夏前
柔らかな陽光がこの間よりも大きくなった緑を揺さぶった。ほうきで落ち葉を掃いた時のような、それでいてもっと優しいその音の中で、晴斗は自動ドアを潜る。重く鳴り続けるリュックの中で、ペンケースがカチャカチャと拍を刻む。
真新しい入院棟の四階に上がって、代わり映えの無い廊下を進む。無機質な風景の中で、小さく掛けれれた番号だけがどんどんと増えていった。423、ここだ。廊下の丁度中腹辺り、やっぱり他の部屋と何も違わないその扉を晴斗は叩く。
「お!」
背の部分を引き上げたベッドの上から声が上がる。パジャマ、ベッドに据えた天板の上に置かれたいくつもの本、ペットボトルに入ったお茶。まるで夏希の王国になったかのようなその部屋に、晴斗は足を踏み入れた。
「適当に座っていいよ」
そうベッド近くの丸椅子を晴斗に勧め、夏希はとりあえずというように本を閉じた。漢字で書かれたその表題の意味をまるで晴斗は理解できない。
手の届くところにある棚から夏希はお菓子のはいったかごを取り出して、そうしてようやく、腰掛けた晴斗に目を向ける。瞳も口も、溢れ出んばかりの高揚感を隠しきれていないように見えた。
「うん?」
急に夏希が妙な声を出す。僅かに傾けた顔は、それでも晴斗に向けられたままだ。
「どうした?」
「晴斗が急に笑ったから、何だろうって」
思わず口元に手をやる。口角は確かに上がり、頬は緩い。どうやら自分でも気づかないうちに笑っていたらしい。
「なんかついてる?」
そう言って顔を確認する夏希が見える。
お菓子を用意して、まるで映画が始めるのを待つかのように晴斗を見つめる夏希に笑ってしまったのだ。そんなことそんなこと言えはしないけれど。
「なんでもないよ」
まだ顔に手をやっている夏希に晴斗は自分にできる限りに優しくそう告げた。
病院を出た時にはもう夕刻をとうに過ぎ、夜へ向かっていた。もうこの時間でも寒くはない。むしろこの先は暑くなっていくのだろう。
無数のライトで照らされた病院前の歩道を進んで駐輪所に入る。鍵を外して、そのまま乗り込んだ。体の下で、青い車体がきらめく。そのフレームに残るいくつかの跡が、三年目に入った自転車通学の時間を感じさせた。
相棒のようなペダルを、力強く晴斗は踏み込んだ。
高校最後の夏が来る。もうじき梅雨が来て、それが終わればもう。そしてその先で《《高校生の夏》》に会うことは決してない。本当の最後だった。
あっという間に部活が終わり、体育祭を過ぎた。三年生に残るのは文化祭と避けようのない受験ばかりだ。現実という緊迫と時間という余裕に生まれる弛緩。学校はそんなまだら模様な空気に包まれていた。
晴斗も例外では無い。部活を引退し、残されたのは放課後の時間と受験までのカウントダウン。使える時間の全てを勉強に費やし、生活は塾と学校と家とたったそれだけに染まった。
そんな中で晴斗が唯一している《《勉強ではないこと》》、それが入院する夏希の下へ行くことだった。勿論そのことを夏希に言ってはいないけれど。
早く塾に行かないと、そんな漠然とした焦燥に身を任せ、晴斗は右ハンドルのギアをいじる。その途端に足に重みがかかる。枷をされたかのようなその感覚を振り切ろうと、足に力を込めた。
夏が来る。
彼女にも、晴斗にも時間はもうない。




