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その秒針が錆びるなら  作者: 鷹羽諒
第三章 町田莉子
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雨、最中

 荷物をドカッと床に置き、そのままソファーに倒れ込んだ。やっぱり買って正解だったな、一人暮らしには少し大きいソファーの上でそう思う。

 壁に掛けた木製の時計は既に八時をとうに過ぎ、九時を刻もうかとしていた。それなのに

「なんでまだ仕事があるのよ」

膨らんだ布の上でうなだれながら出した声は、独りの部屋へ吸い込まれていく。

「教師ってこんな大変だったんだ」

学生の頃見ていたあの人たちは、何だったのだろう。疲れなんてまるで見せず、授業をして、時に行事に一緒に参加する。今の自分は記憶の中の先輩たちに遠く及ばない。

「向いてないのかなぁ」

最近、そんなことばかり考えてしまう。



いやいや、仕事しなきゃ!徐々に体を包みつつあった眠気を振り払うかのように、慌てて莉子はソファーから体を引き上げる。普段よりもずっしり重いそれを机のところまで引きずっていき、トートバッグの中のパソコンに手を伸ばした。



スリープ状態のままのノートパソコンは、画面を開くとすぐに点いた。パスコードを打ち込むと、画面は進路希望調査の集計表に変わる。この表は明日中に学年主任へ提出する必要があるため、今日のうちに完成させておきたい。

もっとも、後一人分で完了なのだが。


少しずつスクロールさせ、表を下へと降りていく。そして……あった三桜晴斗。莉子はカーソルを合わせると、彼の欄を一度空白に戻す。





「放課後、掃除が終わり次第、職員室に来て」

帰りのクラスルーム後にそう伝えられると三桜は僅かに驚いた顔をしていた。思い当たる節がないのだろうか。

「……はい……?」

と疑念を持つようにそれでもちゃんと彼は返事をする。


「なに晴斗、呼び出し?!」「何したんだよー」「退学じゃね?!」

クラスメイトが呼び出されるのは男子高校生にとっては小さなイベントのようで、彼の周りの生徒が沸く。茶化され、囃し立てられる彼に背を向け、莉子は教室を出た。掃除と帰宅と部活の準備で騒めき立つ廊下を莉子はゆっくりと進む。


「町田先生」

掃除が終わるとすぐに三桜は莉子の元を訪れた。彼は部活に熱心だと、顧問の佐伯先生に聞いているし、おそらく早く行きたいのだろう。だが、話すことはしっかり話さねば。

 莉子は席を立つと彼を面談室に通した。昨今では個人的な話をするときに、他の人間が立ち入ることがないよう学校に面談用の部屋が備え付けており、向坂高校も例外ではない。

 職員室の横の小さい部屋に彼を案内すると、夏希は扉にかかったプレートを使用中にひっくり返す。カランと乾いた音が扉に響いた。

「それで…

三桜の向かい側の椅子へと莉子が腰掛けるとすぐに彼は口を開いた。そわそわしているのは部活がもうじき始まる時間だからか、呼び出されたことへの不安からか。

「わざわざ、来てもらったのは一つ確認してほしいことがあったからなんだけど」

そう言いながら、莉子は手にしていたファイルから彼の進路調査用紙を取り出し、二人を隔てる机の上に置いた。

そっと視線を落とし「あぁ」とようやく合点がいたように彼が唸る。

「単刀直入に聞くんだけど、なんで白紙で出したの?」

そのまま莉子は目の前の男子生徒に聞く。彼の僅かに耳にかかった髪が揺れる。

「うーん」そう唸なる彼の言葉を待つ莉子に、ふと遠藤との会話が蘇る。「三桜君ね、たぶん錦見さんのこと、大好きよ」艶めかしい先輩の言葉が頭を走り、莉子は全力で首を振った。勿論、頭の中で。でもどうしようか、好きな人が難病で他のこと考えられなくてなんて言われたら。そういう時、遠藤だったら何と返すのだろうか。

「実は……

莉子の思いをよそに、彼の口が開く。ごくりと映画のように唾をのむ。

「思いつかなくて」

「え?」

「あ、いや、考えはしたんですけど……」

「はぁ」

あまりにも《《ありがちな》》理由に拍子抜けして、変な声が出てしまう。

「ええっと……思いつかなかった?」

何とか教師の矜持で持ち直し、再度確認する。

「はい、夏休み中ずっと考えていたんですけど」

「えっとね、これで別に決まりじゃないのよ?どんな進路だっていいし、今後変わったっていいんだけど」

むしろ高校一年生の時の志望を三年間貫く人の方が少数派だろう。もっとも彼もそれは知っていたようで「はい」と短く返す。

「どこか行きたい大学とか、将来付きたい仕事とかないの?」

続けて莉子は質問を投げる。口に手をやり、悩むような仕草を彼は見せるが、そこにいつものような歯切れの良さはない。

「漠然と頭の良い大学に行きたいなとは思っています。塾にも通わせてもらっていますし。ただ…………………」

そのまま言葉はそこで切れてしまう。きっと《《ただ》》の後に続く言葉に綺麗ごとじゃない彼の本心が隠れているだろうに。

「ただ?」

追い打ちをかけるように、先を促す。ちらっと彼の視線が莉子に向けられ、すぐに離れた。逡巡しているかのように彼の瞳が揺れる。その奥にある何かを言語化しようとしているかのように。そうして再び彼の口が開かれる。

「いえ……すみません。」

「え?」

瞳に潜んだ《《何か》》は姿を消し、そこにはいつもの三桜晴斗だけがいる。

「なんか適当な大学書いておけば良かったですよね。すみません。」

ハハッと笑い、彼は莉子を、彼の中の《《町田先生》》を見つめる。

「適当じゃ、ダメでしょー」

そこで軽く返してしまう自分に莉子は教師としての実力不足を痛感した。「東北大にしておきますね」とボールペンを手に取る彼に莉子は何も言えない。何があなたの判断を鈍らせたの、その明るさの裏に何を隠しているの。叫びのような疑念が心に浮かび、それなのに声帯は何も発してはくれない。

「それじゃぁ、部活行きますね。お手数をおかけしてすみませんでした!」

礼儀正しくそう言い残して、彼は部屋を飛び出していった。


彼の字で書かれた大学名と一緒に部屋に残された莉子は「向いてないのかなぁ」とまた呟いてしまう。





「東北大学、学部未定」三桜の欄にゆっくりとそう打ち込む。

これでいいんだろうか、そんな疑問がよぎるが、結局enterを押し保存を掛けた。



ピコン!と跳ねるような音がしてスマホが点いたのは、仕事をようやく終え、パソコンをシャットダウンした時だった。

幸也(ゆきや)という名前に一瞬心が躍り、それなのに内容を確認して心が凍り付く。





教師どころか人生に向いていないのかもしれない、頭の冷静な部分がそんなことを思い、体に悪寒を走らせた。



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