14.誰かの部屋
14
門番の老人に案内されて、シドは舎屋の内奥へと進んで行く。子供達が居た教室らしき場所は日当たりのいい面に設けられていたが、老人がのそのそと進んで行く廊下は、窓が一切無く舎屋の中心部分へと向かっているようだった。
シドはこうした建物の構造に違和感を覚えた。幾らでも採光の余地があるだろうに、部屋をきっちりと詰めるように、間取りを取っているようだった。昼間であるのに照明を点けていても、陰気な薄暗さがある。リノリウムの床に光が鈍く反射していた。換気も悪いらしく、湿った臭いが鼻に付いて気分が悪い。
「教師様がお使いになられるお部屋は、生憎一つしか空いてはおりません。お選びになれず申しわけございませ」
「いえ、部屋にこれといって拘りはないので、お気になさらず」
廊下を進んで行くと、老人が突き当たりを折れた。そうしてシドの視界に入って来たのは、真っ直ぐな廊下と、壁に左右対称になって設けられた扉だった。数は八つあり、左右四つずつという等間隔で部屋がある。やはりここも薄暗く湿っぽい。
「左側一番奥が、お部屋でございます」老人は相変わらず足を不自由そうに歩いているので、それほど長くない廊下でも、充てがわれた部屋へ行き着くのにそれなりの時間が掛かった。
決められた部屋の前へ来ると、老人は鍵束を出して、迷うこと無く一つ選び鍵を開けた。老人が扉を引くと、ノブに内鍵が無かった。外側から一方的にしか鍵が掛けられないし、ノブの様子を観るに、内側から開けられる構造でも無かった。
部屋で一番最初に目に入ったのは、床に敷いてある絨毯だった。深い赤と緻密な蔦の模様が織り込まれていて、中々に良いもののように見える。アイアンベッドの脚で、絨毯が潰れるようにして敷かれていて、部屋の真ん中当たりまで覆われている。家具といえば、机と椅子、衣類を仕舞うような洋服箪笥らしき家具があるだけだ。窓は無く、扉が一カ所だけある。
「あちらには洗面所とお手洗い、シャワーがあります」シドの注視に、老人は気付いて教えてくれる。
「ご丁寧にありがとう」
「いえ、畏れ多いことでございます。何かご質問は……」
「私の仕事については」
「はい、これから教師長様から任命された、指導官の方がいらっしゃいますので、しばらくお待ちください」
シドが礼を言うと、老人は去っていった。様子を窺っていたが、扉に鍵を掛けることはしていなかった。ひとまず落ち着くと、ベッドへバッグを置き、部屋全体を見回す。アイアンベッドは病院の古いベッドのようで、白いリネンの寝具で揃えられている。それ以外、何と言えないほど簡素だった。
机は使い古して細かい傷と擦れに、艶を完全に失っている。また椅子にはクッションが無く、少し扱いを間違えれば、結合部から崩れていきそうだった。
猟犬であるシドですら、もっと良い暮らしをしている。彼は〈雑用〉だったから、他の猟犬より手厚く育てられはしたが、棲家に居る普通の猟犬でも、ここまで酷い暮らしはさせられていない。むしろ、猟犬の方が豊かな生活を与えられている。
ロングコートを脱ぐと、洋服箪笥と当たりを付けた観音扉を開いてみる。ポールが上部に一本横へ通っていて、ハンガーが五、六本吊り下がっている。ロングコートが皺にならないように、ハンガーへ掛けた。箪笥の底にはハットケースが一つだけ置かれており、中折れ帽も丁寧に仕舞った。
そうして、シドはバッグを開き、取り敢えず荷解きをすることにした。だが、荷解きといえるほどの荷物など無いだろうが。
荷物を全て出し、各々収納していると、扉がノックされた。
「よろしいか」若い女の声だが低く、どこか威厳がある。
「どうぞ、お入りください」
扉を開けたのはやはり女で、背後に子供を連れ立っている。
彼女の髪は黒く真っ直ぐで、腰まで伸ばしている。それを低い位置で一つにまとめていた。端正な顔立ちではある。だが、どちらかといえばつり目気味で、瞳の色も発色の強い黒なので、細い顎と相まってキツい印象を他人へ与えた。服装は黒いジャケットにネクタイ、そして同色パンツという、まったく色味が無く、全体的にタイトだ。
後ろの子供は男児でだろうが、栗色の髪は肩に掛かるくらいに長く、一見女児にも見えてしまう。子供は黒いワンピースのような服と、白いパンツを合わせて履いていた。
子供は薄いビニールに包まれた黒いものを、一生懸命に抱えている。明らかに衣類であることが判る。
「お渡ししろ」
子供がシドへ、クリーニングカバーが掛けられた衣類を差し出した。「お受け取りくさいませ、教師様」子供の可愛らしい声だが、口調は妙に大人びていて齟齬を感じる。
女はじろじろとシドの全身を観察している。彼女は、その行動自体をまったく隠すこと無いうえ、値踏みをしているようにさえ感じられた。
「これが教師の正式な衣装だ。サイズは謝恩院からの記録を引き継いだ。常装となるので、あと数着は用意するが、エルヴェール教師は上背があり、体格も良いので、予め用意することが難しかった。一週間近くは我慢してほしい」
「承知いたしました」
「では、二時間後の昼食で、あなたの新任挨拶を行う。子供達へ向けて、簡単な自己紹介を考えておきなさい――詳しい案内は他の者がする。時間になったら寄越すので、部屋で待機しているように……くれぐれも一人で、出歩かないこと。では、また後で」女は何の興味もなさそうに、顔を背けてさっさと歩いていった。子供がシドへ軽い礼を取ると、直ぐに慌てて、小走りで女を追い掛けて行く。
シドは、女が歩み去ったことを確認した後、扉を閉めて、ベッドの隅へ衣類を置き、そのまま腰掛ける。
あの女が指導官だったのだろうが、一切、自己紹介することがなかった。自分がするべきことを終えたら、それ以外はどうでも良いような印象を与えられる。
シドもセルシスとして自己紹介しなくてはならない。子供たちの前で、にこやかな品性良い教師を演じ切るのだ。
セルシス・エルヴェールの略歴はこうだ。彼は二十一才の男性。出生地はシッサス。前籍地はアメリアのアルクス州。家族構成は、両親と姉が一人。両祖父母は他界。中流家庭であり、父母は共に会社員。性的嗜好はマジョリティ且つ、彼の年齢において健全な年齢差を好む。性交渉歴無し。両親が熱心な〈レグザの光〉信者の為、貞操観念については厳格。就学年齢で光の教師となる為に、謝恩院へ入学して寄宿舎へ入舎。成績は優秀だが、取り分け目立つような能力は無い。
実体の無いものを盲信する両親。貞操にまで口を挟まれ、セルシス本人もそれが当たり前として、疑問を持たない生育環境。
「……セルシス・エルヴェールか、つまらない男だ」そう口にした瞬間、自分で何気なく放った言葉に片眉を上げる。
この男は齢二十を過ぎても童貞を強いられた。幼い頃から性欲を恥ずべきものと抑圧され、恐怖心を植え付けられたのだ。その偏った思想は、あまりにも哀れであろう――本当に存在するのならば。
また、セルシスは性欲が判らないという。そうだとしても、肉体的、感覚的、に味わったこともあろう。精を一度も吐かなかったという、高名な僧の物語ではあるまいし――本当は、それを性欲と結び付けることが出来なかった。むしろ結び付かないようにと、自分を追い詰めているように感じさせる。
どのような猟犬が作った人間なのだろう。〈レグザの光〉に関わる人間の、膨大な情報から平均値を取り出して、脚色する。
こういった仕事をする猟犬には、殆ど会うことがない。そうした猟犬は裏方と言ってもいいだろう。戦場へ向かう猟犬とは能力がまったく違うので、数少ない雌猟犬が、偏って割り振られる傾向にある。そこにはシドも疑問は持たない。雄猟犬の方が体力があるから、自然なことだ。
「……レグザのお導きで、これほどまでに素晴らしい君達へ会えた。これほどの幸福は、そうあるものではないでしょう。どうかこれからも、レグザの光に包まれますように――ジゼルはこのような場所に居たのか。あの子は本当に普通の子供でいられるものか? 何か……歪だ」




