エピローグ3
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眼を覚ますとそこはカイムの寝室だった。
部屋の天井端を縁取るように設けられた段落から、ほんのりと常夜灯の灯りが漏れていて、物を見分けられるくらいには明るい。珍しく遮光カーテンが開いていて、金属製の厚いシャッターが顕になっていた。
まるで虜囚のようだと、カイムはいつもカーテンを締め切る癖が付いていたから、何となく一番にその光景が眼に入って来た。
そもそも、窓がある部屋に寝室を置くなと、猟犬に吠えられている。それを、無理矢理に窓辺の部屋を寝室へ改装したのだから、シャッターくらい我慢しろ――らしい。
カイムは既に、寝間着へ着替えていて普段通りの寝間姿だ。
相変わらず必要なものは全て建具に収納されているので、必要以上に大きなベッド――たとえ夫婦で床に伏したとしても有り余る――がある以外、何も無くて殺風景だった。いつも通り少し室温が落とされていて快適な温度だ。
カイムは何か夢を見ていた。
でも何一つ思い出せなくて輪郭すら掴めず、ただぼんやり色が残っているような感覚があり、心には水彩画よりも淡い色味だけが点々と濃淡を含んで浮いていた。
カイムはなんとなく柔らかなものに触れた事を思い出して、自分の手をまじまじと観察する。
「……猟犬?」
けれども、どの猟犬の気配もしなかったと考え直し、穏やかなオパールの瞳が思い出されて手を握りしめた。
「ああ、女王蜂か……」
カイムはほんのり笑む。優しく穏やかな彼女を思い出して、息をついた。カイムの人生で一生出会うはずのなかった女性。そもそもカイムは本来なら、女性と愛を交わすような世界へ、関わってはならない人間なのだ。
子供の頃、いつからだろう、女の子の存在に気が付いた。今までも確かに居たと知っているのだから、不思議な表現かもしれないが、ある日突然女性というものが自分とは違う何かだと悟った。
そうした性を意識出来るだけの齢を重ねたと同時に、自分が異性の傍にいてはいけないと言い聞かされていた意味が、ようやく理解出来た。何もその教育は、子供が出来る危険性を教えるだけではなかったのだ。
このどうしようもない、言葉に出来ない衝動。具体的に心に描けば、己がどれだけ卑しい愛の形を持っているのか思い知らされる。
カイムは自らを傷付ける強さで顔を覆って俯いた。思考を払ってもなお、考えに囚われて背中を丸めて痛みが去るまで耐え続けた。
主人の性はカイムを常に蝕む――。
「お前! へらへら笑ってばかりだと思っていたが、それよりも俯いてるか、目を伏せてる方が多いよな」
カイムは一瞬、本当に飛び上がりそうな勢いで身を引いた。ベッドの上で転がりそうになった。
「……ヘルレア、よく僕の寝室へ入って来られましたね」
「何言ってるんだか、ザルだぞザル」
「あの警備をザルと言われたら、もう一度各国首脳の私室における警備体制を、見直さなければならないかもしれませんね」
ヘルレアが楽しそうに笑っている。カイムへ随分と気兼ねなく笑ってくれるようになった。それが嬉しくて薄く笑みが漏れて、眼を伏せそうになったが、カイムは真っ直ぐに王を見据えた。そうして彼はヘルレアに近付くと、衝動的に手を伸ばして王の細い手首を掴んでいた。
「男の寝室へ、気軽に入るべきではありませんよ」
ヘルレアはカイムの腕を払う素振りは見せない。そのまま二人は見詰め合っていた。
カイムはヘルレアを捕らえたままで、そっと王の顔へ手を伸ばすと、優しく爪の背で撫でた。
「冷たい、氷のよう――あれはもう、情けをかけるような、人権を尊重するような世界の次元ではなかったのでしょうね」
「それでも、憐れんでいるのか?」
「僕は、それほど優しい人間ではありませんよ」
「知ってるさ、お前はどうしようもない奴だってことくらい」
カイムは静かに笑う。それはまるで、聞かれることを怖れるような笑い声だった。そこまで馴染んでくれたのか、と、情けなくも嬉しかった。
「チェスカルが狂いそうになった時、あの男を引き裂いてやろうと一瞬思いました」
「心情的にだけ?」
「いえ、実際にやろうと思えば……禁じ手ですが」
「あまり危ういことを、ベラベラ喋るな。取り敢えず頭を冷やせ、ボスがそんな状態じゃ、猟犬も可怪しくなるんだろう?」
「……そうですね。どうかしていると思います。主人としての力を、久し振りに使い過ぎてしまったようです。感情の昂りに付いていけない」
カイムの手の甲を、ヘルレアはつねる。
「許容量がいくら無限でも、相変わらずこんなに弱っちい野郎では、どうにもならないだろう。落ち着け、馬鹿」
カイムはくすりと平静に笑う。
「皆に会うまでには立て直します。今はお赦しください」
「ああ、いいよ。黙っていてやる。これはまたツケが増えるな、どうするカイム。高過ぎて払えなくなるぞ」ヘルレアはにこにこと嬉しそうだ。
ツケでもなんでも払ってあげたくなる。しかし、どうにも猥雑な念が燻っていて、これではツケを払うというより、こちらが要求するような心情がもやもやとしている。
「あの……ヘルレア。今回は必ずしも自分達が――いいえ、どちらかが、全て正しいわけではなくて……それでも、秩序を護る為には、相応の犠牲も払わねばならないこともあるのです。軽蔑しますか」
「たとえ、違う方向から見れば間違っていても、それを認めたら駄目な奴らも居るのは判る――私も他人のことは言えないからな」
「僕はいかなる理由があろうとも、秩序を乱す者は見逃せません。許されない。だから――その、判ります? いずれ、ヘルレアには知られてしまうと思ったので、それで」
「分かっているよ……直接、私に言う必要なんてないだろう。懺悔されたって困るぞ――誰もお前を赦さないだろうから」
あまりにも率直な言葉に、カイムは身体を折って笑ってしまう。
ヘルレアがカイムにつられてか、身体をくすぐられたように笑った。その笑顔はあまりに幼くて、カイムは胸が苦しくなった。夜闇に瞬いている、去って行った仔犬達の笑顔に意識が向いてしまう。
「あなたも、やはり僕の元から居なくなってしまうのですか」
「……ヨルムンガンドに情など移すな」途端、ヘルレアの表情が凍り付いて険しくなった。
「そうですね、愚かな情緒に揺れてしまいました。今回のこともですが、猟犬の主人として恥ずべきことです。僕は何があっても、汎ゆる現実と向き合わなければ」
それでも、ヘルレアの笑顔が愛しくてずっと見ていたかった。
――やはり僕は私情として、ヘルレアの番になるのは抵抗感があるのだろう。
ヨルムンガンドの能力で、欲を煽り立てられただけで、カイムは本当にヘルレアと愛し合いたいとは思っていないだろうから。
一緒にいればいるほど、ヘルレアへと愛情を感じ、また募らせていて、何故か切なくなる。――それは勿論、性愛とは違う何かなのは分かる。
猟犬を想う気持ちとも違う。また、エマとも違う。
それは、手が届かない者への愛情。死者への愛。
よく知っている愛――。
「今回も、とんでもない目に合いましたね」
「いつも通りだろ」
「せめて、波乱があった認識でいましょうよ」
「この程度で、ワタワタしてたら一万回死んでも足りない。大体、ジェイドかチェスカルが、女王蜂を巻き添えに殺すと解っていたから、カイムは無茶をしたんだろうが。今回お前が一番、冷静なのに頭が可怪しかったぞ」
「ヘルレアは誤魔化せないとは思っていましたが、言われてしまうと、確かに端から見れば狂気地味ていたかもしれません。まともな行動ではありませんね」
「それにしても、お前は最低の司令塔だよな。むしろ下っ端の兵士になったらどうだ? 中々に役立っていたし、向いていると思うぞ。人殺し」
ヘルレアのキツい一言に、カイムは何故か笑いを誘われ、口元だけで笑う。
「……その方が良かったかもしれませんね」
「素直に認めるなよ……お前さ、人を殺し慣れてるよな」
「色々な道があると思いました、ですから――あの時、僕は正直に言いましたよ」
「今でも変わらないのか……変われないのか?」
「僕は道を見失って、逃げたんです。そうして、溝鼠のように生きたこともありました。生きるために人を殺めて……でも、結局はどこへも行けなかった――必要とあらば、今でも何であろうと踏み躙れます」
「ああ、やっぱり……お前、本物なんだな」
「憐れんでくれますか?」
「バカを言え、お前なんぞ憐れむくらいなら、獄中の猟奇連続殺人犯でも憐れんでやる方が、幾らかマシってものだろう」
「その言いようは、結構胸に来ます。僕がまともになるには、七才からやり直さなければならないですね」
「七才? 遠慮しないで、母ちゃんの腹の中からやり直せ」
カイムは目を穏やかに細める。
「ヘルレア、先程あなたが言った、目を伏せる理由ですが……僕が目を伏せるのは前を見て歩くより、足元を見て歩く方が楽だからです。今、自分の側にある件だけに対処すればいいのですから。僕達は前ばかり見ていると、生きてはいられなくなるでしょう……辛い事は先延ばしでいいじゃないですか――なんて、これでどうでしょう。少しお洒落じゃないですか」
「アホ、どこがお洒落だ。何も上手い事なんて言ってないぞ。そういうのは余裕が無いと言うんだよ」
カイムはヘルレアの腕からようやく手を離した。心地よいその肌触りを手放すのが恋しかったが、ベタベタ触れ続けるのはあまりにも失礼だったので、自然の流れで離していた。
カイムとヘルレアは触れ合うのが必然なほど、親しくはないのだから。
――辛い事は、先延ばしでいい。
カイムは知らず知らずのうちに目を伏せる。すると直ぐに、ヘルレアに頤筋を引き上げられ、顔をヘルレアの方へ向けさせられた。カイムは驚きに眼を瞬く。
「ヒトと話す時くらいは顔を見ろ。世界蛇の顔は恐ろしくて見られないか?」
「正直、既に僕はヨルムンガンドへの恐怖心が、麻痺しているかもしれません」
「ジェイドといい、カイムといい、気付いていたが、お前等は頭のネジ二、三本飛んでるよな。オリヴァン・リードに至ったら、もうネジすら止まっていないと思うぞ」
「……あの馬鹿は多分、天使と行った最初の問答は、当てずっぽうでしていたと思います」
「気付かないとでも思ったか?」
「さあ、どうでしょう。何となくそれは伝えておくべきだと思っただけです」
「あいつとはもう二度と関わらない」
「ヘルレア、それを巷ではフラグと言うそうですよ」カイムは微笑む。
ヘルレアは苦いものでも味わったように、うえっと顔を曇らせている。
やはり間違いではなかった――。
カイムはヘルレアとの時間が楽しい。
幼いヘルレアと居ると、自分が何かを忘れられる。
――それは紛れもなく、妹や娘を思うような愛が、芽生えつつある幸福だろう。
カイムはただその温もりへ笑み崩れるような素振りで、密やかに眼を閉じた。
この先にあるものなど見たくなかった――。
つづく




