、その前にこれは外さんとならんな」
そう言って、今まで頭部を覆っていた重厚な兜を脱ぐと、その下から現れた素顔に二人は驚愕した。
先程来たばかりだというのに、ここが喫茶店であることも忘れて驚声を盛大に響かせる。
「えっ!?」
「ちょっ!? うそぉ――っ!?」
「はっはっはっ! やはりアイリスオウスの兵は愉快だな!」
このとき、驚愕の中でエヴァは一つ確信したことがある。
これまで巡ってきた二つの国も含めてのことではあるが……クセの強い者ほど戦いにおいても強い、と。
――コキヤフレル共和国、首都メルポメネ
緑豊かで水源も多く、数々の野生動物たちも生息しているこの国は、大自然の恵みをふんだんに受けていた。
木材で造られた家屋が並ぶ集落が多い中、自然の一部をくり抜いたようにあるこの主要都市だけは他とは違う華やかさがあり、季節ごとにその表情を変える景色は、いつ来ても来る者を飽きさせることはないのだという。
そしてある一人の男もまた、瞳が隠れるほど長い前髪の奥で、その表情を忙しなく変えていた。
「あぁ! あの二人は無事に旅を続けることができているのだろうか?」
栄誉勇士の称号を持つ彼――マレーズ・オリゾンは軍部の自室で一人、唸りながらせわしなく部屋の中を往復し、何かを呟いているかと思えば声を上げていた。
行ったり来たりとまるで動物のようなその行動は、ある二人の少女がこの国を旅立って二、三日も立たないうちからずっと続いている。
「せめて次の国までついて行ってあげるべきだったか?」
軍属である以上、諸々の事務作業や訓練等などやるべきことは多々あるが、それらをこなしている最中も彼の頭の中は不安や心配でうめつくされていた。
そして、一日中唸り続けている彼に対して、不思議と周りからの苦情は一切来ないのである。
それはとても単純なことで、彼が昔から過度な心配症である事に他ならない。
周囲も彼のそんな性格は把握しているし、何よりこれでいて自分のやるべき事はきっちりとこなしているのだから、問題ないといえば問題ないのだ。
ただ慣れているとはいえ、彼の性格が面倒臭いことこの上ないのは隠しようもない事実である。決して悪い人間ではないのだが、事ある毎に反応が過剰なのだ。
とはいえ、至極面倒臭いのは確かだがどこか憎めない、いわゆる善い人であり、それは称号を受け継いでいることからも窺える。
「船は嵐にあってないだろうか? 熱中症には? 凍傷には? あぁ、食料は足りているだろうか!?」
だが、一つだけいつもの彼と違うのだとすれば……
それは彼女たちの向かう先にあるものが、これまでの彼の人生の中で最も本能的に、不安を掻き立てられる何かであったからだ。
「他国の武功を称えられし者たちも、その時が来るまで……いや、その時を過ぎても息災でいてくれるだろうか」
ぴたりと足を止め、彼は部屋の角に頭を付けながら、その自分でも理解しきれていない渦巻く不安に苛まれつつ、小さな声を漏らした。
――ロスマリーノ教国、首都ポリュムニア
主要都市であるポリュムニアは、人々の賑わいこそあるものの、町中の建物から感じられる荘厳さが合わさり、どこか神秘的な雰囲気が漂っている。
そのはずなのだが……そんな町にも賭け事に精を出しているものは少なからずいるようで、今日も悲鳴と歓喜が大合唱をしていた。
「やれやれ、また僕が勝ってしまったようだ」
勝ったというのに憂いを帯びた表情のまま払戻金を受け取った、手役札に興じている彼もまた、賭け事にのめりこんでいる人間の一人だ。
賭け事にも様々な分類があるが、彼が最も得意とするのは、数印札。
数印札での勝負で勝つためには、運に左右されない多くの技術などが必要となるのだが――彼にはその必要なものが揃い過ぎていた
「統計学と交渉術があれば、誰でも最終的な勝利を手にできるというのに」
彼にとっては当たり前の事でも、周りの賭博師には何度そのこと説いても理解されることはなかった。というより、理解こそすれどまったくもって意味の無い、もっと簡単に言えば、誰にでもできることではない芸当なのだから。
とはいえ、それもそうだろう。
場に出た札のすべてを記憶し、各々の癖を理解した上で誘導するような言葉をかけるなど、そう簡単なことではない。
特に、慣れた者がいるほど場の流れが早いというのに、それを一瞥したただけで瞬時に記憶できるなど、それこそ常人には理解できない領域だ。
「……さて、今日はこのあたりで帰るとするよ。マスター!」
そう言って彼はいつも通り店主に頼み、払戻金のほぼ全額を使って客に麦酒を振舞い店を後にした。これは彼が来た時の恒例行事となっている。
なぜ彼は賭け事で勝てるのか。
なぜ彼は払戻金を皆に振舞うのか。
なぜ彼は憂いを帯びた表情をすることが多くなったのか。
「あの日、手役札で彼女たちが引き続けた愚者札には、いったいどんな意味があるのだろうか……」
ロスマリーノ所属、ディレット・アルティスタ。
銘記貴人の称号を持つ彼の疑念は、薄暗い路地に静かに消えていった。
――ヴェルヴェナ帝国、首都カリオペイア、とある喫茶店
注文していた飲み物が届いたところで、エヴァたちは驚愕の現実からようやく落ち着きを取り戻し、向かいに座る、喫茶店内に異空間を作り出している大柄の鎧の人物――ターミア・アドウェルサ女史と改めて、世界の事と自分たちの行っている事についてを語り合っていた。
「……コキヤフレル、ロスマリーノを経て、そしてこのヴェルヴェナへと遠路遥々やって来てみれば、鎧で身を固めた大女に出会ってしまったと」
「そ、それは本当にごめんなさい。ミソロギアで見た資料には名前しか書いて無かったものだから……」
「ごめんなさ~い!」
先程の二人の反応が良かったのか、それとも二人の人間性が気に入ったのか。
からかいながら浮かべる屈託のないその笑みは、几力烈士の称号を背負った者とは思えない温かみのあるものだった。
それに対しエヴァたちは、ターミア自身が気にしていないと言ってくれてはいるものの、てっきり男だと思っていたことを申し訳なく感じ、実にバツが悪そうな表情を浮かべている。
「此処での神話集めとやらが終われば、残るはラーナリリオとホルテンジアという事だな。武人でも無いというのに若い娘がまったく……何という無茶をしておるのだ」
今までは無茶を制止する側だったはずの自分たちが、いつの間にか無茶をする側になるとは人生何が起きるのか本当に分からないものだ、とエヴァは思った。
外界にある月国フェガリアルの守護下にあるのは、中立国アイリスオウスとケラスメリザ王国だけだ。
実際、ここに来るまでの間、何度か降魔にも遭遇している。なんとか必死になって、不思議と逃げおおせはしたものの、エヴァはキャロのように”幸運だ”の一言で済ませることはとてもできなかった。
まるで誰かに守られているような……などと思っているエヴァに、ターミアはさらに言葉を重ねた。
「子細把握した。もし、カルディアたちさえよければ都内の案内などは此方で手配させてはくれぬか?」
「いえ、初対面でそこまでしてもらうのは流石に申し訳ない気がするのだけれど」
「でも、エヴァ~、何日も暑い中歩き続けるのは自信ないんだけど……」
自分たちの意思でここまで来たとはいえ、厚意を無碍に断る事と初対面の人に頼りきりにな事、その選択がなかなかできずにいた二人を見かねたターミアは強行手段を取る事を決め、軽く息を吸い込んだ。
そして、この決断でさらなる現実を知り、エヴァたちは再度驚愕する事となる。
「父上! 暫くの間、カルディアたちの寝床や食事の世話を頼みたいのですが!」
本日二度目となるエヴァたちの驚きに満ちた声が、ターミア・アドウェルサ女史の実家であるこの喫茶店に響く中、か弱い乙女たちはこの喫茶店に似合わぬ威風を纏った、屈強たる褐色の男の無言の親指拳で歓迎された。
――ラーナリリオ公国、首都タレイア
大地の殆どが白く染まっているといっても過言ではないこの国では、歴代稀にみるほどの策略家が現れたという話題でもちきりだった。
そしてあまりにも謎の多いその人物は、やはりただの噂で本当は実在していないのではないかとも一部では囁かれている。
「お~い」
「…………」
ここは大図書塔。国内の歴史的に貴重な書物や最新の新聞、物によっては総出版部数二桁部のもの取り扱っているのだ。
そんな一風変わったこの場所に、ほぼ毎日のように現れては本を読み続け、閉館時刻のそのときまで席を立つことのない男が一人。
「お~い、聞いてる~?」
「…………」
そして今がその閉館時刻なのだが、一人の本の虫が今まさに図書塔の主任司書を困らせている最中であった。
いくら声をかけても反応は無く、力ずくに本を奪う訳にもいかない状況で、司書に残された手段は結局いつもの方法であった。
司書は本の虫の後ろに回り込み、微笑みを浮かべながら自分の両手で彼の瞳に闇をもたらした。
「だーれだ?」
「…………」
視界が奪われたことによってようやく彼は本から意識を剥がし、両眼を塞いでいる主任司書の手を剥がした。
大長机に山積みにしていたはずの本はいつの間にかすべて片付けられており、残る本は手元にある一冊だけだった。
「それの貸し出し手続きはしておいたから。返却、忘れないでね~」
「…………」
彼はこくりと頷き、主任司書の優しさと手際の良さに大いに感謝しつつ図書塔を後にした。
言語障害があるわけではないが、仲間の間では彼が言葉を発したのを聞いた者はいないのだという。一言で言えば、世間でいうところのアガリ症なのだ。
極度のソレのせいで、彼が自分の意思を相手に伝える手段は、基本的には身振り手振りであることが多い。
中には主任司書のように、彼の考えがなんとなく読み取れる者も何人かはいるようだが、決して多くないのは当然だろう。
「…………」
彼は自室に戻ると個人机の上に広げている地図と、そこに置かれている五つの兵棋……そして、箱に納められたままの二つの兵棋へと視線を向けた。
地図の角にあるのは、一際古びて見える黒ずんだ兵棋。
これらを暫く見つめたのち、どこか落胆したような……いや、あるいは何かを待ち望んでいるかのような表情を浮かべ、彼は個人机から離れた。
「…………」
ラーナリリオの新入隊者模擬演習。
この国では新入隊者を三部隊に分けて、自らの本陣の旗を守り他部隊の本陣の旗を倒すという、ある程度の実力を見るための簡単な演習がある。もちろん、使われる武器は殺傷性の低い模擬弾や模造剣だ。
この模擬演習は新入隊者一人一人の素質を見るためのものであって、上官たちにとって勝敗は大して気にすべきことではなかった。
が――ある人物の指揮、戦略、戦術によって一つ部隊が一切の被害なく、圧倒的な勝利を収めたという記録が残されている。
沈黙者の勝利、饒舌者の敗北。
それは当時を知る者ならいまだに覚えている、後に秘心知将となる者を示す忘れることのない言葉だ。
図書塔で読破することが叶わなかった一冊を広げながら椅子に体を沈め、今代の称号を引き継いだ男、ペレーア・トルトゥーガは静かに本の虫へと変貌した。
――ホルテンジア群島国、首都テプルシコラ
気高く、そして美しい月明かりが海面を照らす、穏やかな波の上に堂々と浮かぶ一隻の巨大な軍艦を視界の端に、男は水平線の向こうにある光景を脳裏に描く。
「そうか、力無き者たちは内に秘めたる輝きをさらに増したか」
僅かに軍用帽子の鍔を下げ、男は薄く微笑んだ。
「……だが、まだ足りない。その輝きはその者たち自身をさらなる高みへと至らせるものであるのだと、私は確信している」
始まりの光に照らされながら、統率軍士たるレーベン・ヴァールハイトは誰に語るでもなく、眼前に広がる碧海を眺めながら一人言葉を紡ぐ。
時折吹く潮風を岬の端でその身に受け、瞳を閉じ穏やかな表情を浮かべた彼は景色に溶け込み、その美しさ、優雅さはあまりにも自然かつ当然の様にも見えた。
そして理性的、冷静でありながらも、僅かばかりの狂気を孕んだような彼の思想と言動には、多くの者を惹きつけ警戒させる何かが秘められている。
不意に風が止み……
「この風は吉兆か凶兆か」
否、一際強い風が凪ぐと共に瞼をゆっくりと持ち上げ、まるでそのすべてを視ているかのような、吸い込まれそうな瞳を水平線の彼方へと向けた。
そして流れるような黄髪をなびかせながら、僅かばかりの熱が籠った音を紡いでいく。
「さて、残るは託されし者と守護者を待つばかりか。その時が訪れるのはそう遠くない……何故なら彼らはその意味を知っているからだ。その訪れが避けられぬものであるというのなら……この身すべてを賭して立ち合おう」
周囲に一切の音は無く、ただただ彼の毅然とした声だけが岬に響く。
その発言は特別ではなく。
その宣言は格別ではなく。
その宣誓は特異でもない。
それら一切はレーベン・ヴァールハイトという男にとって……
挨拶の様に日常的なものであるのだから。
――中立国アイリスオウス、大都市ミソロギア
陽の光がすべてを照らす頃、訓練に励む者や山積みの書類と奮闘する者等々は一旦それらを切り上げ、午後に備え休息を取っている。
そんな中、いまだに剣戟の音を訓練場内に響かせる者たちがいた。
「先程より! 剣の重みが! 無くなってます、よッ!」
長剣を巧みに扱い剣をいなし、刃を受けとめる彼はファナティ・ストーレン。
ケラスメリザの騎士であり、この場にはいない王女スィーネの保護者、もしくは兄のような存在。ただそれだけの男だ。
「ッ、そっちこそ! さっきから! 受けてばかり! じゃねぇですか!」
決して攻め手を緩めることなく、我武者羅に長剣を振り続けるこの者はアイリスオウスの軍人だ。
あの運命の枝を乗り越えた……ただ生き残った男、カルフ・エスペレンサ。
「はぁぁッ!」
「――ッ!」
悲鳴を上げている筋肉を奮い立たせ振り下ろす渾身の一撃と、それを歯を喰いしばり、圧されぬように全身を使いながらその場で踏ん張り、受け止める得物。
一際大きく響いた耳を劈くような音と、続いて訪れる世界が停止したような静寂。そして、十秒にも満たない短くも永い停止した世界が動き出す。
「……っ、はぁ、はぁ……はぁ……」
「くっはぁ……ふぅ……あの一撃は思った以上でしたよ」
「それでも受けきったのは貴方の実力なのだろう、カルフ」
二人は息を整えながら剣を鞘に納め、先程まで行っていた模擬戦について互いに称え合い、剣を交え、切磋琢磨する姿は長年背中を預けていた戦友の様だった。
彼らそれぞれの国内、軍での立場は決して低いものではない。
いうなれば、称号を与えられてもおかしくは無いほどの状態にはあるのだ。
しかし、カルフたちにとって今すべき事、考えねばならぬ事は強くなる一点。
今より少しでも強く。少しでも多くの人を、国を、世界を護る為に。
あの時、自分たちができなかった事を次は果たせるように。
あの時、勇ましく戦場を駆け、誇らしく去っていった者たちに胸が張れるように。
それと同時に、彼らは自分たちの強さの限界も理解している。
それは――魔憑と降魔の存在だ。
運命の枝に現れた異形の魔物。
銃弾が当たっても傷一つ、痛みすら与えれなかった異形の魔物。
あの禍々しい異形と対等に戦うには、あの憎き異形から多くを護るには、今の自分たちがどれだけ強くなろうともそれは叶わない。
それを可能とする存在あるとすれば、人の身でありながら身体能力のすべてが人のそれを遥かに超える存在である魔憑だ。
意思の強さ――それが魔憑へと覚醒する為には必要不可欠らしいのだが、彼らにはまだその兆しはない。
だがそれに対し卑屈にならず、今ある限界まで少しでも早く辿りつく為にある人に教えを請い、鍛錬に打ち込むその姿勢は紛れもない強さであり、他の兵たちの士気を大きく上げる事にも繋がっていた。
が――その張りぼての虚勢に覆われた焦燥に気付いている者は少ない。
「それじゃ、午後の訓練の為にも飯に行くとしますかね」
「確かに、教官殿のアレは空腹で乗り切れるほど甘くは――」
カルフたちが遅い昼食を摂る為に、疲労で思うように動かしにくい身体に活を入れ、食堂へ向けて一歩踏み出そうとした瞬間――ファナティの声を遮るように無情にも鳴り響く、休息の終わりを告げる恐怖の鐘の音。
それは食堂が閉まり、午後の過激な教官特別訓練が始まる合図でもあった。
その非情なる現実に二人は驚愕の声を上げる暇もなく、やけに大きく耳へ届く堅い足音の方に顔を向けると、親しみやすさと反抗させない威厳の混ざり合ったような頼もしくも恐ろしい声が響いた。
「もう来ていたのかカルフ、ファナティ。その意気は素晴らしいものだ。他の者が来るまで、特別に個別訓練をしてやろう」
灰色の髪と瞳を持つ男、ラブロ・エフケリア
朗らかな、だが歴戦の兵士の面構えをした異国から来た教官の、厚意ある熱い発言に二人は様々なものを諦め、ただ乾いた返事をするしかなかった。
平和の形は違えども、大半の者が望む平穏で素晴らしい日常。
誰もが持つ多くの種のうち、時に誰もが持ち得ない種を生まれ持つ者もいる。
それが芽吹くか否かは、環境や状況によって変わるだろう。
どのような才覚を持っていようとも、気付けなければ持っていないのとなんら変わりなく、気付けたとしても生かせる場がなければ無用の長物。
偽りの平和が終わりを告げ、運命の歯車が軋みを上げるそのとき――
芽吹く種が咲かせるものは、果たしてこの世界に何をもたらすのか。
暗き地中で耐え忍ぶ種は待ち続ける。
大輪を咲かせるそのときを……今か今かと、ただ待ち続ける。




