6.寄り添う心
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執務室にはカイムとジェイドしか居なかった。カイムの猟犬で最高位のジェイドと、二人だけで話すことは珍しくなかったが、今回の場合は特にジェイドから求められた内密の会話だった。
カイムはヘルレアについて、猟犬共にはまだ何も伝えていない。
こうした機会は、カイムに取っても、ヘルレアが去ったことを猟犬へ伝えるのに、適したものとなった。
もう既に、ヘルレアとの別れは数時間前となる――。
カイムはヘルレアと別れた後、時間を計ってから、マツダにジゼルの部屋へと走らせた。既に王達は居らず、ジゼル独りだった。カイムは問題が無いことを確認すると、使用人である雌番犬を配して、ジゼルと二人軟禁状態にした。まださすがに、幼いジゼルを独りで閉じ込められないので、しばらくこうした形で彼女を暮らさせることになるだろう。
ジゼルが状況をもう少し呑み込めれば――現状を本当の意味で説明出来る体調になったら――ジゼル独りでも部屋にいられるようになるかもしれないが、まだその時では無い。
十才前後の仔犬だと、まだまだ幼く、心細さを訴える者が多いから、ジゼルもまた同じように、細心の注意を払う必要がある。カイムにはそれが判る。こういった幼年期世代の精神が測れるのは、猟犬の主人である特権だろう。
「カイム? ぼんやりしていないか。身体がまだ辛いようなら、後日にしよう」
「いや、別に大したことはないよ――ところで話しって何だい? 妙に畏まって」
「ああ、それなんだが……アイシャという名前を、ヘルレアから聞いたことはないか」
「アイシャ?」カイムはつい、疑問の声音に傾く。そして、つい反復までしてしまった。それはたったの一度だけ耳にして、慌ただしさに聞き流す形になってしまった人名だった。
アイシャと言えば、秘すべき重要な名前に間違いはない。ヘルレアが関わってきた人間だろうというのは明らかだ。それもヘルレアにとって、ある種トラウマになるような人物であるように感じる。
「ヘルレアが、そう自分で口にした。棘実落果の大関門――通称〈苦しみの門〉というようで、女王蜂の部屋へ行くために、その門を通らなくてはならなかった。門を開ける者へ通称そのまま、苦しみをもたらすらしい。そして、そのアイシャとの関わりが、王にとっての苦痛のようだった」
カイムは腕を組んでから唇に触れて、しばし無言でジェイドを見据える。
それで益々、王に傷として刻まれた記憶だと、考えずにはいられなくなった。
「実は僕も、その名前は聞いた。アイシャ……女性の名前だろう。ジゼルが、というより〈レグザの光〉があの子へ喋らせていた。ノイマン・クレス前会長とそのアイシャを並べ立てて、ヘルレアを揺さぶっていた」
「どのように?」
「……ノイマンは、今もヘルレイアに鎖を括り付けてる、と――そして、こう続けた。王はこんなにも無垢な生き物を、見殺しには出来ない。ノイマンが教えてくれた……それともアイシャ、かしら。だね」
「そうか……人に寄り添ってくれてありがとう」
「え?」
「アイシャらしきものがそう言った。ヘルレアはあの時、こいつは違うと、断言していた。だが、一度は確かにアイシャだと錯覚したんだ。やはりアイシャは、〈天秤協会〉の人間か」
「その可能性は高い。しかも、ヘルレアの養育に強く関わっていると考えて、間違いないだろう」
「世界蛇と関わるくらいだ、ライブラのハイランカーとして、名が知られている協会員だと思うが……でも、」
「そう、聞いたことがない。姓も判らないし。活動した痕跡すら知られていないんだ」
「過去数十年に、アイシャという上級会員は居ない……だとすると、ハイランカーではない?」
「いくら僕らでも下級会員までは把握していないから、調べさせる必要がありそうだ。それを何故〈レグザの光〉が知っていたのかも気になるところだ」
「そもそも奴ら、カイムがヨルムンガンドを連れ立って外出するのと、その詳しい日時、場所を、知っていたこと自体が問題だからな」
「さて、面倒なことになってきたね」カイムは腕を組むそのまま、力を抜いて軽く椅子を左右に回した。
「嬉しそうに言うな」
「これから本格的に〈レグザの光〉を調べさせるべきだね。仔犬はまだ〈光の家〉で大人しくさせていたけれど、そろそろ動かしてもいい頃かな。黒い綺紋も気になるところだし」
「人間が綺紋を使えるはずがないからな。まあ、バゼットなら不安は無いが、あの仔も一応仔犬だから早く帰館させたいものだ」
「綺紋モドキについては、ヘルレアもおっしゃっていたけれど……まあ、それもできるだけバゼットに調べさせよう。あと、成獣……猟犬も潜らせようと思うんだが、どうかな?」
「本来なら、チェスカルに行かせたいが、さすがに娼館での出来事から数日では、精神面で心許ない」
「〈影〉の派遣は、今回見送ろうと思う――シドが適任だと考えている」
「おい、雑用には、荷が重過ぎる……だがそうか、それであの時、シドにジゼルを会わせたのか」
「僅かでも良かった、〈レグザの光〉がどのような思想の元、動いているか肌で感じられると考えたんだ――この任務が終わったら、猟犬を三頭、雑用から〈影〉へ引き上げようと思っていてね。もうこれ以上は三班を欠員に出来ない」
「ならやはり……アトラス、ヴィー、シドを〈影〉へ据えるのか?」
「そういうことになる。班の組み換えも必要になるだろう。エルドを三班の班長として、ジェイドの下にはヴィー、シドを置く。そうして、三班はエルド、ユニス、アトラスという風に、新たに立ち上げようと決めた」
「アトラスはまだしも、ヴィーとシドは大丈夫か? 俺でも手が付けられなくなりそうだ。あのじゃじゃ馬娘と超合金堅物」
「だからジェイドへ任せたんだよ。それに、僕も見ているから心配はいらない。ジェイドはヴィーを、よく見てやってほしい……良い猟犬だよ、彼女は。使い方次第ではね」
「あまり一位の前で、他の猟犬を褒めるな」
「ジェイドですら、雌猟犬へまで嫉妬するのだから、猟犬は面白いよね……最近、益々猟犬らしくなってきた。昔を思い出す」
「それは、俺もただの猟犬だからな」
「まあ、猟犬の編成についての話しは、おいおいするとしよう――本当に誰なんだろう、アイシャは」
「気になるな」
「……愛していたのかな、彼女を」
「過去の人間だろう。お前が不安に感じることはない」
「ジェイド?」
「……ヘルレアがあっさりと去る理由になるとは思えない」
「さすがに妬いてはいないさ、ただ――ヘルレアの過去が、いつか重い枷になりそうで……と、言っても、もう、僕等には関係の無いことかもしれないけれど」
「どういう意味だ」
「去る理由がアイシャでは無さそうだけど、あの方はもう去ってしまったよ……」
「何だって? そんな重大な話を、何故、他人事のように!」ジェイドが机に迫って手を突き、カイムへ前のめりになる。噛みついて来そうな雰囲気だった。
「ヘルレアの意志を曲げることなど誰にも出来ない。分かるだろう?」
「だが、それでも、」
「ヘルレアは優し過ぎた――これ以上あの方の時間を奪うわけにはいかない」
「やはり俺は、ヘルレアに出会う以前の方が……ただのヨルムンガンドである方が、余程物事が単純に見えていた――人の業が、王を地に引き摺り落とした。それは、さらなる苦難を招いたのではないかと考えが巡ってしまう。はっきりと言ってしまえば、ヨルムンガンドの優しさは罪だ」
「そう全て、間違っていたんだろうね」
「そこまで、真っ直ぐに言われると何も答えられなくなる」
カイムは、ジェイドをからかったことで、少し意地の悪い笑みが、口元へ張り付いたまま、机を爪で数度叩く。
猟犬は号令をかけられたように、頭から爪先まで緊張させて居住いを正した。
「……冗談とは言い切れないのが厄介だ。道理としては間違ってはいたけれど――心の在り方は、けして間違っているとは思わない。少なくとも、僕はそう思う。ジェイドも感じるだろう?」
「一緒に居れば居るほど、益々口の悪くなる生意気なクソガキで……でも、あいつは目を見てくれる。それに、同じ目線を知っている。まあ、それでも、憎たらしかったが」
カイムは息だけで笑ってしまう。ジェイドらしい表現だ。それに、憎いでは無い。憎たらしいと、どこか和らいだ語句が切ない。
「アイシャのおかげなのかな、今のヘルレアが在るのは」
「俺は、アイシャという奴がまだ生きているとは思えない」
「……だろうね」カイムは自然、目を細めて、焦点をどこへも結ばなかった。
「なあ、止められなかったのか」
「止めなかったんだよ」カイムは追求することを、猟犬に許さなかった。
「こんな終わり方で――虚しいものだ」
「僕達の生き方など、こんなものだろう。ただ通り過ぎて行くだけさ、大切なものほど簡単に。後は忘れるしかない。忘れるんだ、ジェイド……なんなら、僕が手を貸してもいい。お前が一番、ヘルレアと共に過ごして、思い入れがあるだろうから」
「いや、ヘルレアを想う痛みは無い……ただ本当に、本心から虚しいという気持ちしか無い。これが別れか、あっさりとしたものだ」
カイムはジェイドの感情表層を浚って、本当に異変がないか確かめると一つ頷く。
「さて、ヨルムンガンドが、我が〈ステルスハウンド〉に滞在していたと知っていたのは誰だろう――猟犬は当然、敵対する者へは漏らせないし。僕達のように、世界蛇を血眼になって探していた連中か?」
「それは……、」ジェイドは何か言いあぐねたが、カイムは猟犬が何を言いたかったのか迷いなく分かった。
「いよいよ、ノヴェクがきな臭くなってきたかな」
「カイムは無防備過ぎる! 身辺に気を付けてくれ」
「そうかい? 久し振りに殺しの感触を味わって、懐かしい気分だったよ。腕は落ちていないか?」
「落ちてはいないが――無鉄砲なことは止めてくれよ。恐ろしい」〈蜂の巣〉でカイムがした行為が、どうにも猟犬達のトラウマとなっているようで、案外と面倒な記憶となっている。消すほどでも無いというのが、やり辛い。
「いいじゃないか、腕が衰えていないと証明できたのだから。護身術も大切だよ。だから、あとは外堀も埋めておかないと。なるべく早く、問題は潰しておきたいものだね」
「俺達は立ち止まってはいられないんだな」
「いつか〈廃霊園〉で別れを惜しむことにするよ――退館するに、そう遠くは無いと思うからね。僕は負けたんだから」




