第一話 少し、頭を冷やしてくださいませ
「――というわけで、殿下は婚約破棄をお考えのようです。リノア様」
侍女がそう耳打ちしてきたのは、王宮の庭園で開かれる茶会の準備中だった。
リノア・ヴァレンフィールドは、手にしていた招待状の束を危うく落としかけた。
「……もう一度、言ってくれる?」
「殿下がイザベラ様に、『リノアとの婚約を破棄すれば、お前を正妃にできる』と仰っていたそうです。侍従長が直接聞いたと。それから、来月の領地視察も、来週の孤児院慰問も、再来週の隣国大使との晩餐会も、すべてリノア様にお任せになるおつもりだとか」
リノアは、こめかみを指で押さえた。
ここ半年、王太子ローレンス・エドリック・ベルグレイヴの公務の大半を彼女が代行している。
婚約者として必要な経験だから。
いずれ王太子妃になる者の務めだから。
そう言われて引き受けてきた視察も慰問も晩餐会も、つまるところ、ローレンスが浮気相手と遊び歩くための時間稼ぎだったらしい。
「……なるほどね」
リノアは招待状の束をテーブルに置き、深く息を吐いた。
怒りで指先が冷たい。
けれど、不思議と涙は出なかった。
むしろ、半年間胸の奥に沈めてきたものが、ようやく形になった気がした。
「殿下に伝言をお願い」
「何と?」
「今日の午後、古い泉のほとりを一緒に散歩しませんか、と」
「仲直りのお散歩ですか?」
「そんなところよ」
リノアはにっこりと笑った。
侍女は一瞬、その美しさに見惚れたあと、そっと視線を逸らした。
長年仕えてきた彼女には分かる。
リノアが本気で腹を立てたときほど、笑顔は美しい。
その日の午後。
リノアとローレンスは、噴水広場の奥にある古い泉のほとりを並んで歩いていた。
この泉は建国以前から水が湧き続けており、王家を守る女神が宿るという伝承が残されている。
だが、今のリノアにとって重要なのは神聖さではない。
深さと広さだ。
「リノア、今日は機嫌がいいな」
ローレンスは金色の髪を風になびかせ、優雅に微笑んだ。
整った顔立ちに、甘い声。
誰もが見惚れる美しい王太子。
だが、その微笑みでいったい何人の令嬢を口説いてきたのか、リノアはもう数えるのをやめていた。
「ええ。長年の悩みがもうすぐ解消すると思うと、とても晴れやかな気分ですわ」
「そうか。それなら、来月の視察について相談したい。僕は少し外せない予定があって――」
「イザベラ様とのご予定ですか?」
ローレンスの足が止まった。
リノアも立ち止まり、彼へ向き直る。
泉の縁まで、あと半歩。
「――何のことだ?」
「婚約を破棄すれば、イザベラ様を正妃にすると仰ったそうですね」
「それは……」
ローレンスの視線が泳いだ。
「……あれは彼女を安心させるために言っただけだ。実際に婚約を破棄すると決めたわけではない」
「では、わたくしには王太子妃としての公務を押しつけながら、イザベラ様には正妃にすると期待させていたのですか?」
「押しつけたわけではない。君のためにも必要な経験だと思って――」
「半年間」
リノアは、静かに遮った。
「半年間、あなたの代わりに公務をこなしてまいりました。視察も、慰問も、晩餐会も。それもすべて、いつか王太子妃としてあなたを支えるためだと思っていたからです」
「リノア、僕の話を――」
「ですが、わたくしを捨てて別の女性を正妃にするおつもりなら、話は別ですわ」
リノアが微笑むと、ローレンスはわずかに後ずさる。
「少し、頭を冷やしてくださいませ」
「待て。ここは泉の――」
両手で胸を突く。
優雅な王太子の身体は驚くほどあっさりと均衡を失い、盛大な水音とともに泉の中へ消えた。
「あー、すっきりした」
リノアは胸元に手を当て、清々しい息を吐いた。
水しぶきがドレスの裾を濡らしている。
その程度で半年分の鬱憤が晴れるなら、安いものだった。
そろそろ護衛を呼んで引き上げさせよう。
そう考えて泉を覗き込んだとき、水面が蒼白い光を放った。
「……何?」
泉の底から無数の光が浮かび上がる。
水面が左右に分かれ、その中央から人の姿をした何かがゆっくりと立ち上がった。
長い髪は水そのもののように揺らめき、瞳は泉よりも深い蒼。
水を纏った美しい女性は、リノアに向かって優雅に微笑んだ。
「こんにちは、公爵令嬢リノア」
「まさか……泉の女神様?」
「ええ。あなたが突き落とした王太子について、確認しなければならないことがあります」
「できれば、早めに引き上げていただけます?一応、あれでも王太子ですので」
「ご安心ください。水中では時間が止まっています」
「それなら良かったですわ」
本当に良いのかは分からない。
女神が両手を広げると、分かれた水面の上に二つの光が現れた。
それぞれの中に、ローレンスそっくりの男性が浮かび上がる。
右側のローレンスは、何冊もの書類を抱えながら、鋭い目で指示を出していた。姿勢には一分の隙もなく、いかにも有能そうだ。
左側のローレンスは、リノアの姿を見つけるなり、熱を帯びた瞳でまっすぐに見つめてきた。今にも光の中から飛び出して抱き締めてきそうな勢いである。
「あなたが泉へ落としたのは、政務に秀で、国を繁栄へ導くシゴデキ王太子ですか?」
女神が右側を示す。
「それとも、あなたを生涯ただ一人、溺れるほど愛し続ける王太子ですか?」
続いて、左側を示した。
リノアは二人を見比べた。
「両方は駄目ですの?」
「駄目です」
「駄目か……」
ブックマーク、★★★★★、リアクション
よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ




