第10話 思い出探訪 宇部市石炭記念館と奇跡の一枚
定休日の朝。ひよりは店内の片付けをしながら、ふと窓の外を見た。
空はよく晴れていて、風も穏やかだった。
「……なんか、今日は外に出たい気分かな」
ふと胸の奥に、小さな記憶のかけらが浮かぶ。
「ねえ、今日は宇部市石炭記念館に行ってみない?」
カツ葉は湯気を揺らしながら、即座に跳ね上がる。
「御意っ! 遠征でござる!」
みそらは少し首を傾げた。
「石炭記念館……ですか?」
ひよりは二人に向き直る。
「小さいころ、おばあちゃんと行ったことがあるんだ。でも、ほとんど細かくは覚えてないんだよね。地下みたいなところを歩いたことと、高いところから景色を見たことくらいなんだけど……」
ひよりは少し照れくさそうに笑った。
「なんだか急に、久しぶりに行ってみたくなっちゃって」
三人は食堂を出て、大きな湖のほとりに広がるときわ公園へと向かった。
今回の目的は、その一角に建つ宇部市石炭記念館だった。
公園の入口をくぐると、きらきらと輝く常盤湖の光が揺れ、青々とした木々が心地よい風に揺れていた。
そのとき、ひよりはふと二人の様子に気づく。
「なんか二人とも、今日はいつもより元気じゃない?」
カツ葉は全身の湯気をいつもよりくっきりとさせながら胸を張る。
「御意っ! 拙者、いつでも元気いっぱいでござる!」
みそらは淡々と答える。
「……カツ葉さんはいつもですね。でも、ひよりさんの言う通り、確かにいつもより少し、力が満ちている気がします」
「へえ、今日はなんだか精霊の力が高まってるんだね」
ひよりは感心しながら二人の眩しい姿を見つめ、三人で湖沿いを歩いて宇部市石炭記念館へ向かった。
木々の向こうに、赤と白の鉄骨で組まれた高い展望塔が見えてきた。塔の上には、窓に囲まれた展望室がある。
ひよりはそっと足を止めた。
「……なんとなく、覚えてるかも」
細かなことはほとんど忘れていたはずなのに、展望塔の姿が胸の奥に小さく心地よく響いた。
館内に入ると、展示室には炭鉱の歴史が静かに並んでいた。
ひよりは使い込まれた採炭道具を見つめる。
「すごいね。これ、本当に当時使われてたものなんだ」
みそらは、長く使い込まれた木の柄に目を向ける。
「それだけ長い間、誰かの生活を支えるために、誰かの手に力強く握られていたんでしょうね」
カツ葉は湯気を揺らしながら叫ぶ。
「拙者もあのツルハシを装備してみたいでござる!」
「だめだよ。貴重な展示品なんだから」
「それに、カツ葉さんより大きいですよ」
「むむっ……!」
三人は笑いながら次の展示へと進んだ。
次に進んだ広い展示室には、炭鉱の街を文字通り足元から支えた『海底炭田』の巨大なジオラマ模型が鎮座していた。
この地域から沖合の海底へ広がっていた炭田を再現した模型を、みそらがガラスに顔を近づけて熱心に見つめる。
「……海の底を掘り進めるなんて、一歩間違えれば水没する危険と隣り合わせですね。この、天井を支えている格子状の鉄枠は何ですか?」
「あ、説明に書いてある。坑道の天井を支えるための、丈夫な支柱なんだって」
「御意っ! これぞ男の隠れ家、拙者の城にふさわしい頑丈さでござる!」
「城じゃないし、カツ葉のサイズならこの模型の通路で迷子になるよ……」
その先には、大人でも抱えきれないほど大きな『石炭の塊』が、まるで黒い宝石のように鈍い光を放って展示されていた。
「うわぁ、近くで見ると本当に真っ黒だね。これ、『黒ダイヤ』って呼ばれてたんだって。確かに、こうして見ると宝石みたい」
カツ葉がその黒い塊の周りを、ふんふんと鼻を鳴らしながら飛び回る。
「むむっ! ひより殿、この黒き塊からは、凄まじい『火』の気配を感じるでござる! これでカツを揚げれば、さぞかしカリッと仕上がるでござるな!」
「石炭でカツ揚げたら煙で真っ黒になっちゃうってば……」
さらに進むと、石炭の層から見つかったという大昔の『植物の化石』や、炭鉱の安全を守るための『保安関係の展示』が並んでいた。
真っ赤な消火設備や、命綱となる無線機、そして炭鉱の人々たちの命を守る巨大な送風機の写真を見ながら、みそらが静かに呟いた。
「ただ掘るだけでなく、目に見えないガスや一酸化炭素と戦うための知恵が、この道具一つ一つに詰まっているんですね……非常に興味深いです」
「御意っ! 拙者もひより食堂の保安担当として、つまみ食いをする不届き者を監視するでござる!」
「一番つまみ食いしそうなのはカツ葉だけどね」
「御意っ――!? なぜバレたでござるか!」
三人は顔を見合わせて笑いながら、展示室のさらに奥へと歩みを進めた。
やがて、再現された昔の炭鉱住宅の暮らしの展示にたどり着く。木の匂い、古い家具、小さなちゃぶ台。ひよりは、再現された小さな調理場に目を向けた。
「過酷な仕事から帰ってくる人のために、ここで毎日、あったかいご飯を作ってた人もいたんだよね」
みそらはその言葉に、静かに深く頷く。
「食べることは、生きること。それは昔も今も、何一つ変わりませんね」
カツ葉はちゃぶ台の前に回り込んで騒ぐ。
「御意っ! 拙者、この畳の上で正座してみたいでござる!」
「やめて……勢い余ってちゃぶ台ひっくり返して倒れるよ」
三人は笑いながら進む。
そして、一階の奥側にある、薄暗い『モデル坑道』へと入った。
通路に足を踏み入れた瞬間、本物の坑道を思わせる、ひんやりとした静けさが広がった。並ぶ木の支柱、低い天井、岩肌を照らす鈍い光。木枠が軋みそうな、独特の空気が漂っていた。
三人はゆっくりと歩を進める。ひよりは、通路の途中でふと立ち止まった。
「……あ」
「どうしました?」
みそらがそっと覗き込む。
ひよりはゴツゴツとした岩壁に、優しく手を触れた。
「ここだ」
「?」
「私、ここ覚えてる。おばあちゃんと一緒に来たとき、ここを歩いた。それだけなんだけど……なんか、すごくはっきりと覚えてる」
細かい会話は覚えていない。怖くて泣いたかどうかも覚えていない。
ただ、おばあちゃんとこの薄暗い坑道を一緒に歩いたことだけが、ひよりの心に確かに残っていた。
カツ葉も珍しく静かになる。
そして、少し間を置いてから、拳を握るように湯気をきゅっと引き締めた。
「御意っ! では今度は三人で踏破するでござる!」
ひよりはあたたかい気持ちになって笑った。
「うん、そうだね」
昔は祖母と歩いた地下を、今は三人で歩く。それだけで、今のひよりには十分だった。
坑道を出ると、三人はまた普通の観光に戻った。
屋外に展示されている、採炭や運搬に使われた大型機械や、長い歴史を乗り越えてきた古い設備の説明パネルを眺める。
カツ葉は再び元気いっぱいに騒ぎ始めた。
「御意っ! この巨大機械、拙者の乗り物でござる!」
「乗れないよ……」
「……乗れませんね」
エレベーターが上がる途中で、ひよりは少し息を弾ませた。
「ふぅ、結構歩いたね」
「御意っ!」
やがてエレベーターが止まり、扉が開いた。
展望室へ進むと、窓の向こうに景色が一気に開けた。
常盤湖の穏やかな水面。青々としたときわ公園。宇部の街並み。そして、その向こうに広がる瀬戸内海。ひよりはしばらく、言葉をなくしてその大パノラマを黙って眺めた。
「……ここも、覚えてる」
みそらはひよりの横で、静かに次の言葉を待った。急かすようなことはしない。
「おばあちゃんと、ここから景色を見たんだ。何を話したのかは、やっぱり覚えてないけど……うん、来てよかった」
ひよりは晴れやかに笑った。
悲しさよりも、大好きな二人ともう一度ここへ来られた嬉しさの方が、ずっと大きかった。
しばらく景色を楽しんだあと、三人はエレベーターで地上へ戻った。
記念館の外に出ると、明るい日差しが三人を迎えた。
ひよりは振り返り、赤と白の鉄骨で組まれた展望塔を見上げた。
「ねえ。せっかくだから、ここでみんなで写真撮ろうよ」
「御意っ! 記念撮影でござるな!」
ひよりがスマホを構えると、カツ葉とみそらがその両脇へふわりと浮かんだ。
「じゃあ、撮るよ」
カシャッ。
ひよりは撮ったばかりの写真を確認して――そのまま動きを止めた。
「……あれ?」
「どうしました?」
みそらとカツ葉が画面を覗き込む。
そこには、ひよりだけではなく、みそらとカツ葉の姿まで、はっきりと写っていた。
「……写ってる」
「え?」
「二人とも……写ってるよ!」
「御意っ! ついに拙者の男前ぶりが写真に――!」
「カツ葉は女の子でしょ」
ひよりが思わずツッコむと、みそらは不思議そうに自分の姿を見つめ、それから周囲へ目を向けた。
「……この場所には、豊かな自然だけじゃなくて、たくさんの人たちのあたたかい思い出が、何十年も積み重なっています。それに今日は、ひよりさんのおばあさまとの思い出と、私たち三人の新しい思い出も重なりました」
「それで二人が写ったの?」
「はっきりとは分かりません。でも……私たち自身の力も、少し強くなったような気がします」
みそらが自分の小さな手を見つめる。
カツ葉も、その場でくるりと一回転した。
「御意っ! 確かに今日は、いつも以上に力がみなぎっているでござる!」
ひよりは、三人並んで画面に映る大切な写真を見つめた。
「思い出の力、かぁ」
昔ここへおばあちゃんと来た記憶。
今日三人で楽しく歩いた記憶。
二つのあたたかい時間が同じ場所に重なり、何かがほんの少し変わった。
そんな気がした。
ひよりは、青空の下に広がるときわ公園へ目を向け、嬉しそうに言った。
「ねえ。今度は記念館だけじゃなくて、また三人で公園の方も回ってみようか」
「はい、いいですね」
みそらが優しく微笑む。
「お弁当も、たくさん作ってさ」
カツ葉は湯気を大きく揺らして跳ねた。
「御意っ! 特大遠征弁当でござる!」
「普通のお弁当だからね」
三人の楽しげな笑い声が、明るい春の日差しの中に広がった。
昔おばあちゃんと来た場所に、今日、新しくて最高に賑やかな思い出が、ひとつ増えた。
翌日。ひより食堂の昼下がり。
ひよりは昨日撮った写真をきれいにプリントした。
細いペンを取り、その裏側にそっと文字を書き込む。
三人で見た、奇跡の景色。ひより、カツ葉、みそら。
それから小さな木製の額縁にそっと収めた。
それを食堂の棚の特等席にある、以前撮ったひより一人だけが写ったインスタント写真のすぐ隣へと並べて飾る。
「御意っ! こうして並べると、やはり拙者の男前ぶりが一段と際立つでござるな!」
「カツ葉さん、昨日ひよりさんに『女の子でしょ』って言われたばかりですよ」
みそらが呆れ顔で笑う。
「今度は名前も、拙者たちの姿も、両方ばっちりあるでござるな!」
「うん。だって、三人でここに行ったんだから」
ひよりは一歩下がり、棚に並んだ二枚の写真を愛おしそうに見つめた。
姿は写っていないけれど、あたたかい名前が並ぶ写真。
姿も名前もくっきりと残った、奇跡の一枚。
どちらの写真にも、三人で過ごした大切な時間が、これ以上ないほどいっぱいに詰まっていた。
その日の夕方。
ひよりは額縁から写真を一度取り出すと、食堂のそばに立つ大きな木のところへ向かった。
「ねえ、見て」
もちろん、大樹から返事はない。
ひよりは気にせず、三人で写った写真を幹の前にそっと掲げた。
「昨日ね、初めて三人で写真に写れたんだ」
カツ葉とみそらも、ひよりの両側から写真を覗き込む。
「御意っ! これからは三人の勇姿を、どんどん残すでござる!」
「次も写るとは限りませんよ、カツ葉さん」
「えー。でも、また写ったらいいよね」
ひよりが笑った、そのときだった。
風は吹いていない。
それなのに、大樹の葉が一枚、二枚――そして枝いっぱいに、ふわりと揺れた。
「……あれ?」
ひよりが見上げる。
カツ葉もみそらも、しばらく黙って大樹を見つめていた。
けれど、それ以上は何も起こらなかった。
「……気のせいかな」
ひよりはそう言って笑い、写真を大切そうに胸元へ戻した。
「今度は、お弁当を食べた大木の前でも、また三人で撮ろうね」
「御意っ! 拙者の気合でレンズをねじ伏せるでござる!」
「だから気合の問題じゃないってば……」
ひよりは心から楽しそうに吹き出した。
三人が食堂へ戻ったあとも、大樹はいつもと変わらず、そこに立っていた。
ただ、その葉先だけがもう一度――ほんのわずかに揺れた。




