98.待つ側の我儘
「――アタシがやらなきゃ、気が済まないんだ」
強い声音と共にブリジットがリンを鋭く睨みつけると、リンは一歩前へ出た。
「ロウさんたちは下がってて」
「だがこれは俺の問題だ。やるなら、俺が――」
「黙ってな。これは……アタシとリンの問題だ」
ロウの言葉を遮るブリジットの声は、まるで怒りを押し殺しているかのようだ。
「私に任せて。必ずロウさんの記憶の手掛かりを手に入れてみせるわ」
頼もしい言葉に頷くと、ロウたちは後ろへと下がって距離を取った。
「あ、あのお婆さん大丈夫でしょうか? リンさんってとっても強いですし」
「カグラ、人は見かけによらないのよ」
「二人とも大きな怪我に繋がらなければいいが……」
「事無。ブリジットは強い」
ロウたちが二人の戦いを見守ろうとする中、彼らの隣にはいつの間にか幼い少女が立っていた。身長はカグラよりも低く、百三十程度だろうか。
その容姿がクローフィに似ていることから、この少女もまた吸血鬼だと想像できる。
「き、君は……いつの間に」
「か、かわいいです」
「吸血鬼の女の子?」
「肯定。吸血鬼のロザリー。戦い、始まる」
独特な話し方をするロザリーと名乗った少女は、じっとした眠そうな目を前へと向けていた。
金色の髪に紅玉のような瞳。左右で編まれた三つ編みが頭の羽をぐるりと一周し、そこからさらりと柔らかそうな髪が肩まで流れている。
黒いドレスのようなの袖はふわりと膨らみ、上にも短いスカートにも白いレースが施されていた。そこに白いタイツと先の丸いローファーを履いた姿はまるでお人形のようだ。
ロザリーの言葉にロウたちが視線を前へと戻すと、二人はすでに構えの態勢に入っていた。
「いくわよ!」
リンが地を蹴り、一直線にブリジットへと駆ける。
対するブリジットが杖を振るうと、杖から炎の塊が三つ、リンへと向かって飛翔した。
「相変わらずだね」
「貴女もね!」
リンは手に光の魔力を纏うと、飛んできた炎塊をすべて叩き落とす。
その足は止まらず、ブリジットを間合いに捉えると、突き出すためにその拳を後ろへと引いた。
瞬間、ブリジットから凄まじい風が巻き起こり、リンの体が吹き飛ばされる。
間髪入れずブリジットが杖の先で地面を突くと、途端、空中で体勢を立て直したリンの着地点に突き出たのは氷の刃。
リンは足に光の魔力を纏うと、氷の刃を回し蹴りで砕いた。着地と同時に地面を蹴ると、足に魔力を纏ったまま駆けるその速さは、さっきと比べて段違いだ。瞬時にブリジットを間合いに捉える。
しかし、急にリンの足元の地面が高く隆起し、その体を高く打ち上げた。
ブリジットが杖を振り上げると、打ち上げられたリンに向かって走る落雷。
魔力を集めた両腕を目の前で交差させ、その雷を受けきると、リンは器用に体を捻って姿勢を変え、真下のブリジットに向かって踵を落とした。
が、それも分厚い氷壁に阻まれる。その氷壁から鋭い氷の針が突き出す瞬間、リンは氷壁を蹴りながら宙返りし、大きく距離を取った。
「ど、どういうことなの? どうしてあのお婆さんは、複数の属性が……」
魔憑は本来、一つの能力しか扱うことができない。それがシンカたちの知識だ。
そしてそれは正しい。魔憑が扱える能力は、例外はあるものの一つだけだ。
そんなシンカの疑問を解消したのは、いつの間にかいた小さな吸血鬼の少女。
「当然。ブリジットは魔女。自然系の力はお手のもの」
「……魔女?」
「肯定。吸血鬼も人狼もいる。魔女がいても不思議ない」
ロザリーは、実際眠くはないのだろうが眠そうな瞳を正面に向けたまま、表情の一切を変えることなく、当たり前のようにそう言った。
「やっぱり厄介ね」
ブリジットの絶え間ない攻撃で荒れた庭。
幾度の攻撃を凌いだ手を軽く振りながら、距離を取ったリンがぽつりと声を漏らした。
「諦めたらどうだい?」
「諦めないわ。ロウさんには待ってる人がいるのよ」
「…………させない」
ブリジットは帽子の鍔を持ちながら深くそれを被ると、消え入りそうなか細い声で呟いた。
その表情は帽子に隠れて見えないが、声に含まれる感情は複雑な色を宿していた。怒り、悲しみ、動揺、不安……そのどれともとれるような声音だ。
「……させないよ」
途端、ブリジットを濃い霧が包み込んだ。
リンは小さく舌打ちし、面倒な事になったといわんばかりに眉間に皺を寄せながら、その光景を見据えた。
するとその中から現れたのは……老婆ではなかった。
「貴女の本当の姿を見るのは久しぶりね」
「そうだろうね」
少し口許を引きつらせたリンが、ロウたちへと視線を向ける。
すると彼女の想像通り、ロウたちは驚愕に満ちた表情を浮かべていた。
(まぁ……当然ね)
視線をブリジットへ戻しながら、リンは心の中で呟いた。
濃い霧が晴れたかと思えば、老婆がいきなり若い女に姿を変えたのだから、それも当然の反応といえるだろう。
孔雀青の腰まである長い髪が地面から吹き上がる風に乗って揺れる中、尖り帽子のつばの端を持ち上げたブリジットのリンを見据えた瞳は、獲物を狙う猫科の猛獣のように鋭く光っていた。
本来の姿となったブリジットから溢れる魔力は、これまでの比ではない。
ブラッドが消えてから相手を本気で倒す時……降魔相手にしか見せなくなったその姿を見せた。その意味に、リンの額から小さな粒が流れ落ちる。
「どうしてなの? 貴女にも待つ人の気持ちが――」
「わかるから言ってるんだよ!」
初めて、ブリジットが荒い声を上げた。
「アタシはね、何も知らないアンタがその言葉を吐くのが許せないんだ!」
「私が……何も知らない?」
「そうだよ。だがね、アタシはお前さんとは違う」
「違わないでしょ? 今だってブラッドの帰りを待ってるんじゃないの? だからフォルティスだって、ずっと門の前でブラッドの帰りを待って……」
ブリジットの言葉に、リンは大きな戸惑いを見せた。
この屋敷はブラッドが住んでいた屋敷だ。
ブリジットもロザリーもフォルティスも、ブラッドにとても良く懐いていた。
そんな三人が、ブラッドの死を受け入れるはずがない。それだけはあり得ない。
だからずっとブラッドの帰りを待っていると、その想いは同じだと……リンはそう思っていた。
「フォル坊を穢すんじゃないよ。フォル坊はお前さんたちみたいに、ただ待ってたわけじゃない。約束を……あの人との約束を守ってるんだ。そんなフォル坊を穢すことは許さない」
杖をリンに突きつけると、杖の先から展開されたのは数多の文字と記号が羅列する魔法陣だ。その魔法陣から、先よりも大きな炎塊が三つ撃ち放たれる。
リンは手に光の魔力を纏うと、正面の一つを叩き落した。次に右から来る炎塊を裏拳で弾くと、背後から来る三つ目を後方に宙返りしながら回避した。
その瞬間、正面から吹く強風に乗って、躱したはずの炎塊が正面から襲いかかる。着地と同時に、魔力を纏った腕を交差させてそれを防ぐものの、その停止した体に合わせるように轟き落ちた雷がリンの体を通過し、短い悲鳴を上げながらリンは片膝を地につけた。
「諦めな」
ブリジットはそう短く告げると、展開した魔法陣を解いた。
しかし、リンは痺れる体を気合で立て直し……
「――ッ、この程度で……諦めるわけがないでしょ?」
「お前さんは本当に、あの男のことを思って言ってるのかい?」
「そうよ。ロウさんが失った記憶を取り戻すことを望んでる。だから、私は負けられない」
再び、淡く輝く光の魔力を全身に纏った。
「負けられないのよ!」
気合の声を迸らせ、一気に全身の魔力を足に集中し、駆ける。
ブリジットが迎撃に放った炎塊すべてを躱し、瞬時に魔力を移動させた拳を懐へと掬い上げるように突き入れた。
間一髪、その拳を杖で受けるものの、ブリジットの体が高く宙へと跳ねあがる。
「どうして待ってる人の気持ちがわからないの!?」
リンがブリジットの体を追いかけるように高く跳躍すると、その体を蹴り落とした。
「――ぐっ!」
小さな悲鳴を漏らしながらも風を纏い、地面に衝突するのをすんでのところで回避すると、ブリジットは杖を地面に強く打ち付けた。
地面が柱のように隆起し、リンへと襲いかかる。
「大切な人に会いたい! それがいけない事なの!?」
リンは隆起した地面を回し蹴りで破砕し、着地。
そしてすかさず掌底を懐へと打ち込むが、その先には厚い氷の壁。
「そんな、待つ人のためのロウさんの行動を!」
しかし氷壁は粉々に砕け、氷の欠片がきらきらと光を反射しながら飛び散った。
吹き飛ぶブリジットの体が、土煙を巻き上げながら地面を擦る。
「どうして……どうして貴女がそれを否定するの? ねぇ、ブリジット……」
そう問いかけた、まるで泣くのを堪えているかのようなリンの表情は、心の痛みをそのまま表しているかのように、とても悲しげなものだった。
その胸にあるのは寂しさを含んだ戸惑いだ。
同じ想いを持っていたはずだ。自分と同じように、誰かを待つ人の気持ちを、誰よりも知っているはずだ。それなのに、どうして……。
ブリジットはゆっくりと起き上がり、僅かにふらついた足取りでリンへと歩み寄っていく。
そんな彼女を前に、リンは魔力を手に纏って身構えた。
この程度で倒れる玉ではない。これで倒れてくれるような簡単な相手ではない。
ブリジットの力の奥底を、リンは知っている。
だが、そんなリンに対してブリジットがとった行動は……攻撃ではなかった。
カランッ、と虚しく響いた音。
手にしていた杖を地面の落とし、ブリジットはリンの襟元を両手で力強く掴んだ。そして、リンの耳に届いた声は酷く掠れたものだった。
「お前さんは……ただ自分の欲を叶えたいだけなんだろ? あの男が記憶を取り戻し、あの男を待つ者の笑顔を見て、自分と重ねたいだけなんだろ? そうして、お前さんたちの隊長もいつか帰ってくると、そう信じたいだけじゃないのかい?」
確かにそう取られても不思議はない。
事実、リンがスキアからの報告を受け、ロウの記憶の話を聞いた時にそういった感情があったことは否定できない。しかし、それはそのときの話だ。
月浮島でのシンカとカグラの涙を見て、ロウの決意を聞いて、今なら断言できる。
だからリンは毅然とした声で、その思いを口にする。
「違うわ。私は本当にロウさんの手助けがしたいの。待つ人がいるのなら、記憶を取り戻すことも悪いことじゃないはずよ。確かに嫌な記憶だってあるけど、きっといい記憶だってあ――」
「違う!」
叫んだブリジットが、リンを強く地面に押し倒した。
襟元を強く握ったままのその手は、内に宿す感情を堪えるように小刻みに震えていた。
「すべてがそうとは限らないんだよ!」
悲鳴交じりの震えた声。
顔を上げたブリジットを見て、リンの手から魔力が消える。
このとき……リンは目の前の光景が信じられないでいた。
ブリジットの顔はぐしゃぐしゃだった。涙を堪えようとしても、自分の意思とは裏腹に次々に溢れ出る涙。抑えることのできない素直な感情が、素直な雫となって次々に流れ落ちる。
こんなブリジットの姿を見たのは――七年振りだった。
「……ブリ……ジット?」
「いい記憶だって? 思い出す度に胸が痛むこの記憶が……いい記憶なのかい? あの人の笑顔も、温もりも、優しさも、全部全部全部っ! 思い出す度に痛いんだよ……」
「貴女だってやっぱり――」
リンの言葉を遮ったのは、言葉ではなかった。……胸に響く感触。
そして、胸を叩かれたのだと感じた瞬間、再び聞こえる濡れた叫び。
「過去が幸せとは限らない! たとえ過去にどれだけいいことがあったとしても、それすら……それすら本当にちっぽけになるほどの嫌なことだってあるんだよ! それを思い出して欲しいなんてのは――待つ側の我儘だッ!」
何度も何度もリンの胸を叩くが、ブリジットの力は大した強さではない。
それなのにこのとき、リンの心は裂けるように痛かった。
何度もナイフで突き刺されるような、そんな感覚が途切れない。
どうして、こんなにもブリジットが必死なのか。
それはまるで、誰かとロウを重ねているかのようで。
それはまるで、彼女の大切な人が記憶を失った経験があるかのようで。
ずっと昔からブリジットを知っているリンですら、わからないその彼女の想いに、リンは戸惑っていた。
「どれだけ大切でも、どれだけ会いたくても、我慢するべきことだってある! 協力することが、相手を大切だと思う証明にはならない! 大切な人を待ち続けることが、愛することの証にはならない! 傍にいることが、相手のことを大切に思うことにも、愛することにもならない! なのに……なのに、どうして――」
最後に一度、ブリジットが弱々しくリンの胸を叩くと、その手はやっとその動きを止めた。そして……
――どうして……アンタがここにいるんだい。
ブリジットの涙で崩れた顔に揺れる瞳が、まっすぐにロウを捉えた。
その哀切の色を濃く宿した瞳に、ロウの心臓は強く脈打っていた。
ブリジットの涙に、なぜか後悔の念が押し寄せる。
眼鏡についた魔石の力があるのなら、今のロウを見ても違う容姿に見えているはずだ。
なのにどうして、ブリジットはロウの顔を見てそんな顔をするのか。
魔石の力で変わった容姿が、たまたまブリジットの知る誰かに似ていたのか。
否、それはこの眼鏡をかける前のロウを、ロウとして認識していたからに他ならない。
ロウがその意味を問いかけようとした時、ブリジットは内に秘めた想いを振り切るように視線を逸らした。
「くそっ……なんで……なんでだっ! なんでなんだよっ!」
行き場のない感情。悔しさに満ちた声。どうしようもない自分への苛立ち。
再び腕を振り上げ、それを振り下ろした瞬間、ブリジットの腕はぴたりとその動きを止めていた。
「ブリジット……もういいだろう」
静かに諭すような声。
ブリジットの服の袖を噛んで止めたのは、フォルティスだ。
「……フォル坊」
小さく呟き、リンの上から退くと、ブリジットは杖を拾ってゆっくりと立ち上がった。
そして涙を拭い、戸惑うままのリンを見下ろした。
「アタシは……アタシたちはあの人との約束を守り続ける。ただ……それだけだよ」
リンは何も答えられなかった。
ブリジットの悲鳴のような言葉が、苦痛に歪んだ顔が、涙まみれの悲痛な想いが、脳裏にこびりついたまま離れない。
彼女を深く知っているはずなのに、まるで知らない誰かと話しているような感覚だ。……何もわからない、何も理解できない。
七年前、ブラッドがいなくなってから、屋敷から笑顔が消えた。
それ以来、屋敷に住んでいた者たちが変わってしまったのは知っている。
しかし、それでも宿した想いは同じだったはずなのに、なのに……なぜ。
リンの思考が追い付かない中、途端、この場の誰もが感じた禍々しい魔力。
それにいち早く反応したのは、この屋敷の住人たちである三人だった。
フォルティスはすでに駆けだしている。
「っ! なんでこんなときに……ロザリー!」
ブリジットはロザリーに声をかけると、急いでフォルティスの後を追いかけた。
「了承。殲滅する」
「待ってくれ」
ロザリーも後を追おうとするが、ロウの声に足を止めて振り返った。
「これは、魔門が開いたってことなんだよな?」
「肯定。ここは危険。今日はもう、帰るといい」
そう言い残し、ロザリーがその場を離れると、
「ロウ、どうするの?」
「俺は行く。シンカとカグラはリンさんを頼む。ブリジットさんと戦ってから、様子がおかしい」
「き、気を付けてくださいね」
カグラの言葉にロウは頷くと、フォルティスたちを追いかけた。
ロウを見送り、シンカとカグラがリンへと駆け寄ると、彼女は力無く地面に座り込んだままじっと俯いていた。
「……リン、大丈夫なの?」
「……」
「リン?」
「……え? え、えぇ……大丈夫よ。ごめんなさい……」
口ではそう言ったものの、リンの心はここにはなかった。
ブリジットの表情が、言葉が、頭の中を支配する。
今のリンはまともに戦える状態ではない。
シンカたちにはそう見えたが、しばらく経ってからリンは立ち上がると、首を左右に振って気持ちを切り替えた。
そして強く自分両頬を叩くと、シンカたちへと視線を向けた。
「私たちも行きましょう。この数は……少し異常だわ」
リンのことは心配だが、先行したロウたちのことも気になる。
シンカとカグラは同時に頷くと、ロウたちの後を急いで追いかけた。
「……お待ち下さい」
立ち上がろうとするブフェーラを、セレノが静かに呼び止めた。
ちょうどそのとき、クローフィの持つ伝達石が淡く発光し、小さく震える。
「緊急なのだろう。出てかまわないぞ」
許可を出したヴィアベルにクローフィは頭を下げると、伝達石に魔力を流した。
「何事ですか? 今は会議中ですよ」
『も、申し訳ございません。下層区域の魔扉が開きました。現在、現れた降魔の数はおおよそ八十から百。中にはデューク級の反応も見られますが、デューク級を相手にできる使徒はエパナス様の指示で皆出払っており、このままでは被害が……』
伝達石の向こうからは、少し焦燥を帯びた声が聞こえてきた。
確かに下層区域の魔扉が開きやすいとはいえ、魔扉の規模にしては序盤からの出現数が多すぎる。この勢いなら、最終的にはかなりの数になるだろう。
しかしそれ対し、セレノは問題ないといわんばかりの冷静さで答えた。
「何もせずとも大丈夫です。そのまま、降魔の反応を確認していてください」
『で、ですが』
「くどいぞ、そのまま待機だ。いいな?」
『り、了解しました』
リコスの言葉に対する応答を確認すると、クローフィはその通信を切った。
「大変失礼いたしました」
謝罪するアルテミスに続いて、クローフィとリコスも腰を折って頭を下げる。
「いえいえ、お気になさらず」
「しかし、本当によいのか? 今の月国にデューク級を相手にできる者がいるとは思えんがな。無理をせずここは帰ってはどうだ? ランキングには入っておらずとも、そこの二人なら相手にもできよう」
気遣うように微笑むアルバとは違い、ブフェーラは皮肉めいた声でそう告げた。
月国にも深域がある以上、デューク級を相手にできる者がいないはずがない。確かに序列の最下位にあるとはいえ、月国にも深域から国を守るだけの力を持つものはいる。
――神魔総位……神の名の下に魔を討滅する総合順位。
それは外界全国共通の対降魔戦での格付けだ。
相手にできる降魔の階級、多数に対する殲滅力、長期戦を想定しての持続力、魔力総量等、つまりは九つの惑星とその者の実績。そのすべてを総合して神魔総位は決められている。
各国の深域を監視している二桁を持つ者の強さはそれなりのものだが、中でも上位三十位内に入る討滅せし者の力は別格だ。
単純な目安として、二十位代は複数のデューク級を同時に相手にできるとされ、十位代はキング級を相手にしても善戦できると言われてる。
一桁に関しては完全に例外だ。十位と九位でさえも、その力の差は凄まじい。
エンペラー級を相手にできるとすれば、彼らだけだろう。
その二桁を持つ者も、それほど数は多くないにしても、現在の月国にだってそれに含まれている者はいるのだ。
とはいえ、上位の部隊は深域を離れるわけにもいかず、デューク級を相手にできる上で今動ける部隊が出払っているのも確かだ。
しかし、そのことをセレノたちが把握していないはずもない。
「お気遣いには感謝します。ですが、こちらのほうが重要ですので」
冷静に答えると、ブフェーラは面白くなさそうに視線を逸らした。
「こちらの都合で脱線しましたが、話を戻させて頂きます。年に一度の序列を決めるための催しが、もうすぐ開催されます」
「それがどうした?」
ブフェーラの声には僅かばかりの苛立ちが含まれていた。
一度たりとも、微塵も表情を崩さないセレノがやはり面白くないのだろう。
しかし、そんな彼女が次に発した言葉は、誰もが衝撃を受けるものだった。
「そこで、我が月国が序列を覆しましょう」
訪れる一瞬の静寂。
途端、一斉に起こる笑いの声、声、声。
セレノの発言に対し、それまでずっと黙していた従者が笑いを堪えきれずいる始末だった。
「もう数え切れぬほどの長い年月を、最下位で満足していた月国が? 笑わせてくれる」
言ったブフェーラの言葉に、笑いが一層大きくなる。
そんな嘲笑が響く中、ヴィアベル、アルバ、イグニスの三人は真っすぐにセレノを見据えていた。
それと同様に、笑っていない者があと一人。
イグニスに仕える従者のみが、今のセレノの発言の意味を理解したかのように、笑うことなくじっと佇んでいる。
「陽神殿の従者はよくできているな。羨ましい限りだ」
「勿体ないお言葉です」
そう口端を上げたヴィアベルに、イグニスの従者が綺麗な姿勢で頭を下げた。
背中まである下ろしたシナモンのような色をした髪。優し気な瞳とは裏腹に、先を見据えるような深さがある。赤い服の上には白い軽鉄鎧。細い手に似合わない鉄籠手。白の膝丈ほどのスカートからは黒いスパッツが覗いて見える。
軽鎧には似合わないはずの柿色のカチューシャも、彼女にはよく似合っていた。
浮かんだヴィアベルの微笑みが消え、彼女は呆れたような溜息を吐くと、残念だといった思いを含んだ声音を漏らす。
「お前は表に出ていろ」
「ははははっ……え?」
笑っていたヴィアベルの従者が、笑いを止めて首を傾げた。
その言葉がよもや、自分に向けられたものだとは思いもしなかったのだろう。
「何度も言わせるな。我が国の恥を晒すなら、出て行けと言っている」
「貴方もですよ。連れて来た者を間違えましたねぇ。何分、急な招集だったので……とは言い訳にもなりませんが、とんだ失礼を」
ヴィアベルに続き、アルバが自分の従者に表へ出るように告げた後、セレノへと謝罪の言葉を口にした。
「し、しかし! ――ッ、お、表でお待ちしています。失礼……致しました」
納得いかない様子で反論しようとしたが、アルバの目を見た瞬間に言葉を詰まらせ、大人しくそれに従った。
ヴィアベルとアルバは元々、従者を連れて歩くのを好まない。その上、今回は急な招集でいつもの従者がいなかったため、違う者を連れて来ていた。
彼らは任務も真面目にこなし、優秀といえば優秀なのだが、どうやら他国への礼儀というものが欠落していたらしい。……他国、というより月国に対してか。
二人の従者が表へ出たあと、口を開いたのはブフェーラだ。
「海神も冥神も、何を怒ることがある? さすがにこれは仕方ないだろう。責めるのは酷と言うものだ」
「……天神。貴公は本当に変わったな」
「序列一位だからと調子に乗るなよ、陽神」
とはいえ、ブフェーラとてセレノの発言の意味を、当然理解していないわけではない。敢えてそれを口にしたのは、はやり月国への遺恨が原因だった。
その溝があるのは他国も同様だが、他の神々は国としてではなく、一個人としてセレノのことは認めているのだ。
ブフェーラにしても、認めているからこそ、皮肉の一つや二つがでてくるのだが。
イグニスはそんなブフェーラを一瞥し、何も言わずに視線をセレノへと移動させ、静かに重厚な声を漏らした。
「それは、宣戦布告ということでいいんだな?」
「もちろんです」
「で、内容はどうするんです? 基本のルールは総当り。各試合内容は、序列の低い国が決めることができますからねぇ。何を選ぶのか楽しみでなりません」
「そうだな。今は裏切りの神殺しと呼ばれているが、ソティスがいた父上たちの時代では月国が最強であったと聞いている。その父上と同じ世代の月神殿の宣戦布告とあっては、このヴィアベル……逸る気持ちを隠すのも難しいというものだ」
アルバは面白そうだと両の口角を上げた笑みを零し、ヴィアベルは高ぶる気持ちを抑えることなく薄く微笑んだ。
だが、その表情は次のセレノの言葉によって反転する。
「その試合内容ですが――皆様に決めて頂いて構いません」
再び訪れる沈黙。
しかし、さっきとは満ちる空気の質が明らかに違っていた。
相手を馬鹿にする空気などではない。この緊迫した空気に含まれているものは、明らかな怒りだ。
序列を決める催しの際、序列の低い国が試合内容を決める権利を与えられているにも関わらず、それを放棄し、なおかつその上で順位を覆すと言っているのだ。
セレノの言葉が反感を買うのも無理はないだろう。
「どういうつもりだ、月神。我らを舐めているのか?」
ブフェーラの放つ怒りの滲み出た言葉。
しかし、それでも尚、セレノは冷静に言葉を返す。
「いいえ、とんでもありません。皆様の国としての強さは、もちろん知っています。その強さは前世代に勝るとも劣りません」
「だったら――」
「ですが――」
続くはずだったブフェーラの言葉を、セレノは一言で遮った。
そして、円卓についた面々の顔をゆっくりと見渡していく。
「裏切りの神殺しを輩出した国であり、現在最弱である我が国が皆様に願いを聞いて頂くとなると、それ相応の成果が必要となります。ですので、試合内容をそちらで決めて頂いた上でそれに打ち勝つことでそのとき、改めて――お願いをさせて頂きたく」
それは今のセレノが唯一、ロウたちの為にできることだった。
発言権を得て、皆へ想いを伝える為の場を設ける。
そしてその場での願い……強要するではなく、あくまで願いだ。
そこでロウたちの想いが伝わるかどうかは別にして、これが叶えば大きな前進と言えるだろう。
無理に強要しても足並みを揃えることはできない。想いを伝え、それに共感し、同じ想い胸に戦わなければ、世界を救うなど到底不可能だ。
だからこその絶好の機会。相手の有利を力で覆し発言するからこそ意味がある。
無謀ともとれるこの言葉……いや、無謀としかとれないこの言葉。
しかし、不可能を可能にするには、誰かが無理を覆さなければならないのだ。
そんなセレノの言葉に、笑って答えたのはヴィアベルだった。
「ふっ……ふふっ……はははっ! いい、いいぞ! 私は乗ったぞ、月神殿!」
「私もそれでいいですよ。面白そうですしねぇ」
「問題ない。……ソレイユ」
アルバとイグニスも同意を示すと、イグニスが後ろの従者に声を掛ける。
「こちらに」
ソレイユと呼ばれた従者が、イグニスの前に無色透明の立方体をそっと置いた。
その中では薄く赤い靄のような何かが流れ、陽国の象徴でもある燃え盛る太陽と神殿が、立体的にその内部へと精巧に彫刻されている。
――刻誓晶石……国の象徴が刻まれた誓約の魔石。
それはこの聖域レイオルデンの北側にある虹の塔。
そこにいる司法の女神に与えられた特別なものだ。
それに続いて、ヴィアベルとアルバもそれぞれに象徴たる刻印の施された刻誓晶石を、重い音を響かせながら円卓の上にごとりと置いた。
無色透明の立方体の中で流れる薄い靄は青と紫。
刻誓晶石への誓いは絶対だ。決して、破ることは許されない。
「どうした、天神殿。不服か?」
「このような無駄なことをする必要があるのかと、疑問でならないだけだ」
ブフェーラも同様に、渋々ながらも取り出した刻誓晶石を前に置いた。
「それで、地神代理の貴方の意見は?」
「い……異論はございません」
戸惑いながら、レベリオもそれに続く。
「皆様に感謝致します。では――刻誓晶石に誓いを」
月と薔薇の印された刻誓晶石を前にしたセレノの言葉に呼応し、それぞれの刻印が淡く光り輝いた。




