表裏
「えぇ?!」
思わず声を上げてしまった莉子に、周囲の肩がびくっと動く。…やばっ!
「すみません………」
小さく頭を下げ、莉子は手にした紙へと目を戻す。やっぱり白紙だ。いや厳密には白紙ではない。右上に名前だけは書いてあるのだから。
「何考えてんのよ」自分にしか聞こえないように口の中でつぶやきながら、莉子はパソコンの名簿の三桜晴斗の欄に「不明、要確認」と打ち込む。
ふざけているのか、それとも面倒だったのか。いずれの理由も莉子の中の三桜のイメージとは一致しなかった。明るい男子生徒だし、莉子の担任するクラスでもふざけることはあった。成績も入学試験と前期中間を見る限り、中の下、下の上といったところで、別に優秀というわけでもない。
人によっては彼がふざけてやったと思うのだろう。担任として数か月彼を見てきた莉子も、一瞬そう思いかけた。でもきっと
「違う」
口の中で無意識に舌が動く。彼は明るい性格だが、ふざけていい時かどうかを見極めるだけの分別を持ち合わせている。少なくとも提出書類で遊ぶような生徒ではない。それに部活にも勉強にも真剣だし、提出物だって必ず期限を守って出している。成績だって県トップ校に在籍しているから低く映っているに過ぎない。
むしろ、と莉子は思う。むしろ彼は真面目の方が《《素》》ではないかと。彼が明るく、おどけて振舞うのはまるでその素を隠さんとしているかのようだった。
「いずれにしても」
本人に確認しないとな。彼の書類を他の生徒とは別の場所に移し、莉子は次の生徒の調査票へ目を通した。
20代前半にして、昼食に菓子パンって私は大丈夫なんだろうか。机に乗った2つの菓子パンと手元で半分ほどかじられたもう一つを前に不意に思う。野菜取ったり、栄養素考えたりして食べるべきなのだろうか。かつて家庭科だとか保健だとか、講話だとかで聞いた内容を思い出そうとする。こういう時に思い出せるように感想というものがあったのかと、十年近い時を経て莉子は気付く。思えば当時は面倒だと思っていたことの多くを、莉子は今では生徒たちに求める立場になっていた。あの頃よりも自分が変わったとは思えないが、少なくとも歳は取り、立場も変わっていた。
一つ目のパンを食べ終えた後に長い溜息が出たのは、成長していない自分には重すぎる問題が頭をよぎったからだろう。自分よりもずっと賢い生徒たちへの授業、未だ慣れない教員としての生活、そして不調な私生活。ここ最近は何も上手くいっていない、そう意識するとまたため息が口からこぼれた。
考えてもしょうがない。紙パックのイチゴ・オレに刺さったストローを咥えて、甘ったるい舌触りの中に感情をしまい込んだ。
「お疲れ様」
そう同僚、いや先輩から声を掛けられた時、すでに机に残るのは一枚の書類と紙パックだけになっていた。
「お疲れ様です」
最後の菓子パンを口に入れたまま莉子は振り返る。見下ろすように立っているのは先輩の教師で、二つ隣のクラスを担任する遠藤伽耶だった。
「おいしそうなのは何よりだけど…………紙パックと書類を一緒に置いておくのは感心できないわね」
できる限り遠回しに彼女はそう指摘し、紙を指でつまみ上げる。
「進路調査票ねー。あぁ、白紙で出しちゃったわけか」
わずかにめんどくささを醸し出しながら彼女は紙に目を通す。たったそれだけなのにまるでドラマの一場面かのように莉子には見える。
今年30歳とは思えないほどに整った横顔、すらっと長い脚、そして彼女の纏う独特な雰囲気。その佇まいが存在するだけで日常にアクセントが入るような、遠藤はそんな先輩だった。
「あれ?この子………」
白紙の紙を暫し眺めていた彼女の二重が不意に止まる。
「知ってらっしゃるんですか?」
まだ一年生で部活も違う男子生徒の名に引っ掛かりがあるのだとしたら、それはやはり経験の差なのだろうか。莉子は自分のクラスの生徒だけで精一杯だというのに。
「うん…………うちのクラスに錦見夏希って子がいるんだけど、その子とよく話してた気がする」
「錦見さんって………………あの?」
「どの、かは分からないけど、たぶんその錦見さん。」
小さく笑いながら彼女は答える。錦見夏希は学年の有名人の1人で当然莉子も知っている。県内トップのこの高校に首席で入学した才女にして、明るく、いつも笑顔な生徒だったはずだ。直接話したのは、委員会での数回だけだったが、莉子は彼女に好印象を持っていた。
「三桜君、錦見さんと付き合っているんですか?」
衝動的に聞いてしまったことを莉子はすぐに後悔する。錦見と三桜が頭で上手く結びつかず、図らずも芽生えた疑問だった。莉子を見下ろす遠藤は右の眉を僅かに上げ、莉子の真意を探ろうとしているかのようだった。遠藤は莉子にとって話しやすい先輩ではあったが、それ以前に《《良い教師》》だ。莉子のした三流ゴシップのような詮索を快くは思わないだろう。
「すみ
「付き合ってはないらしいよ?」
「え?」
「錦見さんが言ってたわ」
「え、あぁ、はい………?」
特に気にした様子のない遠藤を見て、莉子は安堵し、そのせいで返答がグダグダになってしまう。
そんな後輩を前に遠藤は苦笑いする。
「そんなことで怒ったりはしないから。それに……もしかしたらこれも、錦見さんに関係しているかもしれないしね」
遠藤は丁寧に紙を戻しながら言う。
「関係って何ですか?」
机に手を伸ばした遠藤がそのままの姿勢で振り返り、莉子を覗き込むような形になる。ふわっと柔らかなにおいが鼻をついた。
「錦見さん夏休み前から学校に来れてないの。」
遠藤が体を起こす。
「え?」
「体調が振るわなくて、全国の病院を周って検査していたから。」
「それは…………
こういう時になんと言えばいいのか、莉子は分からず言葉に詰まる。
「それで病名はもう分かったらしいんだけど、難病らしくて」
「…………そう……なんですね」
ひたすらに健康な莉子は難病はおろか、検査入院すらしたことがなく、苦しさの理解などできない。それでもぱっと花が咲くように笑っていた錦見が苦しんでいる姿を想起すると心が痛んだ。でも……
「ですけど……なんでそれが三桜君の件と関係していると思うんですか?」
ふと電子音が鳴る、予鈴だ。
「あ、予鈴」
遠藤が小さく口にする。すっと彼女の顔に教師の色が戻った。
「私、5時間目あるから行かないと………………町田先生、紙パックは飲み干してから職員室出てくださいね」
そう言い残し、彼女は踵を返す。もう教師のスイッチが入っているようで、ここでさっきの続きを聞くのは憚られた。
だが、自席から白いトートバッグを取った遠藤は、再び莉子の前で立ち止まる。
「三桜君ね、たぶん錦見さんのこと、大好きよ」
言い終わって小さく口角を上げた彼女は、そのまま職員室を出ていく。薄い香りが廊下の熱気と混じってそっと鼻に残る。
「やっばい!私も授業!」
思わずぼうっとしてしまった莉子は慌ててイチゴ・オレを飲み干した。
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