夏渡期
会いに行くたびに、胸が締め付けられる。まるでベッドから伸びた見えない蔓がゆっくりと生気を吸い取っているかのように、夏希は徐々に細々と変わっていった。
「あ」
ゆっくりと上半身を起こす。年季の入ったそれかのように、時間をかけて。
「夏希、おはよう」
窓から差し込む部屋が、細まった頬を残酷なほどに鮮やかに染める。
「おはよう」
もうおはようじゃないでしょ、そんな彼女の軽口ももう聞けないのかもしれない。
梅雨が明けて、夏に入って、夏希の体調は急速に悪化した。まるで夕立の如く突然に。気付けば夏希は病室から出ることもほとんどできなくなり、この小さなベッドだけが彼女に許された世界になっていた。
もう時間がない。夏希にはもう。何ら医学知識の無い晴斗にもそれは分かった。得体の知れない暗雲が立ち込め、道の先の崖を覆ってしまったかのようだ。夏希は死ぬ。この部屋に入ると、彼女を見ると、彼女の声を聞くと、その事実が恐怖として晴斗に迫る。無力感に苛まれ、痛々しい姿から目を背けたくなり、逃げ出したくなる。そして痛感する、逃げ出すための力すらも夏希にはもう無いのだと。
「勉強はいいの?」
背を預けたまま、晴斗を見上げてそう夏希は聞く。慌てて晴斗は丸椅子を引っ張って座る。自分の浅慮に顔が赤くなりそうだ。
「あぁ、今は塾に行った帰りだから。」
「ふーん」
ちょっと面白くなさそうに夏希は唇を尖らす。
「いいのかね?こんなところで道草を食いながら、油を売って」
ククっと笑いながら夏希は言う。
久々に聞いたその軽口が嬉しくて、晴斗の頬は自然と緩んだ。その途端になんだか喉の下あたりが萎んで、鼻の奥がじわっと熱くなった。
「俺、大忙しじゃん」
急いで晴斗も軽口を返す。声を震わすまいと、喉に力を込めて。
夕暮れの病室、彼女の話はやっぱり病院の中のことばかりだ。あの看護師さんは可愛いとか、近くの部屋のおばあちゃんと仲良くなったとか、たまに小さい子が間違えて部屋に入って来るとか。そんな小さな出来事を夏希はいっぱい覚えていて、無邪気に笑いながら晴斗に教えてくれる。晴斗はそのたびに必死に笑顔を返す。震える下顎が、揺れる唇が、眼の奥の痛みがバレないように。
「それじゃあ、次は三桜君のターンね」
不意に夏希の声のトーンが上がった。
「俺のターン?」
「うん、私の話は終わりだから、なんか話してよ」
信じられないほどに適当な前振りをもって、自分の話をしなければいけないらしい。何を話そうか。頭に候補を上げていく。
「早く、早く」
楽しそうに夏希はリズムを刻む。可憐、教晴斗がひねり出せた、今の彼女に一番似合う言葉。でもきっと世界にはもっとこの人の姿に似合う言葉があって、それを自分が知らないだけなのだと、口惜しく思う。その言葉を口にできたらどんなに楽なのだろうか。
「三桜君、早く」
ベッドの上で夏希が体を揺らす。
「あぁ」
やっぱり可憐だ。他の言葉を探しながら、晴斗は結局そう繰り返す。
「すみませんが、もう消灯時間ですので。」
髪をきっちりた結った看護師に話しかけられて時計を見ると、時間はもう九時に差し掛かっていた。
「すみません、すぐ出ます」
小さく頷くと、看護師はそのまま出ていく。
「もうこんな時間なんだ」
「早いよな」
「うん」
夏希の寂しそうな声。そうだ、家族の待つ家に帰る自分とは違って、夏希は独りこの部屋に置き去りなのだ。
「来てくれてありがとうね」
どうにか、というような笑顔を晴斗に向ける。
「あ、うん」
口が覚束ない。なんで俺はありがとうも、楽しかったも言えないのだろう。不甲斐ない自分に腹が立つ。、
「ねぇ、三桜君」
不意に夏希の声が大きく、深く変わる。言いよどむかのように、夏希の視線が揺れた。部屋の黄色い電光の中を夏希の目が彷徨って、そして
「三桜君、無理、しないでね」
頭が真っ白になるという感覚を、晴斗は初めて鮮明に、知った。




