五、清和之麦秋(せいわのばくしゅう/はれたひのみのり)<終>
「清秋!」
背後からの呼びかけに、木の下に座っていた少年は立ち上がりながら振り返った。さらりと揺れる高い位置に纏め上げた黒髪、それより強い色の黒を宿した瞳。
彼に声をかけたのは、汚れた手拭いでほっかむりをし土仕事に使われる簡素な作業衣を纏った中年の男である。にこにこと微笑みながら清秋に近寄り、ぺこぺことお辞儀をしつつ手にした農作物を差し出す。そして荒れた唇を開き、声を発した――
「報せが届いたぞ、くだんの方と連絡がついた」
はたから見ると、作業ついでの農民が身なりのしっかりした小姓風の少年に愛想よく話しかけているといった光景だ。唇の動きを見ても、『いつもありがとぉごぜえます、【星】の従者様』としか読めない。
唇の動きのみなら。
「『どんぞ、これらを【星】様に。オラたちからのせめてものお礼です。さっき摘んできた山菜とオラの畑で収穫した野菜でさあ』どうやら国境付近の農村に暮らしておられたようだ。実家には戻ったが隣国の情勢が気になるあまり、其処へ移住したらしい」
「『ありがとうございます』そうでしたか」
受け応える清秋も、唇の動きと異なる言葉を発する。そして二人は二人共が、周囲の音に紛れやすく人間の耳に聴き取りにくく、そしてそのことにも気づかれにくい特殊な発声で会話をしている。
変声術と腹話術の混合応用による会話は、五感を研ぎ澄ます鍛錬をこなした草の者等、限られた者しか扱えない暗技。裏社会で常道な読唇術をも惑わす、高度な発声技法であった。
「『しかし、お気持ちはありがたくも、私は星の従者として食べ物を含む金品を受け取れぬ立場にあります、ご了承を』それで、かの方の現状は如何に。もしあの国での出来事を思い出したくないのであらば、今までのご苦労やご心労を考え無理に関わりたくないのです」
「『そうかぁ、残念だ。オラの畑の野菜、とっても新鮮でうめえんだ、きっと【星】様も気に入ると思うんだがなあ。どうしてもだめか? ほら、うめえんだぞオラんちの』大丈夫、戦禍は無く無病息災とのこと。所帯も持って幸せに暮らしておられる。どうやらその村は清秋の曾祖父殿が戦前より手を回し援助をしていたそうで、ゆえにかの人も良縁を得られたようだ」
「『まことに申し訳ない』そうですか、良かった」
「『本当にダメかあ。じゃあせめて【星】様に美味いもんたくさん食べて末永くご健康でとお伝えしてくだされ』こちらが彼らのことを匂わせたら、関連を隠すどころか縋りつくような勢いで聞いてきたらしい。どう見ても純粋に心配していた、とのこと」
「……『はい、しかと』ありがたいことです」
「ああ」
相槌の一部のみ言葉と唇とを一致させ、男は微笑む。そして「話し続け」た。
―――清秋のことを教えたら涙ながらに喜んでたらしいぜ。もう少し状態が落ち着いてからとのことで文も物も送れないが、許してくれとさ。いわばお前の、ばあちゃんみたいなもんなんだろ? 落ち着いたら逢いに行ってやれよ
少年も微笑んで返す。
―――確証は出来ませんが、個人的にもお逢いしたいので、予定しておきたいと思います。今現在は確かに難しいですが、未来には、きっと
晴れ渡った空の下、農民に扮した情報屋が去っていった後。
清秋はふうと息をつき、木陰の下、地面に敷いていた布の上に腰を下ろした。脇に寄せていた書物を手に取って膝の上に載せ、開く。自分のような子供が携えるに不自然でない、少し進んでいるともとれる段階の言語教書である。
……本当はこの教書程度の知識は続刊も含めとっくに修了しているのだが、それはそれだ。自分はあくまで、まだ子供。「他人が見て」「不自然ではない程度に」「それも立場上」「少々大人びている」だけの歳若い少年だ。そのように装わねばならない。
季節は初夏。若葉が青葉となり、別の場所では一年初めの麦の穂が刈り入れ時を迎えている。植物が最も多様な成長を見せる節。
ひゅう、と瑞々しい梢より吹き抜けてきた風が清秋の髪を揺らす。温風にはまだ遠いが、木陰にいないと日光が燦々と熱く、少し動くと汗ばむ程度に気温は高い。
(……琉夏さまはまだ、出てこないのだろうか)
今回自分らが訪問したのは都近くにある、とある古い建造物。小さな山の中腹にあるので、ここを訪ねる人間は極わずかである。周囲は緑が取り囲み、常人の耳には木々がそよぐ音と鳥の鳴き声しか聴こえない。しかし。
(暑いし、鬱陶しい)
出来るだけ鈍感な振りをしているが、清秋の五感は常人よりも鋭い。自分達以外の人間の存在にはとうに気づいていた。先ほどの情報屋を除き、遠巻きに気配と視線がふたつほど。
一見、人気の無い場所でも、その実、遠所より常に監視の目が在るのはわかっている。人混みに紛れられる都と違って人数は少ないが、そして彼らの最大の注視対象である人間はこの場に居ないが、従者である自分にも少なからず監視は付きまとう。
此度の担当者は新参なのか、気配隠しが特に下手だ。
(我慢しろ)
清秋は正直、こういった状態は苦手である。猫被り笑顔は彼の主ほど得意ではない。他人に媚びるのも、愚鈍の振りをするのも、掌で転がされるのも性に合わないし慣れもしない。しかし、他ならぬ主が言ったのだ。「我慢しなければ、一緒にいられないのだよ」と。
(辛抱しろ)
だからここ数年、じっと耐えている。主を見習って、それらしい演技も覚えた。彼女がいない場面でも、監視に気づかない凡庸な子供を装えるまでには成長した。
でも、やはり。
(……琉夏さまがいないと、自分は駄目だ)
素人のような気配や無遠慮な視線に気づかない振りをするのは、正直鬱憤が溜まる。なんならわざと視線を合わせ、煽ってやりたくもなる。そして待望の情報であったのにも関わらず先ほどの凝ったやり取りを面倒だな、と思う程度には自分は気が短い。主である琉夏が目に見える場所に居ないので、余計に苛々としている。暑いし。
学業のついでに裏社会の一部の者らが使う発声術を覚えてみたが、使用価値はあるにせよ表情筋の演技と併用なのが実に面倒くさいし、もどかしいのだ。読唇術と同様、習得した際に主が褒めてくれたのがせめてもの報いである。
(琉夏さま)
『清秋は本当に覚えが速いな……狡いくらいに。そろそろ仕掛けを教えてくれ、実のところカラクリがあるのだろう? え、無い? 嘘をつけ嘘を』
脳裏に主の軽やかな声が蘇り、少年の口元にしらず自然な笑みが浮かんだ。常に己を客観視し年不相応に大人びている「従者」はその瞬間のみ、消える。尤も、彼自身は気づかないほど刹那の表情変化であるが。
『星』の従者となって――正しくは、自身が『星』であることを隠してただの少年の振りをするようになって、五年。
清秋は、ようやく十歳になろうとしていた。
山頂へ向かう登山の休憩所でもあるここは、掃われた草や木陰を作る大きな楠の他にも、植物に人の手が適度に入っている。下り山道に続く位置に植えられているのは橘の木。濃い緑の葉に重なるよう、白い五片が花を咲かせている様が美しい。
清秋はついと顔を上げた。教本は「読み終えて」しまったが、目の前の古びた建物から、人が出てくる気配は未だ無い。もう少し時間がかかるだろうと見当をつけ、書物を閉じた。
手荷物から片手に載るくらいの小さな捩り包みを取り出し、中身の一片を口に放り込む。カロン、と小気味よい音がした。
(ほら、お前も休め)
飴玉をカラコロと口の中で転がしつつ、背後の木に寄りかかって子供っぽい表情で「一休みする」。離れた人の気配からも、遅れてガサゴソと何かを取り出す音。こういった空き時間に何もしないのは生産性が無いとは思うのだが、如何せん無粋な目が在る。「ぼんやりと」「息抜きをしつつ」「ついうとうとしてしまった」子供でも演じてやれば、相手も適度に油断してくれるのだ。あと、山奥にまでついてきてご苦労様、の意で。
監視者に「休憩」を与えてやりつつ、清秋は膝を抱えて思索に入った。自分の脳内だけでも出来ることはある。現状況を多方面から眺め、この先如何様な事態にも対応できるよう、思いつく限りの模擬実験を重ねるのだ。琉夏の身の安全を第一優先とし、先ほど受け取った情報を加味し、この先のことを思案する。問題の芽が見つかれば、それを徹底的に潰す手段をまた幾通りも考える。それでも問題が起きてしまった場合、考えられる解決策とそれが不可能になった場合のありとあらゆる手段をまた講じる。
特に、琉夏に関してはどれだけ考えても足りない。彼女を取り巻く危険や厄介ごとは数知れないし、何せ本人がああいう人間だからだ。責任ある立場のくせに、すぐ厄介ごとに首を突っ込みたがる。人の気も知らないで。
「……」
ふと、亡き両親の幻影が脳裏をかすめた。脇道に逸れるように思い起こされる、彼らのこと。秋橘国と春椿国の境に存在「していた」小国出身の、二人の男女。
(……母が父と出逢ったのは、七歳の時だと)
幼い頃、まるで童話のように何度も聞かされたので覚えている。父親は務めに出ていることが多かったので、清秋の古い記憶の多くは母親とのそれだ。共にいただいた朝餉の湯気、抱き上げられた視線から見た風景、添い寝の安心感、繋いだ手のぬくもり、漂うお気に入りの香、檜の湯船、長い髪、唄う声……
父親は出かけていることが多かったが、共に過ごした時間が少なかったというわけでもない。顔は既に朧げだが、触れ合いや手ずから習いを受けたことははっきりと思い出せる。武家の教えを諳んじる低い声、墨の匂い、大きな手、高い高いをされると怖くて泣きだしてしまった記憶、素振りをする裸の背、手を添えて握らせてくれた槍に巻かれていた朱の布……
「――」
どうして今更、こんなことを思い出してしまったのだろう。
かの国において、武家と文家、そして神家が権勢を誇ったのにはわけがある。いずれも元を辿れば建国に深くかかわる三人の人間が先祖であり、武は護国、文は政と文化の要。そして神は特殊な存在感を放っていた。
「神」とは言っても、一神教ではない。この世のすべてに畏敬は宿るといういわば多神教、精霊とは別の場所にある信仰の在り方がかの国教だった。とは言っても源流が此処ではなく、他の国にもそういった考えは山ほどあるのだが。
かの国の「神家」が特殊なのは、先祖から連なる直系の一部に、特別な力を有する者が出現するという点だ。
知られている存在でいえば、清秋の曾祖父がそれにあたる。若くして神祇官最高位となった彼は、類まれな卜占の能力を持っていた。各国に必ず一つは存在する森羅万象を映し出す神器「水鏡」、それに勝るとも劣らぬ予知性と慧眼を誇り、内外から珍重され生前は盤石な地位を固めていた。尤も、自分自身のことだけは占えなかったそうだが。
能力は個人によりまちまちで、どのような機会で判明するのかは一切不明。中には一生未覚醒で終わる者も居た。曾祖父は早い段階で覚醒出来たが、その一人娘である清秋の祖母は覚醒出来ないまま終わってしまったとのこと。
(……まあ、あの時代にあの環境、そしてたった十四で死んでしまっては、覚醒どころではない)
覚醒出来るかどうかは個人の運、時の運。直系の誰しも生きているうちに異能を発揮できるわけではない。ただ、「神家」の血を引くものは不思議に第六感が働くというか、物事の本質を見抜いたり先見の明を持つ者が多かったようだ。ゆえに時の権力者より厚遇され、高い位に就く者が多くなり、武家や文家に並び立つようになった。
……とまあ綺麗ごとを並べてはみたが、要は国家規模での危険な存在を纏めて隔離、地位を与えて忠節を誓わせることによる衆目監視の正当化である。
(何かに似ている)
妙に疑似感を覚えるのは、恐らく気のせいではあるまい。
清秋の母は、神祇官長であった曾祖父の家で育てられたそうだ。実質的な育て親は彼女の乳母。周囲の期待や権力者の意向で縛られることの多い神家の直系にも関わらず、母は七つの歳まで普通の士華のように過ごしていたらしい。
その立て役者の一人であり、彼女の恩人である乳母――萩という名の女性の安否が、つい最近になって判明した。地固めをしながら顔なじみの情報屋にこっそりと依頼していた案件である。清秋に彼女の思い出は皆無で特段思い入れも無いのだが、未来を考える上で存在する不確定要素のうち、もし生存しているならさすがに無視が出来ない、ということで調査してもらっていたのだ。母と別れても頻繁に文のやり取りをしていたことは知ってはいたが、関わりの無い清秋のことまで彼女が気にかけていたとは正直想定外だった。母を我が子同然に育ててくれただけあって、余程、情に厚い人間なのだろう。
(逢えるとは限らないが、先の楽しみが増えた)
出逢ったことの無い人間に対しそんな気持ちを抱いてしまう自分が、少しおかしい。理由はわかっている。清秋の主である琉夏が、まさにそんな人間だからだ。
(琉夏さまと萩の方は、きっと、気が合うのだろう)
易々と、想像がついた。
脇道に逸れた思考は、いつしか両親が生きていた国の環境へと至ってゆく。
(あの時代、あの情勢下のあの国で。もし自分が父や母の立場であったら、どれだけのことが出来ただろう)
思いあぐねても詮無いことだ。しかし考え付いたらいつもの癖で、つい模擬実験を重ねてしまう。
(父は……父の生き方は、少し自分には難しい)
あの劫火よりの脱出の記憶、亡命の前後を客観的に考察する度、父が居ただろう環境は決して悪いものではなかったと判断できる。庶子なりに周囲に護られ、そして本人にそれを受け継ぎ発展させるだけの能力もあった。内側に味方は少なかったやもだが、外側に味方は多くいたはずだ。それだけの家格があり、彼の兄は当時としては改革者で異母弟と仲は悪くなかったので、再起の芽や人脈は遺していたはず。誰かの手引があればこそ、清秋達は混乱の渦中で国境付近まで動けたのだ。
なればこそ、外部の味方を使って内部の敵と戦えたはずである。物であるがゆえ国民の多くに秘匿されていた『星』の所在を知ることが出来たのは、武官長という立場あってこそ。しかしそれを利用しなかったのが、実に非合理な部分である。
持ち直せる手段は在っただろうにそれを選ばなかったのは、父自身がそれを望まなかったから。としか言いようがない。『星』を確保してから家族と共に逃げたのも、物である『星』がいざという時の交渉道具になるというより、武力を持たない妻子の命の保障になり得るから、という単純な理由が大きかったのだろう。
「……」
無意識に噛み砕いてしまったのか、溶けるのが早かったのか。口内の飴玉はいつの間にか消え、空虚な甘みだけが舌に残る。
(母は……母の生き方も、自分にとって難しい)
男女の別ということを抜きにして、もし自分が神家の直系に生まれていたら。能力の覚醒はしてもしなくとも、いずれは曾祖父と似た道を歩んでいただろう。すなわち、権力に自ら取り込まれてその中で強かに生き抜く術を得る。もしくは、国に見切りをつけて祖父の遺した伝手を用いさっさと亡命する。
しかし、実際に母の選んだ道は中途半端で意味不明だ。せっかくの遺産を乳母を国外退避させるためだけに使い、己自身は危険極まりない国内に留まった。遠縁に引き取られて後も流されるがままで、父と結婚してからも特別目立った行動はせず、しかし最後の最後になって国宝と共に一家で国外逃亡という。客観的に見て、無計画極まりない。
それだけの行動力があるのなら、もっと早い段階で決断が出来ただろうに。長いこと決断しなかったのはそう、やはり、子供が小さかったからか――
「―――」
考えが、いつの間にか悪い方向に向かっている。そのことに気づき、清秋は膝の間に顔を埋めた。
・
・
・
「…しゅう、清秋。清秋っ!」
「!!」
耳元で優しい呼びかけがしたかと思ったら、急に大きな声となり、清秋はびくっと跳ね起きるように覚醒した。
「珍しいな、お前が外でうたた寝なんて」
澄んだ鈴の音のように聴き心地の良い、軽やかな声。ちらちらと落とされる新緑色を後光に、艶やかな黒髪の女性が清秋を見つめている。
「琉夏、さま」
「遅くなって済まぬな」
清秋を至近距離で覗き込みつつ起こしてくれた人は、にっと笑いながら立ち上がる。化粧された紅の軌跡、遠ざかる香り。ふわり、たなびく美しい朱と黄金の薄衣。織り込まれた橘花の煌めき。
「さて、本日の務めは終わった」
しぃん、と鳴る揃いの色の簪は、細緻でこれまた美しく。しかし、それよりも何よりも美しい人が、初夏の緑と白き花が前に立つ。清秋に、鮮やかな微笑みを投げかけてくる。
「帰るぞ、清秋」
(琉夏さま)
「……はい」
まるで磁力に引かれるように、少年は立ち上がった。
薄衣と簪は、持参の手筥に仕舞われ風呂敷で更に包まれた。『星』の装いは、さすがに山道を歩くに適さない。
「この辺りは外国伝来の慣習が根を張っていて面白いな。里では毎年、街を流れる川に葉人形を流して無病息災を祈るそうだ。『星』の来訪記念に幾つかいただいたぞ。あとで見せてやるが、五歳児が描いたような微妙な点線が実にかわいらしくてな」
「……はい」
「担当官殿の絵の腕前を貶しているわけではないぞ! 里の者すべての人形の顔入れをしているだけあって、時短に優れているという意味で、素晴らしい画風だと思う。この点線で肖像画は頼みたくはないがね」
「……はい」
「元気が無いな。いつもの打てば響くような返しはどうした、清秋?」
軽快に山道を下りつつ軽快に声を発していた琉夏が、振り返った。山歩きの汗で流れてしまうので化粧を落とした、素のままのつるりとした顔。
「いつものお前ならば『琉夏さまの画力に比ぶれば誰でも画伯と称されましょう』などと毒を込めた軽口のひとつやふたつ、瞬時に出てきそうなものだが」
「……るかさまのがりょくにくらぶれば、」
「棒読みでそのまま返すな」
先を歩いていた旅装の脚絆が、ずかずかと音を立てそうな勢いで戻ってくる。
「どうした、清秋? 長く待たされたこと、臍を曲げておるのか? ん?」
「……違います」
さらり、と艶やかな黒髪が傾げられた。清秋はここ一年ほどでだいぶ背が伸びたが、それでも琉夏の方が指三本分ほど高い位置に視線がある。
「悪い風にでも当たったか。具合が悪いなら、そこな殿にてそのまま休んでも良かったのだぞ」
「……違います!」
清秋が「普通の人間のように」体調を崩すことなど、あり得ないと知っているだろうに。
「……。少し、悪い考えに浸ってしまって、その余韻が残っている、それだけです」
「そうか」
琉夏は、ふむ、と旅笠の下で顎に手をやった。そして思いついたようにぽんと打ち、持っているものを探り始める。
「いいものをやろう」
「……」
彼女が手にしているのは杖と木皮で編まれた手提げである。単衣の下の細い手でがさごそと探って取り出したのは、小さく青々しいかたまり。
「ほら、先ほど頂いた葉人形だ。橘の葉が丁度顔を模していてな、担当官殿の時短に優れた目鼻の点線がまたいい味を出しておる。春夏秋冬、季節の草を編み込んだ人形にするそうだが、今は橘の葉なのだ。先ほど入り口にあったあれだ。我が国の象徴である花、そしてその青葉とは、縁起が良いとは思わんか」
「……はあ」
「ほら、手を出せ。空いてるだろうが」
大きめの手筥を包んだ風呂敷と、二人分の手荷物。それを背中に一纏めにしてあるので、両手は確かに空いている。しかし下りとはいえ山道で、これだけ大荷物の従者にまだ何かを持たせるというのはいくらなんでも。……という無言の抗議は、清秋の主には通用しない。
「ほら」
そんなわけで清秋の手の平に強制的に載せられたのは、初夏の青葉で形作られた小さな人形だった。
「ゆくぞ」
「……」
どうして今、これを手渡すのだろうか。ぼんやり考えながら、すたすた歩き出した琉夏の後に続く。前をゆく彼女の旅笠、その下に零れる黒髪からいつもの香がほんのりと流れてくる。それを感じながら、清秋は手元に視線を落とした。なんの気なしに、人形を裏返す。
そこに書いてあった、人の名前。
「……!」
「葉人形を流す意味合いは、特に決まっておらず、人それぞれらしいぞ」
ざかざかすたすたと歩きながら、琉夏の声が流れてくる。
「誕生の祝い、成人の記念、忌年の祓い、出世の願い、賀と喪の祈り。大事な人間の病が治るよう病の名を書いたものを川に流したり、死者が安らかに眠れるよう彼らの名を書いたものを流したりするそうだ」
「――」
(琉夏さまは、神官の目を盗んでこっそりと書いたのか、これを)
「重要なのは、流す日にちと場所。いずれは大海に辿り着くそれが自然に解けて自然に還るよう、旬の青葉だけで作られているとのこと。墨も特殊なものを使用している。先人の知恵と思い遣りだな」
「――……」
(書いて……くださったのか。他に言えない、まだ明らかに出来ないこの名前を)
清秋の主の声は、まるで聖なる鈴の音のようだ。濃い霞の中でも凛と響き、方向を指し示す。
「ほら、かわいらしいだろう? 見ていて和むと思わんか」
「……はい……」
『清朱』『秋玲』
人形の裏に琉夏の筆跡で書かれていた文字はその二つ。それは人の名前であり、清秋の両親の名前であった。
・
・
・
『見てくれ! 清秋は覚えが早い! もう自分の名前を書けるようになった!!』
『まあ、本当』
『俺が小さい頃は、中々「清」の字を上手く書けなかったのに』
『わたくしは「秋」の字が上手く書けなかったわ。でも、清秋はもうふたつとも書けるのね。しかも、こんなに美しい字で……』
『すごいぞ清秋!』
『あなたの名前はね、清秋。清朱さまと、わたくしから。父上と母上、両方の名前から一文字ずつとって名付けたのよ』
『秋玲と俺、二人分の幸がお前にも与えられるように。母と父、出逢えたことで生まれたのがお前ゆえ、その意味を込めた』
『この先、何があるのかわからないけれど。……清秋、』
どうか、幸せに生きて。
・
・
・
「―――………ッ」
(まずい)
実に久しぶりに、清秋は己が危機を迎えていると感じた。感情を、抑えきれない。山道のさなか、木陰で見えにくいとはいえ、まだ監視の目が在るのに。
(泣いてしまう)
目頭が熱くなり、視界の中の両親の名前が歪んだ。瞬きをすれば、雫が落ちてしまう。決壊してしまう。
(今ここで泣いたら不自然だろう)
泣いてはいけない。
(泣くな)
泣いては―――
「せっせせせせせせいしゅううううううーーーー!!!!」
つんざくような声で呼ばれ、はっと気が付いた時には清秋はぼふん、と暖かい暗闇に包まれていた。いや、苦しいくらいの力でぎゅうぎゅうとしがみつかれている。
「るか、さま、」
「ヘビだ、蛇ーーーー! 清秋ッあれ、あそこ!!」
「琉夏さま、おちつ、」
「ぃやーーーーーー蛇キライーーーーー!!! 清秋、さっさとやっちまえ!おっぱらえ!!」
「………。はいはい」
暑いので離れてください、あと前が見えないので離してください、と続けつつ清秋は自分の顔を包む袖に手をやった。本当に、我が主は。琉夏さまは。
(どれだけ、わかっているのやら)
苦笑しつつ、胸が痛みつつ。
その腕の中は、どこまでもあたたかい。
「ありがとうございます」
「何か言ったか!?!?」
「いいえ」
そうやって、少年はあたたかい暗闇で涙を拭った。
・
・
・
父上、母上。
正直、今の私の気持ちをどうお伝えしたらよいのか、まだはっきりとしません。
幸せなのか、不幸せなのか、両極で答えるとするのなら、幸せなのでしょう。
でも、まだそうはっきりとお伝えしたくないのです。
私にはこれからやるべきことが山ほどあり、どのひとつも達成には至っておりません。
ゆえに、幸せとはお伝えできません。
幸せとはっきり断言してしまったら、道がそこで途絶えてしまうからです。
私の前に続く道は、まだまだ先が見えぬほどに遠く、険しいものです。
しかしその道が続く限り、自分は生きていると思えるのです。
ゆえに、まだ幸せではありません。
不幸せでもありません。
この道が半ばである限り、私は進んでゆけると信じています。
この先を照らす光は、自分自身だと。
私は―――道を作る、『星』であり続けます。
母上、父上。
私は、優しい人達に出逢いました。
きれいなもの、あたたかな気持ちを沢山教えていただきました。
世界で一番美しい方にお傍に置いてもらえました。
私はその方を通し、世界が更に美しいと思えることを識りました。
母上が語ってくれたように、己の全てとも呼ぶべき初恋なのか。
父上が示してくれたように、己の全てを賭し護るべき最愛なのか。
まったく違うものなのか。
まだ、私の未熟な心では判断がつきません。
しかし今は、隣で生きられることが何より嬉しいのです。
この方が、好きなのです。
生きたいと思います。
この方の隣で、生きたいと思います。
私は……生きております。
空は青く、花は白く、土は黒く、甘いものを受ける唇は赤く。
色彩が溢れまたは消えゆくこの界で、未熟を噛みしめ、幼さを嘆き、しかしその都度暖かな腕に抱きしめられ。
耳を澄ませ音を聴き、手を伸ばし熱を求め、胸を押さえ魂を感じ、そうやって己の裡に蓄えた緑を育みつつ。
日永の夜も、夜長の昼も、ひたすらに未来を信じて。
いつか、黄金色の実りとなるその瞬間を、私は待っています。
【道を作る星・番外編終わり】
秋玲・・・清秋の母。初恋の君と結婚できた箱入りお嬢様。清秋の外見とおおよその気質は母ちゃん譲り。実は彼女こそが亡国の『星』の導き手であり特殊な血を有する神家最後の直系、なので自分の命と引き換えに物の『星』の力を他所へ移すことが出来る超限定的最凶異能を保持していた(その能力を使う⇒人の『星』が命を失い、物の『星』が消滅する⇒国の滅亡が確定)。土壇場で目覚めたその能力で息子を『星』の現身にしたらしい。尚、本人は息子を生かすこと以外は考えていなかった。おしとやかに見えて猪突気味だったっぽい
清朱・・・清秋の父。初恋の君と(中略)武門の息子。心優しいが乱世の武家には向かない性格で、放っておくと自虐してしまうので誰かに引っ張られる方が生き生きするタイプ。清秋の慎重な部分は父ちゃん譲り。妻と結ばれてからは一本芯が通ったようになり、地道に地位を固めてゆく。人材不足により若くして武官長になるが、謀反を企てた王臣の一人に妻子を人質に取られそうになり、耐えられなくなって『星』を確保し一家で逃走。忠義はあるが本人の中では家族>>国だった。彼と清秋の存在で秋玲(『星』の導き手)は希望を棄てずにいられたので、彼がいなかったら国の滅亡はむしろ早まっていたと思われる
春生まれなのに秋玲の名に「秋」が入っているのは、彼女の亡き母の好きな季節が秋だったので、名づけ親である祖父が思いを込めたという裏話。清朱の名は、遅めの紅葉が美しい日に生まれたので母親が名づけました。秋玲に朱色が似合うと言われて、改めて自分の名を好きになったようです。
清秋の名は母と父の名から字を一つずつ貰うと同時に、清朱の兄(和清という名)と秋玲の乳母である萩の名前からもいただいています。清秋は後で琉夏にそのことを教えてもらったようです(やっぱり琉夏と萩は気が合ったらしい)。
そのほかの登場人物については活動報告にて。
番外編を読んでくださった方、本当にありがとうございました!




