雪と自衛官
今日は地域の掃除日だ。
午前8時、地域住民は公民館に集まって振り当てられた道路や公園のゴミ拾いをする。
もちろん、地域住民である自衛官やその家族も参加するのだ。全員で効率よく作業ができるように、日曜日に行われる。
しかし、休日である日曜日に行われたにもかかわらず、彩花をはじめとする自衛官の家庭からは、頼りになりそうな男たちの姿は見当たらない。代わりに妻や中高生くらいの子どもたちが借り出され、軍手をして捨てられたペットボトルやゴミ袋などを回収した。
「本日はお忙しい中、ご参加いただきありがとうございました。ご覧の通り、ゴミもたくさん集められました。ゴミはこのあと、収拾車が回収します。ご苦労さまでした」
地区長さんの締めの挨拶で今回もお開きとなった。次の清掃日は半年後らしい。
「幸田さんお疲れ様」
「お疲れ様です!」
彩花に声をかけてきてのは、同じ官舎に住む家族会会長の藤崎夫人だ。藤崎夫人は官舎社会に乏しい彩花に、色々なことを丁寧に教えてくれるよい先輩である。この夫人の夫が、泣く子も黙る第1空挺団の隊長だ。
夏祭りの時、大変お世話になったあの方である。
「男手がない日にあたっちゃったわね。疲れたでしょう? 大事なときなんだから、休んでよかったのに」
「いえ。ただゴミを拾うだけでしたから大丈夫です。それに、お子さんたちも手伝ってくれましたからほとんど何もしてないです。頼もしいですね、男の子って」
「自衛官の子に生まれた定めよね。将来の夢がなんであれ、地域の皆さんに感謝して貢献しないと。まあ、自衛官の子じゃなくてもそうあって欲しいけれど」
「そうですね。そういうふうに、育ってほしいですね」
彩花は自分のお腹に触れてそう言った。
実は夏祭りから少しあと、秋が深まったころにお腹に赤ちゃんがいることを知った。
夏祭りが終わった日の夜。彩花が学に「赤ちゃん作ろう!」と大胆にも迫ったのがきっかけだ。
「さて、幸田家には男の子がくるのかしら? それとも女の子かしら。楽しみね」
「どっちでもいいんですけど、学さんに似た子供がいいです」
「あらあら……ごちそうさま」
いつもなら、ジャージ姿の男性自衛官たちが清掃に参加するのだが、今回は誰一人としていない。
普段の土日は当直者以外は休みなのだが。
「まさか通信科も出動待機するとは思わなかったわね。今夜は早く帰ってこれるといいわねぇ。そろそろ落ち着く頃と思うんだけど」
「こういうのって、部隊は関係ないんですね」
「そうね……」
災害派遣が多くなった昨今、部隊問わず派遣命令が出たらそれに従う。学は通信中隊であるにも関わらず、今回は出動待機命令が出たのだ。
自衛隊は最後の手段と言われている。自治体でどうにも対処しきれない場合に、都道府県知事から災害派遣要請が行われる。防衛省はそれを受け、派遣部隊を選定し命令をする。
豚コレラ、鳥インフルエンザ、台風、大雨、積雪などなど、災害と認められたら国民の安全を守るために出動するのだ。
「今年はお天気に悩まされたわね。今日はこれから寒くなるみたいよ。お買い物をすませて引きこもらなくちゃ」
「そうですね。お部屋を温めておかないと、冷え切って帰ってきますね」
「何かあったら声かけてね。無理はだめよ? 病気じゃないからこそ、気をつけないといけないから」
「ありがとうございます」
「彩花さーん!」
藤崎と話していると、手を振りながら女性がかけてきた。学と同じ通信中隊の佐々木二曹の夫人、舞子だ。
「舞子さんお疲れ様」
舞子とは年が近いのと、夫が同じ通信中隊ということもありお互いに話が合うことから仲良くなった。
「お腹まだ小さいのね」
「いつぐらいから出てくるんだろう。舞子さんの時はどうだった?」
「私は6ヶ月くらいだったかな。ある日突然、ぽっこりお腹になってたの」
「じゃあ、もう少し先かも。まだ、16週だもの」
「元気に育つんだよ。いい子いい子」
舞子はそういいながら、彩花のお腹を撫でた。
赤ちゃんはお腹の中でも、音や声はちゃんと聴こえているらしい。声かけは大事なんだと教えてもらった。
「お二人ともありがとうございます」
彩花は官舎の前で二人と別れた。
赤ちゃんができたといっても、まだ見た目にはわからない。ぜんぜんお腹は出ていない。とくにつわりもなかった彩花には実感があるような、ないような状態だ。
しかし、家族会のみんながこうして気にして声をかけてくれる。それがとても嬉しかった。
(みんなが赤ちゃんのこと、喜んでくれる。心配もしてくれる。ありがたいよね)
「よかったね、赤ちゃん」
まだ、性別が分からないので、彩花はお腹の子供に赤ちゃんと呼びかけていた。
「さて。お昼ご飯食べたら、お買い物行かなくちゃ! 今夜は何がいいかなぁ」
◇
時刻は午後5時を少し過ぎたころ。
「寒い! さむーい!」
買い物から帰宅した彩花はお買い物袋をテーブルに置いて、まずは手洗いとうがいをした。
妊娠してからはとくに、体調管理に気を使い始めた。乾燥した冬は風邪をひきやすくなる。もう一人の身体ではないのだし、忙しい学に心配のタネを与えてはならない。
天気予報は本当に当たった。空はみるみる雲が広がり、小粒の雨が降り始めた。彩花は空模様を確認してからエアコンのスイッチを入れた。
「降る前に帰ってきてよかった。夜には雪になるかもしれないね。それまでに学さん、帰ってこられたらいいんだけど」
いつ派遣命令が出てもいいように、冬の時期は夜中も車両の暖気運転をしているそうだ。
一応、今夜は帰ってくる予定だがこればかりは分からない。命令が出たらそのまま学たちは出動してしまう。どこに行くのか、いつ帰ってこられるのかがはっきりしないのが唯一の心配だった。
「とりあえず、ご飯の準備。お風呂もすぐに入られるようにしておこっと」
主婦生活にも随分慣れた。手際良く家事をこなして、その合間に大好きなカメラの手入れをする。
今回は雪が降るかもしれないとテレビで言っていた。彩花は包丁を握りながら雪の撮影をイメージしていた。
ストロボ、F値の絞り込み、シャッタースピード、レンズは望遠で……などなど。
なんせ彩花の地元では滅多に雪は降らなかったのだ。このチャンスを逃すわけにはいくまい。
「楽しみ〜。いっぱい降るといいのになぁ……」
さっきまで学が帰るまでは降らなければいいのに、なんて妻らしい思考でいたはずだ。
カメラで雪を撮りたい。そう思い始めたとたんにそんなことは吹っ飛んでしまった。
「迷彩姿の学さんの肩に雪って、ステキ! 絶対にかっこいいと思うの! 楽しみ!」
幸田学、雪景色に放り出されるかもしれない危機である。
そんなこととはつゆ知らず、幸田は無事待機命令を解除されて帰路についた。
帰り道、昼間とは違って気温は一気に下がった。吐く息が真っ白になり、見上げた空からチラチラと白いものが舞い降り始める。
なんとなく身震いしてしまう。
(なんだろうな。家に帰るのはめちゃくちゃ楽しみなのに、それとは別に変な予感が働くんだよ)
「幸田二尉、お疲れ様でした。明日は休みですよね。ゆっくりしてください」
「ありがとう佐々木二曹。君も体の手入れをしっかりとね」
「はい。ではここで」
幸田は同じ通信中隊の佐々木二曹と別れ、愛する妻の待つ家へと向かった。この時が最高に幸せな気持ちになれる。
エレベーターならすぐなのに、幸田はあえて階段で上るのだ。一段、一段と足を進めると、彩花の屈託のない笑顔が鮮明になるからだ。
そして、我が家の玄関のドアをゆっくりと開けた。
「ただいま」
暖かい我が家、彩花が作る料理の香り、リビングのドアから少しだけ映り込む彼女の影が幸田の心を和ませる。
「学さん、おかえりなさい!」
ほら、想像した通り。満面の笑顔で彩花がリビングのドアを開けた。すぐにでも抱きしめたいのを我慢して、幸田は洗面室へ向かった。
妊娠中の妻の身体を思えばこそ、まずは手洗いとうがいだ。
「ただいま彩花。身体の方はどう? そういえば、雪が降り始めたよ」
「うん、元気だったよ。雪⁉︎ 降り出したのね! 楽しみ!」
「うん? 雪が嬉しいのか。彩花はこどもだなぁ。じゃあ俺、着替えて来るよ。夕飯なんだろな。楽しみだよ」
すっかりと外の雪に夢中の彩花を横目に、幸田は着替えるために寝室に向かう。
そういえば先輩が言っていた。妊娠中の女性の精神は不安定だから、小さなことも丁寧に対処するようにと。いつもならなんて事ない一言も、大きな喧嘩に発展することがあるらしい。
幸田は愛妻の様子を注意深く観察して、クローゼットの扉を開けた。
(今日も彩花は彩花だった。よかった、よかった)
そう安心して幸田が上着のボタンを外し始めたとき、事件は起きた。
「学さん! ダメっ!」
「うおっ」
突然、幸田は背中に衝撃を受けた。予期せぬ事態に幸田は体を固くした。今の今まで彩花は大丈夫だと確認したばかりなのに、彩花はなにが気に食わなかったのか大きな声で幸田を制した。
「彩花、どうした? 俺、なにかした?」
「学さんこっちに来て! お願い、そのままで」
「分かった、分かった。だからその腕を解いてくれるかい?」
「うん」
幸田は両手を上げて降参のポーズをした。君に危害は加えないし抵抗はしないよ。だから落ち着いてという意味だ。
腰に巻きついていた彩花の腕は大人しく離れていった。それを確認して幸田はゆっくりと振り返る。
彩花はとても真剣な顔つきで幸田を見上げていた。
「どこに行ったらいいんだ?」
「あのね、ベランダに出て欲しいの」
「ベランダ?」
「はい!」
幸田は青ざめた。自分の何気ない行動がきっと彩花の気に障ったのだ。妊婦の喜怒哀楽は予測不能だと諸先輩がたが言っていたのを思い出す。
『とにかく情緒不安定になるんだよ。歩き方ひとつで気に障るらしい』
『どうしたらいいんですか』
『とりあえず、すみませんだな』
『なんと理不尽な……』
個人差はあるとは言え、それもそのうちおさまるもの。とにかく妻には逆らうな。理不尽だろうが黙っていうことを聞けと。
「彩花、その。ベランダでなにをしたらいいのかな。洗濯物は……もうないね」
「えっとね。学さんは立ってるだけでいいの」
「立っている、だけ」
「そう! 立っているだけよ。待っててね。寒いから手早くすませちゃう」
「う、うん」
きっと、気に食わないことがあったんだ。もしくは自分の不在時になにかあったのかもしれない。そんな苛立ちを、妻は夫で解消しようとしている。
(他人に当たるよりはよっぽどいいよ。なに、大丈夫。俺は自衛官だから、拳の一発や二発なんてことない。ましてや彩花の一撃だろ? 甘んじて受けるに決まっているだろう)
よく分からないなりにも、幸田は彩花の怒りの全てを受け入れるつもりだ。もとより彼女の全部を受け入れると、そう決めて結婚したのだから。
「学さーん?」
「うん?」
バシャバシャバシャバシャ――
「なっ、うっ……く」
カシャカシャカシャカシャ――
「はい、オッケー」
「……え?」
突然のフラッシュ攻撃、そして連写音に幸田の頭は真っ白になった。彩花はというと満足したのか、にっこり笑って一眼レフを部屋の中に置いた。
「学さん? もういいよ。寒くない? 早く入って」
「彩花、これはいったい……?」
「あ、ごめんなさい。説明もなしにベランダに引っ張ってきちゃって! あのね、見て後ろ。雪が降ってきたの」
「う、うん」
「雪と自衛官をテーマに撮影したくて。でも、もう少し本降りにならないと無理ね。単なるかっこいい自衛官になっちゃった。シャッタースピードをもう少し研究しないとダメみたい」
「え? 怒ってないのか?」
「誰が?」
「イライラとか」
「だから、誰が?」
「彩花、が……」
幸田の問いかけに、彩花はきょとんとするばかりだ。そしてとうとう首を大きく傾けてしまう。
「妊婦さんは心が不安定で、怒ったり泣いたり忙しいって聞いたからさ。だからてっきり彩花も」
「なるほどー。学さん、今のところ私は大丈夫だよ?」
「俺の考えすぎか、そうか。よかっ……はっ、くしょい!」
「やだ、学さん。ごめんなさい。風邪ひいちゃう。先にお風呂で温まって!」
ほっとしたのと連日の緊張の糸が切れたのとで、幸田は大きなくしゃみをしてしまう。なんだか、どっと疲れも出てきた。
「よかった。やっぱり彩花は彩花だった」
「着替え持っていくから、お風呂いってて」
彩花に背中を押されながら幸田は思う。
(安心したら、なんだかムラムラしてきた)
「学さん?」
なにも言わない幸田を不思議に思ったのか、彩花は幸田の顔を覗き込む。その仕草がたまらなく可愛くて、幸田は彩花の身体を羽交い締めにした。
「えっ、学さんたら。どうしたの? お風呂は」
「もうさ、めちゃくちゃにしたくて、でも、しちゃダメだって俺ともう一人の俺とが喧嘩してる」
「えっと……よくわからない」
「お腹の赤ちゃんに叱られるよな。でもさ、ちょっとくらいならいいんだよな? そう言ってなかったっけ、お医者さん」
「なんの話なの? 学さん」
幸田は彩花を抱きしめたまま、後ずさりしながらお風呂場に移動していく。もう自衛官の自制心が崩壊寸前だ。一緒にお風呂に入って、あんなことやこんなこと、そんなことやあんなことを想像して幸田の身体は発汗していた。
「彩花がいけないんだよ。俺をこんなにしちゃってさ!」
「え? ええっ、どうして私のせいなの」
「彩花が! 可愛いすぎるから!」
「きゃぁぁっ」
幸田は彩花をひょいと持ち上げて、脱衣室に消えていく。明日は休みだから、彩花のいうこと何でも聞くから、だから今夜は俺のいうことを聞いてくれ。
幸田はこのあといっぱい彩花を可愛がった。もちろん、妊婦さんに負担をかけないように、緩く優しくゆったりと。
「町内清掃お疲れ様。足、マッサージしてあげるよ。肩は大丈夫? お腹しんどくないか? いい子、いい子。彩花も赤ちゃんも、すっげえいい子。よしよし……」
「学さん……私も学さんを……マッサージ……」
毎日国のために働く夫を今日こそは労おうと思っていたのに。雪と自衛官だなんて思いついてしまったがためにこんなことに。
この日彩花は温かな幸田の腕の中で、深い深い眠りについたとさ。
翌朝、数センチの積雪に彩花は大興奮。
休日なのに、戦闘服を着せられて官舎の中庭に立つ幸田がいたとかいないとか。
そして、【雪と自衛官】が賞を取ったというのは、また別のお話。




