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これは君のパラミシア  作者: 御乃咲 司
第二節『これは死を纏う宴の奉り』
110/323

107.束の間の幸せ


 空から差す陽の光は湖面に反射し魚鱗のような輝きをみせ、肌を撫でる風には一節前の汗の滲み出るような不快さはまるでなく、穏やかで心地良いものだ、と黄丹色の鮮やかな姫百合の模様が施された着物の少女――ルナティアは思う。


 神都からそれほど離れていないはずの竹林に囲まれたこの朱い社には、彼女とその相棒しか居らず、赤の他人(ひと)が気安く立ち入って良い場所ではなかった。

 現に今も、聞こえてくるのは風が揺らす笹の音だけだ。


 これだけ美しい景色であるにも関わらず、人どころか鳥たちのさえずりも、虫の音も聞こえてはこず、動物たちの気配すら感じられない。

 綺麗な花には棘がある、という言葉があるが、ここもまた然りということだ。


 縁側に置いた座布団から見える見慣れた景色。

 澄み切った湖、青々とした竹林、深紅の花……ここを訪れた者が見れば、その美しさに心を奪われてしまうことだろう。

 だがそれと同時に、ここに漂っているのは紛れもない死の気配(・・・・)


 故にルナティアは孤独だった……それでいいと、思っていた。

 この十三年はそのはずだった……仕方がないと、思っていた。

 

 一人の男が現れた数日前までは……


「今日も、あの御方は来るのでありんしょうか」


 無意識に出た言葉に、ルナティアは胸が苦しくなるのを感じていた。

 そんなことを望んでいたわけじゃない。

 そんなことを望んでいいはずがない。

 だかもしも、我儘を言っていいのなら、最後を迎えるまで後少しの間だけ――


「あれは……初めて見る方でありんすね」


 ふと、ルナティアの思考を遮るようにその瞳に映ったのは小さな人影だった。

 たもとで口許を隠すようにしながら眼を凝らして遠くを見ると、その人影は月の使徒でも、女神の側近でもなく、ここに来るはずのない知らない少女。


 俯きながら近づいてくるその少女は目許を手の甲で拭いながら一歩、また一歩と頼りない足取りで近づいて来ている。

 着ているものから察するに、おそらく下層区域に住んでいるのだろう。


「…迷子、でありんすか」


 どうして、このようなところに迷子がいるのだろうか。

 ルナティアが朱の社に住みだしてから、こんなことは一度もなかった。

 確かに下層区域からはそれほど離れていなし、森の入り口付近なら子供たちの遊び場にもなっている。薬草や山菜、花を摘みに来る者も少なくはないが……。

 

 ともあれ、浮かんだ疑問はあるものの、その迷子の少女を放って置くことなど出来るわけもなく、ルナティアは急いで座布団から腰を上げた。

 そして履物を履くと、小気味良い音を出しながら少女の元へと小走り。縁側の浅い段差を下り、深紅の花の間を抜け、橋を渡り、蒼い光を放つ湖を横切りながら彼女は改めて思う。


 こんなところに来た者など、放って置いてもよかったのではないだろうか。

 迷子の対応など、月の使徒に任せてしまえばよかったのではないだろうか。

 

 それでもルナティアの足が止まることはなかった。

 己が慕っていた者なら、間違いなくそうしていたはずだから。

 そしてそんな姿に、いつもこの胸の奥が温かくなるのを感じていたから。


「わっちも、あんな風に泣いてることがあったのでありんしょうか」


 今になって過去を振り返るなどと、本当に莫迦莫迦しいことだと思いながらも、その口許や目許は柔らかく微笑んでいた。

 

 そして、まだこちらに気付いていない様子の少女と対面すると、ルナティアは少女を怖がらせないよう、驚かせないように優しく声をかけた。


「こんにちは。こんな所でどうしたでありんすか?」


 声をかけられた少女は俯いていた顔を上げ、目の前に現れた着物の少女を見つめながら、寂しさも一緒に吐きだすように口を開く。


「……お花……摘んで、たら……わからなく……なってた、の」


 やはり迷子で間違いないようだ。

 あとは、可能な限りの情報をこの少女から聞くだけなのだが。


「そうでありんすか。この森へは一人で――」

「……ひっく……おかーさーん、どこ~~っ!」


 はぐれてしまった寂しさが再び膨れ上がり、大きな声を上げ、枯れることを知らない涙が頬を伝って流れ落ちる。

 何とか泣き止ませようと試みるも、小さな子供というのは一度感情を爆発させればそれを収めるのは容易ではない。

 迷子の少女にルナティアの声はまるで届いていないようだった。

 

「これは……わっちには荷が重いでありんす」


 迷子に遭遇し、その子を無事に家族の元まで送り届ける光景を、今まで何度も傍で見てきたというのに、思っている以上に上手くいかないものだ。

 あの人はどう対応していただろうかと瞑目し、必死に頭を抱えながら思い出そうとしていると、最近になって馴染みになった優しげな声が耳に届いた。


「はじめまして。さっきそこで見つけたんだけど、これは君のかな?」

「ひっく……うん……プーちゃんの」


 目を開くとそこにいたのはロウだった。

 数日前から訪れるようになった、黒を纏いながらも威圧感を感じさせない彼の姿が、少女を安心させるように目線を合わせ、そっと頭を撫でながら優しく声をかける姿がそこにはあった。


 よく見ると、手には折れた花が握られている。

 そういえば確かに花を摘んでいたと言っていた。おそらく迷子の少女が泣きながら歩いているうちに、途中で落としてしまったのだろう。


「そうか、よかった。プーちゃんは今から家に帰るのかな?」

「……うん。でも――」

「なら一緒に行こうか」

「ふぇ?」

「でもその前に、この折れてしまった花の変わりに新しいのを摘んでいかないか? 綺麗な花を摘んでからお家に帰ろう。どうかな?」

「う、うん!」


 ただ迷子の少女に声をかけただけの光景だ。

 子供が迷子になるというのは、街中でも特に珍しいことではないだろう。

 迷子には一人であることを自覚させず、まずは安心させてやらなければならない。そして、必ず帰れるということをしっかりと教えてやるのだ。

 言葉にすれば単純で、簡単で……それでも少女の顔から涙が消え、笑顔になるその光景は、ルナティアの瞳にはまるで魔法のように映って見えた。


 それから少女と打ち解けたロウが、どうしてこうなったのかの経緯を聞いたところ、今日はプーちゃんの妹の誕生日だそうだ。

 確かに外界の人間は基本的に数え年だが、外見年齢が固定化してしまう魔憑まつきのいない家庭では、誕生日を祝う家も珍しいがなくはない。

 それでその贈り物をするために一人で花を摘みに来たところ、いろいろなものに釣られてどんどんと奥へ奥へと進むうちに、帰り道がわからなくなったそうだ。

 なんとも子供らしい理由だが、温かい話だ。


 一先ず状況を把握し、プーちゃんが完全に落ち着いたのを見計らって、ルナティアは頭を下げながら安堵と感謝の声を漏らした。


「正直なところ助かりんした。ありがとうございんす」

「これくらいなんてことはない。ルナティアもあんな風に戸惑うんだな」

「そ、その……わっちはあまり子供の相手(こういうこと)が得意ではないのでありんす」


 穏やかに微笑むロウを前に、自らの弱みを晒してしまった気恥ずかしさで、ルナティアは袂で口許を隠しながら顔を逸らしてしまった。

 だがすぐに、ほんのりと赤らんだ顔をロウへと少し戻しながら、


「あまりにも自然にその子を送り届けてくれることになっていんすが、本当によろしいのでありんすか?」

「あぁ、もちろんだ」


 ロウはそれが当然であるかのように即答し、温かな眼差しを少女に向けた。

 プーちゃんはすでに元気を取り戻し、新しい花を探してその辺を走り回っている。今しがたまでそれが理由で迷子になり泣いていたというのに、子供とは悪く言えば単純だが、良く言えば本当に逞しいものだと思う。


「泣いていた子を放ってはおけないからな」


 これほどまで面倒臭さを微塵も見せず他人ひとの為に、それも当たり前のようにその身を動かせる者が、世の人の数に対していったいどれほどいるだろうか。

 月国ですら今の様な状態にあるのに、ましてや外界各国の複雑な事情を鑑みれば稀有な存在であるのは確かだ。


 そんなことをルナティアは思いつつ、少女を見つめるロウの横顔を覗き見ながら、彼女の口許は小さなの微笑みを零していた。

 

 しばらくすると、プーちゃんが手に白い花を持って走り寄ってくる。


「綺麗なのみつけたの!」

「白い彼岸花?」

「ふふっ、よく見つけたでありんすね」

「うん! お家の近くで寂しそうにしてたから、これにする!」


 彼岸花を贈るというのも縁起が悪いような気もするが、ロウがルナティアへ視線を送ると、彼女は嬉しそうに口許を緩めていた。

 贈り物は気持ちが大切だというし、子供であれば尚更そうだろう。ルナティアも口を挟むつもりはないようだし、プーちゃんが自分で選んだのでばきっと気持ちは伝わるはずだと、そう思いつつロウは次の行動を提示した。

 

 しかし、何気ないその発言がルナティアを困惑させ、悩ませることに繋がるとは誰も思ってなどおらず……


「それじゃあ、プーちゃんの家まで行こうか。ここからはそれほど離れていないし、お母さんが心配する前に帰ろう」

「うん! おねぇちゃんもいこ!」


 ロウはすでにプーちゃんと手を繋いでおり、少女は白い花を服の内側に仕舞いながら、その空いた手を無邪気な笑顔と共にルナティアへと差し出していた。


「……っ」


 この手を取れば二人と一緒に、竹林に囲まれた此処から出ることになる。

 そしてプーちゃんは無事、家に帰ることができるだろう。


 しかし自分がこの手を取らずとも、ロウがいれば少女は家まで帰ることができるのだから、自分が行く必要はないのでは……と、ルナティアは思う。

 そして今までのように、この天に向かって伸びる、檻のように湖と社を囲む竹林の中で、静かにそのときが来るのを待っていればよいのではないかと。


 だがそれでも、こう思ってしまったのは自分の紛れもない弱さだろう。

 せめてもう一度……一日でなくとも、一時間でもいい。

 檻の外を、大切な想い出が残るこの神都を……

 瞳に、心に残したいと想うのは欲張りなのだろうか……我儘、なのだろうか。


 その問いに答えてくれるものはおらず、彼女自身の意思で答えを出さなくてはならなかった。


 笑みを浮かべていた少女も自分の手が取られないことに疑問を思い始めたようで、首をかしげながら不安そうにルナティアを見つめている。

 ロウは元より、ルナティアに自分で決めさせるつもりだったのだろう。何も言わず、いつも通りの優しい微笑みを浮かべたままだ。


 放っては置けないから声をかけたはずたったのに、今はロウにすべてを任せようとしている。

 ルナティア自身を取り巻く境遇を考えれば、それは何も悪くはないのだろう。

 そして、万が一にもロウがその事情を知ったとしても、迷子の少女をロウ一人に任せてしまったことを咎めたりはしないはずだ。


 悩み、葛藤し、自問自答を繰り返し、困惑する己の心の内に渦巻く感情が、思考が彼女をさらに悩ませ、正確な答えのない問題の解答を探し続ける。


(わっちは……わっちはどうしたら……っ)


 そんな悩みの渦に巻き込まれたルナティアの手が不意に、温かく柔らかい感触に包まれていた。

 驚いたように視線を下げると、プーちゃんの方からその手を繋いでいたのだ。

 当然プーちゃんの手はルナティアよりも小さく、力も大人のように無いはずなのに、その手は決して離れないようにしっかりと握られていた。


「おねぇちゃんも、はやくいこうよ! おかーさんがつくるケーキはおいしんだよ! みんなでたべよーよ!」

「わ、わっちは……」


 最早、どちらが迷子なのかわからなくなるほどに、元気づける側と困惑する側の立ち位置が綺麗に入れ変わっていた。

 そんな二人の様子を微笑みを浮かべながら見守っていたロウが、いまだ戸惑う迷子・・の背中を押すように何気ない言葉をかける。


「たまには竹林の外を散歩するのもいいんじゃないか? ルナティア」


 何気ないその言葉はルナティアに心に染みわたり、絡まった糸を優しく解きほぐすように、悩みの渦を穏やかなものへと変えていった。


 開き直ったというわけではない。

 だが、先程までの困惑した表情はすでになく、ルナティアは自然とプーちゃんの手を握り返していた。


「そうでありんすね。たまには、違う散歩道もいいのかもしれんせん」

「やったー! ケーキ、ケーキ、おかーさんのケーキ!」


 人生という短くも長い時間の中で、同じことの繰り返しがずっと続くと、退屈さを通り越して感覚が麻痺してしまう。

 そんな時に訪れた迷子の少女は、いつもとは少し違う人生を、生きているという実感を教えてくれる、最後の幸せ(キューピッド)だったのかもしれない。


 そう思うと、ルナティアの中に込み上げてきたのは感謝の思いだった。

 さすがに一緒にケーキを食べるわけにはいかないが、それでもこの我儘を叶えてくれた少女を笑顔のまま、きちんと送り届けてあげなければ。


「それじゃあ、行こうか」

「うん!」

「い、いきなり走ると転ぶでありんすよ!」


 そこに涙は無く、それは明るい日常の何気ない一コマだった。


 プーちゃんに引っ張られるような形で、ロウたちは竹林を抜けて森へと差し掛かり、それも抜けて居住区画の方まで駆けてきた。

 突然走り出したせいかルナティアは少し息が上がっており、僅かに汗ばんだ白い肌が覗くはだけた着物を着ていることもあってか、独特の艶やかさがさらに増したように見える。

 残る二人がまったく疲れた様子を見せていないのが、彼女からすると若干納得のいかないところではあるようだが。


「走るのはしばらく御免でありんす」

「そうだな、プーちゃんの話だとここからもう少し歩いた先に――」

「きいろいやねなんだよー!」

「そうらしいからな」

「もうひと踏ん張りでありんすね」


 そこからロウたちは、プーちゃんの家までゆっくりと歩いて行った。

 

 ルナティアは久しく見ていなかった、触れていなかった外の空気に落ち着かない様子ではあったが、徐々に懐かしむように、慈しむような表情を見せていた。

 遊んでいる子供たちの声、人々が生活しているという活気、そして、視線を上げれば見えるこの神都の象徴たる月光殿げっこうでんセレネ。

 それを見つめるルナティアは、いったい何を思うのか。


 その後は何事もなく、無事にプーちゃんを家まで送り届け、一緒にケーキを食べようという少女をなんとか宥めきると……

 名残惜しくもこの幸せなひと時は幕を下ろした。……はずだった。

 

「……え?」

「もう一人、迷子を送り届けないといけないからな」


 珍しく情けない呆けた声を漏らしたルナティアの、さっきまで小さな少女と繋いでいたはずの手が、今度は大きく逞しい手に優しく包み込まれていた。


「あ、あのっ……迷子とは、わっちのことでありんすか?」

「嫌なら離すが」

「――っ、い、いえ……」


 袂で顔を全体を覆い隠しながら、ルナティアはか細い声で言葉を返した。


 帰り道なら知っている。迷うはずがない。

 なのに迷子を送り届けるとはいったいどういう了見か。

 ロウのそういった、心の中を見透かしたようなところが――


「いこうか」

「……はい」


 表情を見せず、小さな声でルナティアが答えると、二人は歩き出した。

 相変わらずルナティアは袂で顔を覆い隠したままだ。

 二人の間に会話はなく、ルナティアの履物の小気味の良い音だけがカラン、コロンと響いている。

 

 そうして、何も知らないロウは彼女の手を引いて送り届けていく。

 美しくも孤独で、寂しげな朱の社へと。……死の漂うあの場所へと。

 袂に覆い隠された顔の、眼の奥から熱く込み上げる何かに気づきながら。


 そうして、すべてを受け入れたルナティアは彼に連れられ帰っていく。

 死が満ちたあの場所へと。……それでいて、美しい朱の社へと。

 袂で覆い隠した顔の、眼の奥から熱く込み上げる何かをひた隠しながら。

  






 一方――内界、中立国アイリスオウス、ミソロギア。


 ロウが死の宣告を受け、その日まで残すところあと僅かとなった頃。

 内界はというと、ケラスメリザ王国のパソス国王がその娘であるスィーネと、騎士団長であるファナティを連れ、ミソロギアへと足を運んでいた。


 議事堂に広がる庭園の中心には大きな四角い石が置かれ、そこには多くの名が刻まれている。

 ここはそう、運命の枝(クライシスデイ)で勇敢に戦い、散った者たちの眠る場所だ。


 パソスは自国の神より送られたと伝わるフォックスフェイスの花と、アイリスオウスに伝わるアヤメの花を織り交ぜた花束をそっと置くと、両手を合わせ、静かに両眼を閉じた。


「勇敢なる兵士たちよ。どうか、安らかに……」


 黙祷もくとうし、しばらくの時間が過ぎると、後ろから数人の足音が聞こえてきた。

 パソスたち三人が立ち上がると、歩きて来ていたのはゲヴィセンとロギ、それにタキアとカルフの四人だ。


「出迎えもできずにすまぬな、パソス」

「よい。久しいな、ゲヴィセン」


 言って手を差し出すゲヴィセンと、パソスは握手をしながら挨拶を交わした。

 旧知の仲と言うだけあり、ゲヴィセンの口調もパソスの前では砕けている。

 そしてパソスはロギへと視線を向けながら、


「ロギも息災であったか」

「はい、最後に会ったのは姫がまだ十の時でしたか。姫も大きくなられました」


 そう微笑むロギの言葉に、スィーネは丁寧に頭をさげた。

 そんな中、パソスはゲヴィセンたちの後ろで佇む二人へと視線を移す。

 

「貴公らは……」

「はい、カルフ・エスペレンサと申します」

「私はタキア・リュニオン。お目にかかれて光栄です、陛下」

「うむ、これは我が娘の」

「スィーネ・ヴァスリオです。お見知りおき下さい」

「私は王都クレイオで騎士を努めております、ファナティ・ストーレン。どうぞよろしくお願い致します」


 皆が自己紹介を終えると、皆の心に満ちたのは悲しみと寂しさだった。

 パソスもスィーネもファナティも、カルフとタキアの名は知っていた。

 そしてカルフとタキアもまた、彼ら三人のことは知っていた。

 だが、直接会ったのはこれが初めてのことだ。


 知っている理由はここにはいない男――フィデリタス・ジェールトバー。

 彼の話を聞き、互いに互いがどういう人間であるのかを知っているにも関わらず、こうして顔を合わせたこの場に、それを教えてくれた彼はいない。

 

 すると、パソスは哀切な色を浮かべた瞳を向け、静かに声を漏らした。


「ロウにも聞いたことではあるが、あの男が逝くとは……残念だ。フィデリタスは自分の立場を驕ることなく、時には厳しく、胸に熱いものを秘めた男であった。トレイトと直接話したことはなかったが、その力は我が国でも一目置かれていたところだ。他の兵たちも、臆することなく立ち向かった誇り高きその雄姿……尊敬に値する。実に、立派であった……」

「そう言ってもらえると、皆も喜ぶだろう」


 パソス同様哀切な色を瞳に宿しながらも、ゲヴィセンは嬉しそうに微笑みながら、勇敢なる戦士たちの眠る墓石を見つめた。


「フィデリタスはよく自慢しておった。ミソロギアには優秀な者が多いとな。貴公らのことも言っておったぞ。タキアは固いところはあるが部下をよく見ており、皆を纏めるのが上手であると……」

「そう……ですか……」

「カルフ。貴公はそうだな……」


 パソスは遠い記憶を思い出そうとするかのようにその目を細め、膝を折りながらそっと墓石に手を触れると、子供の頭を撫でるような手つきでその表面をなぞった。

 

「自分の意思を次ぐのはカルフ、貴公であると。自慢の息子だと……そう言っておった。よい歳をした男が、まるで子供のような笑顔を向けてな」


 その言葉を聞き、カルフは自分の意思と関係なく零れた涙に気付くと、慌てて目許を強くこすり付ける。


「す、すみません。お、俺は……っ」

「カルフ様……」

「……」


 悲しげに彼を見つめるスィーネの横で、ファナティは辛そうな面持ちで目を瞑りながら視線を逸らした。

 軍人とはいえ、誰かの前で涙を見せることは決して恥ではない。

 泣きたい時に泣き、笑いたい時に笑う。それが人の本来あるべき姿のはずなのだから。

 運命の枝(クライシスデイ)の凄惨さを知って、この涙を誰が責めることができるだろうか。


 パソスはゆっくりと立ち上がると振り返り、真っすぐな瞳をカルフに向けた。

 

「散った多くの者たちのためにも、我らは決して負けるわけにはいかぬ。カルフよ、フィデリタスから受け継いだ意思を、ロウから授かった降魔こうまとの戦い方を、是非とも我らにもご教授願いたい。聞き入れてくれるか?」

「――っ! はいっ!」


 赤くなった瞳に強い光を宿し、カルフは力強く頷いた。


 この後、パソスとスィーネと入れ違いに、選ばれたケラスメリザの騎士たちがミソロギアへと訪れることになっている。

 微々たる力ではあるものの、少しずつではあるものの、内界は動き出していた。

 偽りだったこの世界の平和を……今度は偽りなく取り戻すために。


 …………

 ……


「今頃ロウ君たちはどこにいるんだろうね」

「さぁね。タキア隊長が陛下から聞いてくれてたらいいのだけれど」


 キャロがぽつりと声を漏らした横で、エヴァは書類の整理をしていた。

 運命の枝(クライシスデイ)以降、エヴァとキャロの所属は変わり、今は総合管制部隊第一小隊長であるタキアの元、忙しい日々を送っている。

 元々そんなに目のよくなかったエヴァは、普段から眼鏡をかけなければならないほどではないものの、書類整理の時は眼鏡をかけて作業をしていた。

 

「それより手が止まってる」

「おっと」


 指摘され、キャロは止まっていた手を動かした。

 

「ねぇ、エヴァ……」

「どうしたの?」

「ぼくたちこれでいいのかな?」

「私たちの今できることはこれだけよ」

「……だよ、ね」


 キャロが悲し気に微笑むと、エヴァは思い詰めたような表情を浮かべながら眼鏡を外し、憂いを帯びた吐息をそっと漏らした。

 そんな彼女の中にあったのは、虫の知らせとでもいうのだろうか。

 どうにもここ最近になって落ち着かない……嫌な予感がするのだ。

 ロウたちの身に危険が迫っているような、根拠のない、しかし大きな不安。


 だからずっと悩んでいた。

 キャロと同じように、本当に自分たちはこのままでいいのか、と。

 ならば、その気持ちを後押しするように虫の知らせが届いた彼女たちのとった行動は、必然だったのかもしれない。


「はぁ……これは言うべきかどうか迷ったのだけれど……」

「なに?」

「一つだけ、もしかしたらロウたちの助けになれることがあるかもしれない。力を持たない私たちでも、って言ったらどうする?」

「……」


 キャロはぴたりと手を止めると、何も言わずにエヴァを見つめた。

 たとえ言葉はなくとも、その瞳が何よりも強く物語ってる。

 迷いなんてありはしない。迷う必要なんてない。……そう、強く。

 

「そうよね。……旅に出ましょ、キャロ」

「え? 旅?」


 あまりにも突拍子もない言葉、予想外するぎるそれに、キャロは目を丸くしながら間抜けな声で問い返した。

 しかし、エヴァは至極真面目な表情ではっきりと告げた。


「神話を集めるのよ。各地に伝わる神話を集めて、一つにするの」


 ロウたちが旅立った後、エヴァは仕事の合間を縫って神話について調べていた。

 ずっとそれがそういうものだと、当たり前だと思って気にも止めたことがなかったことだが、調べていくうちに今だからこそ感じる違和感が幾つも浮き彫りになってきたのだ。


 たとえば、神話に関する文献に著者は記されているものの、神話を題材とした絵本には一つとして著者が記されていないこと。その代わりに記されているのが【777】という数字であること。

 そしてたとえば、歴史の古い他国とは違い、歴史の浅いこのアイリスオウスにも神話の綴られた碑文があること。

 

「これは本当にただの違和感で、ただそういうもので意味なんてないのかもしれないのだけれど……どう思う?」


 そう言って視線を落としながら差し出したのは、エヴァがゲヴィセンに聞いて手帳に書き記したこの国の碑文の内容だった。



【碑文:ディザイア神話】――――――


 此は英雄の詩

 幾百もの古に栄えし七つの大国在りて

 その国の民、希少なる理を用いる

 此の者、魔憑といふ

 異界から訪れし者

 目醒めの時、神の力を示す

 神の御使いが舞い降りた時

 世界に命を喰らう異形が顕れる

 此の異形、降魔といふ

 共に顕れし人ならざる者は、共存の道を選ぶ

 異界よりの神は七国の勇ましき者、人ならざる者と共に駆ける

 迫り来るは十二の苦難

 闇よりの贈物、討滅せし孤高、不測の事象、

 天上への軌跡、穢域への行軍、不遜なる王、

 幾多の不条理を嘆き、悔い、乗り越え

 弱き者に救いを差し伸べた先にあるものは、英雄の輝き


 ―――――――――――――――――



 その手帳をじっと眺めながらキャロは頭を捻らせた。


「どうって言われても……」

「それじゃあ、次のページなのだけれど……」


 そう言って手帳を捲ると、そこには再び同じようなことが記されている。



【碑文:ディザイア神話】――――――


 これは英雄の物語

 数百年以上前から栄えた七つの大国

 その国の民は不思議な力を持っていた

 この力を扱う者のことを魔憑と呼んだ 

 異界から訪れた英雄は

 自らの力に目覚め、神の如き力を示す

 新たな神の力を授かりし者が現れた時

 世界中に人を喰らう魔物が次々と現れた

 この魔物を降魔と呼んだ

 それと時を同じくして現れた人外の者は、平和を求めた

 神の如き力を持った英雄は、七国の勇敢なる戦士たちと、人外の者たちと共に降魔と戦った

 乗り越えるべくは十二の試練

「闇よりの贈物、討滅せし孤高、不測の事象、

 天上への軌跡、穢域への行軍、不遜なる王、」内容は所説ある

 多くの罪なき命が奪われたことを嘆き、後悔し、それでも乗り越え、

 傷ついた民草に手を差し伸べた先の未来にあるのは、英雄がもたらした安寧


 ―――――――――――――――――



「これならわかるよ。普通のディザイア神話じゃん」


 それはキャロも、というよりも、皆がよく知る神話の物語の簡易版だった。

 碑文を単にわかりやすく学者が解釈したものではあるのだが、問題はエヴァが書き足している、内容は諸説ある、の部分だろう。

 これに対する見解は様々で、結局のところエヴァにとっても納得のいくものが見つからなかったのだ。


「そうなんだけど、おかしくないかしら? 十二の試練のはずなのに、ここに記されているのは六つ」

「そういえばそうだね」

「最後の、英雄がもたらした安寧というのが仮にこの世界の偽りの平和を指しているのだとしたら、この先があると思わない?」

「それが未来に起こることに繋がってかもしれないってこと?」


 首を傾げたキャロに、エヴァは小さく頷いた。


「えぇ、それがロウたちの助けになるかはわからないけれど……」

「行こう、エヴァ。何もしないでここにいるより、ずっといいよ。エヴァの勘はあたるもん」

「けれど深域アヴィスがある以上、確信のないことに人手は割けない。女の二人旅よ? これから魔憑や降魔が増えるなら、途中で何が起こるかわからないわ」


 即決したキャロに、エヴァは冷静に現状を踏まえた上でそれを確認すると、キャロは首から下げた指輪のついた細い鎖を握り締め、静かに声を漏らした。


「ホーネスもローニーもね、頑張ったんだよ……」

「……キャロ」

「なんの力がない二人でも頑張ったんだよ、エヴァ」


 悲痛に揺れる大きな瞳。

 今でも鮮明に思い出せる苦い記憶。忘れることのできない深い悲しみ。

 だからこそ、エヴァはそれを振り切るように努めて笑顔を向けながら、


「だったら……その二人よりもロウたちの助けになって、先にリタイアしたことを後悔させてやらなければならないわね」

「うん……うん、そうだよ……そうだよね!」

「まずはタキアさんを説得して、議長とロギさんに話を通す必要があるわ。そのためにもとりあえず、この仕事を早く終わらせてしまいましょ」

「いっ!?」


 エヴァが眼鏡をかけ直して書類と向き合うと、キャロはあからさまに顔を引きつらせた。


「はいはい、泣き言は言わないの。早く手を動かして」

「う~……」


 そうして渋々ながら、キャロは手を動かし始めた。


 魔憑でもなく、降魔と戦う力もないただの少女。

 そんな力を持たない二人の少女の決意が、後にどういった結果をもたらすのかは誰にもわからない。……そう、それは神さえも。


 無力さに打ちひしがれるかもしれない。

 それ以前に、志半ばで散るかもしれない。


 しかし、エヴァとキャロはこのとき確信していた。

 この行動が、必ずロウたちの助けになると。

 

 何故なら、たとえ降魔と戦う力がない只人であったとしても……

 運命に立ち向かう力は、きっとあるはずなのだから。



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