41.獣の仔
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チェスカルが居る扉の前から、女王蜂と黒装束が居る距離を鑑みて、威力の弱い仕込みの小型拳銃でも、十分に威力を発揮するだろう。
男はまるで、自分が不死身の強者にでもなったつもりなのか、チェスカルが何かを隠しているという警戒心は、一切見せない。外法外道は確かに強力だ。だが、絶対的なものなど、この世に存在しない――この場合、ほぼ完全体のヘルレアは無視するとして。
チェスカルならば、女王蜂の安全を一切考慮しないのならば男を撃ち殺せる。仕込みに用いる銃の構造上、一度に致命傷は与えられないが、乱射すれば人間くらいならば、耐えられないだけの損傷は受ける。
主人を殺めかねない冒涜極まりない、害獣――。
怒りはまるで揺らめく炎のように、チェスカルを外側から芯まで焼き尽くす。
チェスカルの全身が熱を帯びていった。
部屋にある全ての輪郭が、あまりにも鮮明に浮き彫りになる。そして、二人の人間だけがチェスカルに迫ってくるように、些細まで見通せる。
手を伸ばせば、まるで触れられるかのよう。
女王蜂と黒装束は揉み合っている。
――もう、良い。ようやく殺せる。
チェスカルの心へ得も言われぬ多幸感が、満ち溢れた。皆、消えてしまえばいい。そうすれば直ぐにでも、主人に会えるのだから。
チェスカルの視界がモノクロに濁り、色を失った。
見知らぬ記憶が、閃光のように脳裏を駆ける。
手探りで進む部屋。物が打つかり合う凄まじい音。狂乱する男の声。小さな高い悲鳴と、弱く柔いものが暴れて、逃れようと叩き藻掻く、その音。
見知らぬ男の背中。組み敷かれた小さな身体を見付けて――。
それは、
殺してやる――
チェスカルはスラックスの腰内側に忍ばせていた小型の銃を、殆ど挙動無しに手の内へ落とし込んだ。
そして、構える――間際、
水槽のアクリルが粉々に散り、海水が弾けるように広範囲へ飛んだ。底へ残った海水はだらだらと緩慢に壊れた台座へ流れ込む。その台座も変形して、斑色の濾材が飛び散っていた。極彩色の魚があちらこちらで跳ね、無軌道に転がるライブロックから、珊瑚が脱落して骨格を晒し、ボロボロに崩れている。海水はよく電気を通すが、完全に破壊されたランプは、もう既に通電しているようにはみられなかった。
その破壊の大きさに部屋は静まり返っていた。ヘルレアは大穴の中心に立って、安穏と部屋の様子を伺っていた。
「あ、緊迫したところ悪いな……、結局壁ブチ破る羽目になるのか、バカらしい」
チェスカルは歯を食いしばり、自然口角が引いて、歯が剥き出しになっていた。鼻根に皺が寄り、醜い獣のようだった。彼はそうした自分自身に気が付いた。そうして、安堵で崩折れそうになった瞬間、視界は色付いた。ヘルレアと、声を上げそうになったが、そこは口を噤む。
「……ヘルレア、やり過ぎだ」代わりにヘルレアの背後から、よく聞き慣れた野太い声がする。
「ヘル……レア?」黒装束が眉間に深い皺を刻んで、大崩落を見ていたが、直ぐに銃口をヘルレアへ向けた。
「おい、おっさん。死にたくなけりゃ、銃を向けるな。この大惨事を見て、力倆も測れない程の大間抜けか? あ?」
「チンピラみたいだから慎みを持て」顔を出したジェイドが、まるで父親のように諭した。
「魔物――いや、神獣か?」男が再び女王蜂に銃を突き付ける。
「どう呼んでくれたっていいぞ」王の瞳が強く灯って目元が青々と色付く。
「そんな……お前はヨルムンガンド」
「何だよ、居るの知らなかったのか。巡り合わせの悪い野郎だな。猟犬共も狂暴になってるし」ヘルレアは片頬だけで笑って、チェスカルを睨め付ける。
「俺の立場で言うのも何だが、随分と野蛮な事をするものだ。水槽がボロボロだ」ジェイドが瓦礫を飛び越えて部屋へ降りて来た。
何を思ったか、オリヴァンも平気な顔で部屋へ入って来る。あと一人生き物の気配があったが、賢明にも顔すら出していない。
チェスカルは相変わらずだんまりを決め込み、ジェイドを無視した。そんなチェスカルの様子をジェイドは訳ありだと、既に察している。チェスカルから接しない限りは軽率で危険な発言はしない。ジェイドはとことん鈍い男だが、主人を脅かす愚挙はけしてしない。
――だから、この猟犬には勝てない。
「お前達はいったい、ステルスハウンドが何故、ヨルムンガンドと」
「そんなの私の勝手だろ、犬っころと娼館へ遊びに来たんだよ。つまり、単なる客だろうが。解ったなら、さっさとケリ付けるぞ」
「世界蛇が娼館に来て、娯楽で目合いに興じるなど、正気の沙汰ではない」
「言われなくても分かってるわ、おっさん。余計なお世話で気を散らしていると、一瞬で地獄へ旅立つことになるぞ」
「ここまで来て、簡単に終わらせるわけにはいかない」
「アホか、ヨルムンガンドに勝てるとでも思っているのか」
「勝てはしないだろう。だが、もう望みは叶えられたも同然だ!」
男の笑顔は狂気を孕んでいた。




