37.悪鬼降伏
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ヘルレアは顎でジェイドに隅へ行くよう指示を出すと、戦う姿勢に入ったのが分かった。
「一々ぶっ殺すのは面倒だが、確かにこれを放って置くのは、後々面倒な事になりそうだな」
水溜りのようなものが、徐々に肥大してきていた。薄墨が滲み出すように波打ちながら、表面を暗く暈す。
ジェイドはオリヴァンを誘導して、安全そうな場所へ退避した。
炎狗が耳を機敏に動かすと、天井へ向けて眼を細めた。その視線の先から、人が降りて来たのが分かった。炎狗は瞬時に、天井をすり抜けて来たエルドの気配を捉えていた。エルドは軽々と降り立つと、炎狗の傍へ行き、愛おしそうに一撫でしてやる。
「……やはりここでは、遠隔で炎狗と意思の疎通をするのは難しい――隊長、そしてヘルレア。もう今更かもしれませんが、殺生はお止めください。ここは特に血と怨嗟の穢れが酷くなりました、自分ですら通れるようになるくらいです。多過ぎる濁った流血は、生来からの悪しき外界術を強くします。これから魍魎達は猛り狂って、敵においても思慮外の暴虐を振るうようになるでしょう。時間が掛かりますが、せめてこの穴だけでも俺が塞ぎましょう……降伏します」
「おい……お前は、それでいいのか。本当に背負いきれるのか、こんなものを大量に」
「カイム様をお護りする為ならば、何の問題があろうはずもありません……後悔もしません」
「私が殲滅してやると言ってもか?」
エルドは首を振って否定を示す。
「ヘルレア、それは地獄の底を崩すようなものです。ヨルムンガンドだからこそ、それをしてはいけない……いえ、あなただからしてはいけないのです」
「エルド、何を見た?」
エルドは、ジェイドには見えないものが視える。オリヴァンが言ったように、エルドは神視の中でも珍しい、瞳鏡という能力がある。エルドの瞳はけして濁らない。この世の全てを瞳に映つし、使いようによっては、四凶の全てを看破出来るだけの力がある。
「もう、ずっと聞こえます。数え切れない、ヘルレアへの感謝が……けして逃れられない地獄から、一人の娘を救ってくれた。自ら傷付きながらも、正しい場所へ還してくれたのだと。たとえ己が還れずとも、あの娘は我らの光になった……星になったのだと。それは、希望です。今でも眩く瞬き続ける」
「止めろ、黙れ……勝手にしろ」言葉は強いが、声音は普段通りだ。
エルドは一つ頷く。
ジェイドはそこでようやく、エルドの穏やかな声の理由に気付かされた。エルド自身も、ヘルレアへ感謝しているのだと。エルドは人間として、また能力者として、ヘルレアを受け入れられるだけの、その行いを視た。ヘルレアは危険な行為と分かっていながら、女性へ躊躇無く手を差し伸べた。能力者では無いジェイドも、傍に居て何か危険な事が起こっているのだと分かるくらいだったのだから、エルドならばより多くの情報を受け取っただろう。
「隊長、お急ぎを。ここは俺に任せて、カイム様をお護りしてください」エルドは覚悟を決めた表情ながら、どこか優しい顔をしていた。
「分かった、お前に任せる。ヘルレア、先に進もう」
ヘルレアは無言で、部屋の空いた場所へ行くと、独り佇む。
「確かに汚れすぎたな。もうこれなら、通るだろう」
「ヘルレア?」
名を呼ぶが早いか、ヘルレアを中心に足元から突風が吹いた。王の周りに、青い光の粒子が円形に広がっていく。
「全部消してやる、絶対に近寄るなよ。消し飛ぶぞ」
一気に青い光がヘルレアごと丸く空間を飲み込んだ。眩しくて何も見えず、青い光の柱がそそり立つ。
エルドが凝視している。「凄い……」
光の柱が徐々に小さくなると同時に、床に大穴が空いているのが見えるようになった。ヘルレアが身軽に光の中からジェイドの元へ飛んでくる。
「これで底まで繋がったはずだ。取り敢えず生き物は巻き込んでいないから、質問も文句も無しだ。何も訊くな、めんどくせえ」
「……これを降りるのか」ジェイドはゾッと覗き込む。
幾つか下に位置する階の部屋は、見えるのだが、ある一定の深さになると、もう部屋とも認識出来ないほど薄暈けて見えなくなる。そうして、覗き込めば暗くて底が見えない。深淵と言ってもいい。
「スゲー、ヘルレア王。地獄まで続いてそうだね」
「綺紋? ……あ、すみません」エルドが急いで口を噤む。
ヘルレアは一瞬睨むが、溜息を溢す。
「綺紋じゃない、力そのものを少しだけぶっ放した」
「少し……これで戦えないのか」
「アホか、少しって言っただろう。戦闘時にコントロール無しで力を放てば、自爆するだけだ。いくら私でも消滅する」
「天与の器と同じなんですね。力はあっても制御できなければ、力は無いも同じ」
「ああ、そういう話しもよく聞くな。似たようなものだろう――ジェイドは自力で降りられるだろうが……くっそこいつ、オリヴァン・リードが居るんだよな、ダルい」
「よろしくね~ヘルレア王ちゃん」
「もう、セクハラするんじゃないぞ。したら、穴に突き落とすからな。とにかく動くな、触るな、喋るな、いっそ息もするな」
炎狗が素早く頭を魍魎の影へ向ける。
「お急ぎください。魍魎共は血肉を喰らい尽くしました。そろそろ、襲ってくるでしょう」
ヘルレアの号令でジェイドは穴に腰を掛ける。もう、ヘルレアはオリヴァンを抱えて何の苦も無く階下へ降りていた。
ジェイドはエルドに声を掛けようと振り返ると、エルドが薄く笑んでいた。
……ありがとうございました。ヘルレイア。
ジェイドは何も聞こえなかった振りをして、ヘルレアを追った。




