16.純銀の鋏〈後編 絡み付くもの〉
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「どうしました? お父様」
カイムが突然に発した独り言に、ジゼルは動揺している。
「何でもないよ、気にしないで。ところで、今もざあざあと音が聞こえる?」
「はい、聞こえます。変わらずに音がします。でも雨は降っていないんですよね?」
「そう、快晴だよ」
「ねえねえ、ジゼルちゃん! 雨みたいな音以外に、何か聞こえないかな?」こういう時、ルークが居ると場の空気が緩む。和むのではなく、良くも悪くもグダグダな感じに流れが変わる。
「あの……、ええと」ジゼルは、ルークのテンションの高さに驚いているようだった。
「俺はルーク。カイム様に、とっても信頼されているイ……じゃなくて、兵士だよ」何故か鼻息荒い感じで、胸を張っている。
何かと思えば、ルークはお兄さん気取りならしくて、頼りにされたいようだ。カイムは、あまり耳を傾ける必要性を感じなくて、一歩引いた。でも、ほほ笑ましくはあるので、本人に気付かれない程度の、軽い覗き見は止められなかった。
「あ、はい、どうも。よろしくお願いします。あの、雨音以外のことですよね。雨以外の音……いえ、何も聞こえません」
「今までこうした音は聞いたことがある?」カイムは自然、腕を組んで熟考していた。
「雨の日なら普通のことですけど、今は雨が降っていないのだと教わりましたから、初めてかもしれません」
エルドが威圧感を感じさせないように笑む。
「音はいつから聞こえていたか判るかい?」
「それは……目を覚ました瞬間からです」
部屋が沈黙に包まれると、カイムは潮時だと感じ、椅子から立ち上がる。背凭れの頭をつるりと撫でて、椅子の背面へ回った。「そろそろ、仕事の時間だ――他に僕へ言っておきたいことはある? 何でもいいよ。必用な物、欲しい物、せっかく直接話せる機会が取れたから、遠慮なく言ってくれて構わない」
「あの、お父様。少し違うお話しなんですけど……どうして、お父様の腕には、いつも白い手が絡み付いているんですか」
瞬間、部屋の温度が烈火の如く燃え上がる。炎狗が床から飛び出して、カイムへ危険が及ばないよう、柔く彼を押しやった。一番近くに居るジェイドが、よろめくカイムを抱き留めて、一直線に扉へ駆ける。ジゼルは恐怖の甲高い悲鳴を上げ続けた。
「見破りやがった」ジェイドが罵るように吐き捨てる。
「やめるんだ、離せジェイド。ジゼルに危害を加えるな」
カイムは、ルークの怒りを感じて、手遅れになりかけていると察し、部屋に居る猟犬の鎖を無理やり引き込んだ。猟犬は一瞬で束縛され、カイムはジェイドの手から、落ちて転がった。カイムは突っ伏しながら、体勢を立て直す。
チェスカルは束縛から逃れようと、必死に藻掻いていた。
「カイム様 駄目です。鎖を緩めてください」
「誰も動くな。炎狗、下がれ」
ジゼルの泣き声が部屋に満ちている。先程までルークは兄のような顔で、ジゼルへ接していたが、今は天犬の強い獣性を剥き出しにしていた。
「カイム様、あの子は見えたらいけないものが見えてます。何の能力か判らない、エルドよりヤバい!」
「落ち着きなさい! ジゼル、大丈夫。君も落ち着いて――僕達の勘違いで驚かせてしまった」
ジゼルがベッドに縮こまって、顔を涙でぐしゃぐしゃにしている。遠くからでも、ジゼルの身体が震えているのが判る。
「炎狗おいで」巨大な赤い犬が、カイムの指示に素直に従って、傍に座った。カイムは炎狗の毛並みを丁寧に撫で付ける。
「ジゼル、この仔は炎狗といって、僕らの仲間なんだ。何かが起こったと思って、飛び出て来てしまったんだよ」
ジゼルは過呼吸になり掛けているので、カイムはゆっくりと語り掛ける。
「凄く優しい仔だよ。だから、赦してあげてほしいんだ。ここに居る兵士達もパニックになっていたみたいだから。誰もジゼルを傷付けないよ。そんな酷いことはしない」
カイムがじっくりと待っていてあげると、ジゼルの呼吸がゆっくりとしたものになって来た。身体の振るえも治まって、周りが見えるようになったようだ。
「ジゼルも炎狗を触ってみるかい? ふわふわで気持ちが良いよ」
「ちょっと……ちょっと、怖いです」鼻声になって、しゃっくりあげている。
「これからは、炎狗とも仲良くしてくれると嬉しいな」
「はい、多分大丈夫です」
ミランダを無言で呼ぶと、彼女は直ぐに顔を出した。彼女もかなりの興奮状態にあるが、猟犬ではなく、番犬なので、ジェイド達とはまた少し違う。
「僕達はもう行くから、後は頼む」カイムは達は足早に、ジゼルの部屋から離れた。
ジゼルのケアは、ミランダに任せることにした。今の状態では、カイム達が宥めても逆効果だろう。少し距離を取って落ち着かせる方法が良い。
「カイム……怒らないでくれ、仕方がなかったんだ」
「今は何も言う気は無い」
猟犬は完全に逆上してしまった。見られたものが、ものだけに、猟犬は冷静でいられなかったのだろう。気持ちも分かるが、ジゼルが襲って来たわけでもないのに、考え無しに彼女を殺める許可は出せなかった。
「……ごめなさい」ルークがぼそぼそと呟いている。
本当は自分が一番、動揺しなければならない場面だった。けれど、猟犬が傍に居て、人を脅かそうとしている以上、内側へ向かって行くような、感情や思考などに、気を取られている場合ではなかった。その点で言えば、良かったと言えなくもない。
猟犬は皆、しょぼしょぼと元気がなかった。
カイムは大きく溜息を吐く。
――もう、良いよ。怒ってない。なんとかなったからね。
「俺も頭に血が上り過ぎた。もう、本能で動いていたものだから」
カイムはジェイドの肩を軽く叩く。力の行使はない。ただ単純に元気付けるような動作だ。
「ジゼルはなんだと思う?」
エルドが一番に反応した。
「少し調べてみたいと思います。図書館の使用許可をください」
「いいだろう。これから執務室へ行って、正式な許可書を出すから」
「それにしても……あんなにわざとらしい説教が、良く即興でつらつらと出て来るものだ。我が主ながら、ペテン師でも見ているようだった」
「まあね、確かにペテン師みたいなものだ。所詮、詭弁さ。僕が語るには、あまりにも滑稽な論理だろう――なによりも、僕が一番に他者へ絶対服従を求めて、頭を押さえ付けているのだから。ジゼルに刷り込まれた、厄介な思考を潰していくには、ああして対話を繰り返すしかないだろうね……彼女のためではないよ。あの子を扱い易く育てるのも、僕の役目さ――あの齢ならまだ柔軟だろうから」
引き連れている全ての猟犬が、先程から、やけにふらふらと廊下を歩いている。ジゼルに関しての事柄で、不安定になっているわけではない。もう猟犬は、主人が赦したので気持ちを切り替えていた。
本能から来る攻撃性だったので、何も起こらなかった以上は、カイムも猟犬共を責め続ける気はなかった。ジゼルに精神的な傷を与えてしまったかもしれないが、今回のことは不慮の事故に等しく、いずれ、こういう事態になっていただろう。本当に、早いか遅いかだけの結果だった。
カイムがあまりにも気になって、振り返ると、ルークが一番判り易く、ゾンビのように左右に揺れながら、よたよた歩きをしていた。ルークが胸を押さえながら、カイムへ縋るように手を伸ばす。
「カイム様、言葉が胸に突き刺さる。仲間外れを例え話にしないで、もっと優しい話にしてください」
「あ、ごめん」




