第2話「離婚届を出しに行った日」
ーー三日前。
私は離婚届を持って役所へ向かっていた。
快晴だった。
雲ひとつない青空で、11月にしては気温が高い。
こういう日は、新しいことを始めるのに向いているのかもしれない。
もっともーー。
離婚が新しいことと言えるのかどうかは分からないけれど。
バッグの中に入れた書類を確認する。
透き通るような用紙が一枚。
何度見ても変な気分だった。
結婚した時は別な色枠の婚姻届だった。
始まりも終わりも紙切れ一枚。
25年という歳月は、案外あっけないものらしい。
夫が嫌いだったわけではない。
浮気されたわけでもない。
暴力を振るわれたわけでもない。
ただ、いつからか夫婦ではなくなっていた。
すぐに上の娘が生まれた。そして年子で次の娘が生まれた。
成長はあっという間だった。
進学、就職、そして独り立ちした。
そんなふうに親として生きているうちに、気付いたら夫とは会話する相手になっていた。
それだけだった。
だから離婚すると決めた時も、大きな喧嘩はなかった。
むしろ穏やかだった。
『そうだな』
『そうね』
その一言で終わったくらいだ。
思い出すと少しだけ笑ってしまう。
長年連れ添った結果がそれだったのだから。
「さて」
私は役所の自動ドアをくぐった。
平日の昼間だからか、人は少ない。
番号札を取り、椅子に座る。
静かな時間だった。
妙な達成感があった。
肩の荷が下りたような。
長かった子育てを終えたような。
そんな感覚だった。
これからは何をしよう。
旅行もいい。
料理教室もいい。
犬でも飼おうか。
いや、さすがに勢いで決めることではないか。
そんなことを考えていると。
電子音が鳴った。
『百二十八番のお客様、窓口へどうぞ』
アナウンスを聞いて、立ち上がった。
少しだけ緊張する。
でも後戻りするつもりはなかった。
窓口へと向かう。
「こんにちは」
「はい、こんにちは」
女性職員が微笑んだ。
私は離婚届を差し出そうとして。
固まった。
「……え?」
耳が長かった。
異常なほど長かった。
まるで映画に出てくるエルフみたいに。
いや、違う。
みたい、ではない。
本当にエルフだった。
職員が首を傾げる。
「どうかなさいましたか?」
私はゆっくり周囲を見回した。
もう一度。
さらにもう一度。
現実逃避も兼ねて。
だが見間違いではなかった。
さっきまであったはずの案内板がない。
天井が高い。
壁は石造り。
獣耳の女性が歩いている。
角の生えた男が書類を抱えている。
小柄な老人が宙に浮いていた。
「……」
「お客様?」
「ここ……どこですか?」
「中央行政庁ですが?」
どこですか、それ。
そんな場所は知らない。
私は今朝まで愛知県にいたはずである。
少なくとも角の生えた人間は見かけなかった。
たぶん。
「すみません」
「はい」
「日本はどちらでしょう」
職員が瞬きをした。
「ニホン?」
あぁぁあ……終わった。
終わりだ。話が通じない。
完全に終わった。
だが50年も生きていると、簡単に泣いたりはしない。
流す涙を惜しんでしまう。
「どうしよう……どうすればいい……」
その時だった。
ドオオオオオオーン!
ものすごい音と同時に、建物全体が大きく揺れた。
「うわっ!?」
周りで悲鳴が上がる。
カウンター奥の書類が飛ぶ。
職員たちが慌ただしく動き始める。
「始まったぞ!」
「勇者と魔王の決戦だ!」
「避難誘導急げ!」
勇者? 魔王?
まぁ、エルフがいるくらいだから、出てきてもおかしくは、ない。
でもーー。
私は頭を抱えたくなった。
他所でやってほしい。
それか、私が元のところへ帰ってからにしてほしい。
相当危険な状況なのか、職員たちに押され、そのまま外へ出ることになってしまった。
出た瞬間。
「……うそ」
遥か遠くの空に、巨大な光の柱が伸びていた。
稲妻が走る。
爆発が起きる。
山が削れる。
雲が吹き飛ぶ。
あまりにも規模がおかしい。
「何あれ」
隣にいた職員が答えた。
「勇者と魔王です」
「勇者と魔王?」
「はい」
職員は当たり前のように頷く。
「現在、世界で最も有名な二人ですね」
「どうすればいい……」
本日二回目だった。
帰れる方法は?
夢なら早く覚めてほしい。
願いは通じることはなかった。
さらに巨大な爆発が起きた。
空が白く染まる。
誰もが息を呑んで彼らを見ていた。
そして、風が止んだ。
すべてが死んだように静かになる。
空に人影が現れた。
黒い帽子に黒いローブ。
重力に逆らうように毛先がフワフワと宙に漂う長い髪。
女性だった。
彼女は戦場を見下ろし、大きなため息をつく。
そして、「パチンッ」と指をはじいて鳴らした。
ただそれだけだった。
光が、雷が、消えた。
爆発が起こらなかったかのように、景色が元通りになった。
「……え? あれは、誰だ?」
「魔女じゃねーか?」
どこかで誰かが呟く。
勇者も魔王も消えていた。
戦場だった場所の真ん中に立っていたのは、2歳くらいの男の子が二人。
金髪と黒髪。
ぽかんと口を開けている。
沈黙は三秒ほどだった。
「うぇぇぇぇぇぇん!」
「ぎゃああああああ!」
二人同時に泣き出した。
とんでもない大音量だった。
世界最強とは思えない。
拡声器機能付きである。
すると魔女らしき存在が満足そうに頷いた。
そして、その視線が動いた。
真っ直ぐに、こちらへとたどり着く。
嫌な予感がした。
目が合うと、にっこりと嬉しそうにほほ笑んでいる。
「は?」
それにつられるかのように、周囲の視線の集中砲火を受ける。
「あぁ、よかったねぇ。子供達を助けてもらえて」
背後からワァッと喝采の声が上がる。
「は?」
しかし次の瞬間、二人の幼児が駆け寄ってくる。
そして両手を伸ばしてきた。
「かあたん……」
「だっこぉ……」
私は遠い空を見上げた。
離婚届を出しに来ただけだった。
それだけだった。
それなのに。
知らない子供に抱っこをせがまれている。
しかも二人同時にである。
私の腰が先に終わる気がした。




