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地下図書室、再会と禁じられた記憶

気づけば、カイは再びあの温室の前に立っていた。

錆びついた扉を開けると、むせ返るような緑の匂いと、湿った土の香りが彼を包み込む。それは、清潔で無機質なギルドの執務室とは正反対の、どこか懐かしく、安らぐ匂いだった。……ミナ

温室の奥、光が斑に落ちる特等席に、彼女はいた。

カイが一度は突き放したはずの少女。彼女は驚いたように顔を上げ、それから、いたずらが見つかった子供のような、少しだけ困ったような顔で笑った。

「あ……。もう来ないって、思ってた」

「……そのつもりだった」

カイは、自分の喉が、昨日までとは違う震え方をしているのを感じた。

「でも、君のいない世界で、どうやって『正しい言葉』を選べばいいのか、分からなくなってしまったんだ。……僕の書く文字から、君のノイズが消えるのが、怖くなった」

カイは、彼女の隣に腰を下ろした。

ミナは何も言わず、ただ、いつもより少しだけインクで汚れた手を、そっとカイの手に重ねた。

 「ねえ、カイ。今日のこの匂い、何て言うか知ってる?」

「……雨上がりの、植物の呼吸?」

「ううん。私はね、『忘れものの匂い』だと思う。みんなが置いていっちゃった、本当の気持ちが、ここで温められてる匂い」

ミナはそう言って、一冊の、これまで見たこともないほど分厚いノートを取り出した。

「これ、あなたに見せたかったの。私の秘密の場所」

彼女に手を引かれ、カイは温室のさらに奥、植物のカーテンに隠された地下への入り口へと導かれた。

「ここから先はね、誰も知らない『図書室』に繋がってるの。私が、自分の声を探しにいく場所」

カイは躊躇した。この先に足を踏み入れれば、もう二度と「代弁者」としての自分には戻れない。それでも、彼女の繋いだ手の熱さが、彼を未知の暗闇へと突き動かした。

彼はミナに連れられ、街の地下深くに眠る「遺棄された図書室」へと足を踏み入れた。

 そこには、数百年前に書かれた小説、詩集、そして個人の日記が、埃を被って積み上げられていた。

カイは一冊の本を手に取る指先が真っ黒な埃で汚れる。彼はそれを払うことも忘れ、ページをめくった。

「……なんだ、これは」

そこには、目を覆いたくなるような差別用語が並んでいた。誰かを激しく憎み、呪い、その存在を否定するような醜悪な言葉。

しかし、次のページには、一転して支離滅裂な愛の告白が綴られていた。相手を求めるあまりに理性を失い、自分を切り刻むような、狂気じみた情熱。

さらにページをめくれば、救いようのない絶望に満ちた叫びが、紙を突き破らんばかりの筆圧で叩きつけられていた。

カイは声を震わせた。「なんて醜いんだ。これじゃあ、お互いに傷つけ合うだけだ。だから僕たちは、代弁者(僕ら)を作ったんじゃないか」

「そうね、傷つくわでも、,,,,,,それがいいの」

ミナはそう言って、積み上げられた本の山に背を預け、遠い目をした。地下図書室の冷たい空気が、彼女の語る言葉を白く染める。

「私ね、昔は『いい子』だったんだよ。今のカイみたいに、ギルドの言葉を完璧にトレースして、誰からも愛される、清潔で、静かな女の子」

彼女の指先が、ノートの余白を力強く、あるいは慈しむように撫でる。

「……おじいちゃんがね、昔、私が友達と大喧嘩して黙り込んじゃった時に、こう言ってくれたんだ」

ミナは、インクの染みがついた自分の指先をそっと見つめ、遠い日の記憶を愛おしむように語り始めました。

「あの時の私は、相手を傷つけるのが怖かったのか、自分が嫌われるのが怖かったのか……とにかく、ギルドの推奨する『円満な解決用スクリプト』を頭の中で繰り返して、自分の本当の怒りを必死に押し殺してたの」

彼女は少しだけ苦笑いをして、カイの目を見つめた。

「それを見ていたおじいちゃんが、私の頭をゴツゴツした手で撫でて、こう言ったの。『ミナ、言葉で喧嘩ができるのは、お前たちがまだ生きている証拠だ。相手を傷つけるのを怖がって、借り物の綺麗な言葉で誤魔化すんじゃない。それじゃあ、心は通じないどころか、お前自身がどこかへ消えてしまうぞ』って」

ミナの声は、地下図書室の冷たい空気の中で、そこだけ確かな熱を持っているようでした。

「『言葉に体温をのせるのをやめるな。熱すぎる言葉は時に火傷もさせるけれど、冷え切った正解よりもずっと、誰かの心に届くんだ』……おじいちゃんはそう教えてくれたの」

彼女は、抱きしめていたノートを少しだけ強く握りしめた。

 「その時は、意味がよく分からなかった。。。。。でもある日。。。。。。。亡くなったの、おじいちゃん。朝起きたら、いなくなってて。その時、ギルドが用意してくれた『完璧な追悼辞』を読まされた。……《私たちの愛した人は、星となり、平和な秩序の中に永遠に溶け合います》って」

ミナは、言葉を詰まらせながら自嘲気味に口角を上げた。

「その言葉を聞いた瞬間、私、吐いちゃったんだ。おじいちゃんの加齢臭も、頑固な怒鳴り声も、私の頭を撫でてくれたゴツゴツした手の感触も、その『綺麗な言葉』には、一滴も入ってなかったから。……大好きだったおじいちゃんが、ただの『記号』に書き換えられて消えていくのが、たまらなく怖かった」

彼女の声は、かつてないほどに低く、そして重い「熱」を帯びていた。

「それから、言葉を拒むようになった。誰かが決めた正解を喋るくらいなら、一生黙っていた方がマシだって。……でも、この場所を見つけたの。ここは、誰かが本気で傷ついて、誰かを本気で呪って、誰かを狂おしいほど愛した跡が、そのまま残ってる。インクの汚れも、震えた筆跡も、全部が生きていた証拠なんだよ」

ミナは、隣に座るカイをまっすぐに見つめた。17歳の少女の瞳には、かつての絶望と、それを越えた先の覚悟が宿っていた。ミナは静かにノートをめくる

「ねえ、カイ。私は『代弁』されたくない。たとえ支離滅裂でも、誰かを傷つける可能性があっても。不格好でもいい。私は、私の喉から出る本当の音を、ちゃんと響かせてあげたい。」

 震えつつも、芯のある声が、地下図書室の冷たい静寂を裂き、カイの鼓膜を、そしてその奥の、ずっと閉ざされていた領域を激しく揺さぶった。

カイは思い出した。幼い頃、父に連れられていった、真っ黒な壁で囲まれた施設。市民から回収された「不適切」な日記や手紙がシュレッダーにかけられ、その残骸が**新しい代弁者用スクリプトの「原料」**として再処理される巨大なプラントがあった。人々の生の苦悩や喜びが、脱臭され、漂白され、無機質な定型文へと作り替えられていた。

 気づいていたのかもしれない、でも、気づかないふりをしていた。

「僕たちが作っていたのは、言葉の墓場だったのか」

 カイの足が震える。彼が心血を注いで編纂してきた『完璧な追悼辞』も『誠実な挨拶』も、すべてはこの地下で殺された「誰かの本音」の残骸を、漂白して並べ直したものに過ぎなかったのだ。 

彼がエリート編纂官として教育され、何万回と繰り返してきた「正しい言葉」の定義が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。

カイは、自分の喉元にそっと手を当てた。

そこには、常に最高のスコアを維持し、誰からも非難されない「清潔な音声」を発するチップが埋まっている。だが今、そのチップのさらに下、喉の奥深くで、どろりとした熱い塊が暴れているのを感じた。

 「僕は……」

カイの口から漏れたのは、合成された美しい声ではなかった。

それは、かすれて、震えていて、音程さえも定まらない、ひどく不細工な「音」だった。

 彼は、ミナの震える手の上に、自分の手を重ねた。今度は、デバイスの指示を待つことなく、自分自身の喉から出た「熱」を伝えるために。

「僕は、」

「——そこまでだ、カイ」

背後から響いたのは、感情を一切排除した、氷のように冷たいレオンの声だった。

重厚な金属の扉が左右に開き、眩いばかりのサーチライトが、埃の舞う暗闇を白く塗り潰す。カイとミナの影が、古い本の山に長く、無様に伸びた。

「レオン……!」

カイは反射的にミナを背中に庇った。

光の向こう側から、黒い制服に身を包んだ執行官たちが、システマチックな動作で距離を詰めてくる。彼らの手には、発言者の意識を強制的に遮断する「沈黙の銃」が握られていた。

「残念だよ。一級編纂官ともあろう者が、これほど低俗な『ノイズ』に毒されるとは」

レオンは、粉砕機へ向かうベルトコンベアの脇に立ち、軽蔑を隠そうともせずにカイを見下ろした。

「カイ……先輩。どうして、ですか……」 包囲網を狭める執行官たちの中には、カイの直属の後輩であり、かつてカイの編纂する「一分の隙もない完璧な祝辞」に心酔してギルドを志した青年、リクもいた。リクの声は、執行官としての仮面の裏で、困惑に揺れていた。彼にとってカイは、この街の「正しさ」を象徴するヒーローだったはずだ。ノイズを排除し、誰も傷つかない完璧な世界を作る。その理想を最も体現していたはずの人が、今、汚れたノートを抱え、薄汚れた「バグ」の少女を庇っている。

「先輩がいつも言っていたじゃないですか。言葉は平和を守るための盾だって。感情に流されるのは、未熟な編纂官のすることだって!」

 それは、不純物をみるような、激しい**「嫌悪」**の目だった。

「黙れ。2095,,,,,,君が今吐き出そうとしたその言葉は、何の意味も持たない。ただのバグだ。その少女と一緒に、ここで『洗浄』されるのが、君に残された唯一の社会貢献だよ」

 レオンはリクの言葉を遮った

 ミナの手が、カイのシャツの背中をぎゅっと掴んだ。

彼女の指先は震えていたが、その熱は、サーチライトの冷たい光よりもずっと強くカイの背中に伝わってきた。

 レオンは静かに周りを見渡した

 「醜いだろう? 街の基準で言えば、これはすべて『ノイズ』であり、『汚染』だ」

その時、背後から、レオンの冷徹な声が響いた。

いつの間にか、図書室の全照明が不自然な明るさで点灯し、出口は執行官たちによって封鎖されていた。

「これこそが、君を汚染した『生の言葉』の正体だ。カイ、見てみろ。ここにあるのは、憎悪と、偏愛と、終わりのない絶望だけだ。人々が自分の喉で喋っていた時代、世界はこれらによって焼き尽くされ、血を流し続していたんだ」

 レオンの眼差しには、冷徹な評価を下す教育者のような、奇妙な静けさが宿っていた。


 「君は優秀だった。誰よりも『言葉の管理』という重責を理解し、完璧に遂行してきた。。……施設を出る時、二人で誓っただろう。誰も傷つかない、清潔で平和な街を創ると。君の言葉には、僕たちが夢見た秩序そのものが宿っていたんだ ……だからこそ、一度だけの過ちで君という才能を廃棄するのは、この社会にとっての損失だ」

レオンの声は、感情を排した計算機のように正確に響いた。

「今すぐその少女の手を離し、自らの手で彼女を初期化装置へ導け。そして、君が今まで書いてきた中で最も完璧な『更生と謝罪の辞』を全市民に向けて発表するんだ。そうすれば、君のキャリアは保障しよう。君のこの数日間の醜態は、重度の過労による一時的なシステム・エラーとして処理してやる。……戻ってこい、カイ。君の居場所は、まだこちらの『清潔な世界』にある」

その甘美で暴力的な救済の提案に、地下図書室の空気が張り詰める。カイに向けられたリクの銃口が、彼の迷いを誘うように微かに揺れた。

 カイの背中に、冷たい汗が伝った。

正面には、冷酷な論理を体現するレオンと、嫌悪を剥き出しにするリクの銃口。ここで抗えば、二人の心臓は数秒後に停止する。

その時だった。ミナは、何も言わず、ただ強く握りしめ

た。その手の熱は、驚くほど確かで、強かった。彼女の瞳は、レオンの背後に広がる暗闇を、毅然と見据えていた。

その手の熱さに、カイは覚悟を決めた


 カイはゆっくりと、あえて自分からミナの手を解いた。指先が離れる瞬間、彼女の握力が強まったのを感じたが、カイは冷徹な仮面を被り、一歩前に出た。

「……分かりました。指示に従います、レオン長官」

その声は、かつての一級編纂官そのものの、無機質で透明な響きを湛えていた。

「カイ……!」

ミナが初めて、押し殺したような声を漏らした。握りしめていた手の熱が、行き場を失って空を切る。

 「フン……」

リクは、鼻でせせら笑いながら銃を下ろした。

その瞳には、先ほどまでの激しい嫌悪に代わり、安堵の色が広がっていた。汚れた少女を庇い、不細工に叫んでいた男は、やはり一時的なエラーに過ぎなかったのだ。自分の憧れた「完璧なカイ先輩」が戻ってきたことに、リクは心の底から救われたような表情を浮かべた

 「賢明な判断だ。連れて行け」

レオンが満足げに頷く。

執行官たちに両脇を抱えられ、連行されていくミナ。彼女は暴れることも、命乞いをすることもなく、ただ真っ直ぐに背筋を伸ばし、汚れたインクのノートを胸に抱えたまま、ただカイを見つめていた。

 カイは、ただ深く項垂れた。拳を、爪が手のひらに食い込むほど強く握りしめて。

だが、影に隠れた彼の瞳の中では、かつてないほど激しい「熱」が渦巻いていた。

カイの脳内では、ギルドが誇る最高精度の検閲システムを逆手に取った、極めて緻密な「毒」の構成が始まっていた。

(ミナ、今はその怒りで心臓を燃やし続けてくれ。……僕は今から、世界で最も美しい『嘘』を綴る。この街の喉元に、一生消えない痣を残すために)

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