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5.忘れ得ぬあなたへ

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 ランシズは新しい主が近付く気配に、扉へ視線を向ける。あまりにも人間地味たヘルレアの気配は、ランシズの興味を自然と引いた。


 人間の挙動で歩いている――。


 何が可怪しいのかといえば、足音や呼気、肩から腕を振るなどの、動作から来る微振動が伝わって来るのだ。ヘルレアはヨルムンガンドとしての在り方を、敢えて放棄しているようだった。よくここまで人間を真似られるものだと思う。動きの一切をコントロールして、写し取るさまは、もう既に、真似事どころではないのかもしれない。人の中に紛れ込めるように、極限まで違和感を滅殺している。これでは人間だ。


 ――でも、何故?


 ランシズはヘルレアを出迎えようと、扉を開けに行った。彼が廊下を覗き込むと、大分先で、ヘルレアがゆっくりとした歩調で向かって来ていた。

「もう、出るぞ」ヘルレアの声は呟きだったが、ランシズには問題無く聞き取れた。

「何故、お呼びになられなかったのですか」

 ヘルレアは何も答えなかった。速歩はそのまま緩慢に歩き続けると、ランシズの前で気怠げに立ち止まる。「あまり、()()()()()振る舞いをするな」

「それは……どういう意味でしょうか」

「多分お前、人間の領分を超える行いを、すればするほど化物になっていくぞ」

「人間の領分?」

「人間が出来ないことを一度許容すれば、いずれ見境を失うのは必然。私はお前を今のまま使うつもりだ。化物はいらない」

「何故ですか。綺士である意義を失う行為なのではありませんか」

「私は人間の世界で生きている。それを、化生なんぞ連れ歩けば弊害もでるだろう――お前に、人の血肉をやるつもりはない。私の綺士であるからには、お前にも主人と同じ禁を課す」

 ランシズは思わず奥歯を噛み締めていた。自分がヘルレイアの綺士だと分かっているのに、それが真の意味でどういうことなのか、思い知らされた。

 自分は人の血肉を欲するようになってしまったのだ――。

「口にしません……絶対に、」

「守れなければ、殺す。一度の失敗も赦さない……よく覚えておけ」

 ランシズはヘルレアの強い殺気に、後退ってしまった。そうするとヘルレアは、部屋へと入っていった。

「あ! あの、カイム様とは……どうなされたのでしょう」

 ヘルレアは小さく首を振る。ランシズにはそれで全て分かってしまった。

「カイムは追って来なかった。だからそれが、自然な物事の流れなのだろう――求めないし、求められないのなら、私にも、あいつにも、互いが必要なかっただけのこと。もう二度と会うこともあるまい――ランシズ、元主人に一目会いたかったか?」

「それは、ご挨拶する機会が持てるのであれば、別れを述べたかったとは思います。けれど、猟犬であった頃と比べてしまうと……、」

「後悔しているか?」

「いいえ、まったく……正直、時間が経てば経つほど、猟犬としての感情が薄れて来ているような気がするのです。でもそれは、とても自然なことだと思えて、不安や抵抗感がありません。しかしそれでも、思うのです――主を、カイム様を愛していたと。もう、二度と会えぬ父母のように感じます……それがたとえ、カイム様が目の前にいらしたとしても、拭い去れない寂しさが、蘇ってしまうと思います」

「お前の中であいつは死んだ。もう、亡くしたものは取り戻せない」

 ジゼルがベッドで静かに二人の話しを聞いていた。少し考えて迷っているようだったが、ヘルレアの顔を見る。「どこかへ行ってしまわれるんですか? ここはヘルレアの家ではないのですか」

「一時的に間借りしていたんだ。色々と大事な役目があったから。それがもう済んだから、ここに居る理由が無い。私にはボサッと突っ立っていられるような時間は無いんだ」

「……また、お会いできますか」

「無理だ、もう、ここには戻らない」

「そんな……、」

「ヨルムンガンドなど忘れて、お前は幸せになれ。あいつは……カイムは善人じゃないが、(むご)い真似はしないだろう。これから不自由するかもしれないが、お前の()()はしっかり先のことも考えている。そういう奴だから」

「不自由?」

 ヘルレアが少女の傍へ行くと、その手で小さな頭を撫でてやる。

「今は休め、まだ時間がいるから。この先にある、まだ見えないものを考えたって仕方がない。忘れるな。お前は選ばれ守られた。そして、これからもそれは変わらないだろう。辛いときはカイムを頼れ、とことん甘えて利用しろ。泣きじゃくってみせれば、尚更にあのアホは慌てふためいて、走り回ってくれるだろう。あいつは、縋る手を払えない」

 ランシズは息を詰めて、ヘルレアの背中を見てしまった。そして、自分の硬くなった掌を見る。大切な何かを思い出しそうになったが、彼の心に浮かび上がったものは、直ぐに濁って沈んでいってしまった。

 ヘルレアはカイムのことをよく見ている。それが、強い確信の念を呼び起こして、今はそれ以外考えないようにする力になった。

「……カイム様はお優しい方だから、必ず君の声を聞いてくださる」

「私はまだ、お父様がどのような方なのか判りません……やはり、色々な考えが止まらなくて不安です」

「多くのことは、自分で選ばなくてもいいんだ。流れに身を任せろ。もし、逃れられない選択を迫られたとしたら、自分の幸せを第一に考えるんだ。お前を傷付けようとするものは、全て無視していい――戦え。それはお前に取っての悪だ。正否など考えるな、惑わされるな。幸せは自分で勝ち取れ……その時がもし来たら、カイムですら信じなくていい――負けるな、何ものにも」

 ジゼルは無言だ。ヘルレアの言葉をゆっくり噛み砕いているよう。

 ランシズもまた、ヘルレアの言を思わず反芻してしまった。ヨルムンガンドが幼い子供へ親身になって、言葉を贈っている。それはとても慈悲深く美しい姿であった。しかし、ヘルレアの見目麗しさと、それに反するような、奮い立たせる強い言葉が胸を熱くする。

 ヘルレアが生き抜いてきた今までを、受け止めているような心持ちになった。

「戦う……戦ってもいいんですか」

「争うな、などと言う奴に耳をかすな。それは誰かにとって、都合がいいからだけに過ぎない。戦わない奴は生きることを諦めた奴だ……そんなものに成り果てるな。どこであろうと、どんな境遇でも、生きようと足掻けば――生きながら亡者のようになることなど、けしてない」

「はい、忘れません。ヘルレイア」

 ヘルレアがほんのりと微笑んだ気がした。まるで、ジゼルの姉であるかのように見えた。

「行くか、ランシズ」ヘルレアがさっさと廊下へ出てしまった。ランシズもその後を追う。


 ヨルムンガンドのヘルレアと、その眷属が館を出るに難しいということはなかった。二人は猟犬に見つからず、館から野外へと簡単に出られた。

 ランシズは歩いて、館から少し離れると、何となく振り返った。数十年過ごした(いえ)。自分の命より大切な方が居る、唯一無二の場所――だった。

「やはり、名残惜しいか?」

「いいえ……多分、もう何も」ランシズは猟犬であった自分が、もう判らなくなり始めていた。

 そして、ヘルレアはランシズを見据えていたが、館へ目を向けることは、一度も無かった。



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