36.外界 不可知の深淵
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ジェイドの横槍とも言える敵の銃殺。しかし、ヘルレアはそうした彼の行動を素っ気なく見遣っただけだった。何事も無かったようにして、ジェイドから離れて屈む。ジェイドは何か言うべきではないかと一瞬迷うが、凄まじい衝突音で考えは掻き消えた――自身の攻撃性は既に捻じ伏せられたようで、本能的な暴走はしなかったが――魍魎の鼬もどきが自ら打つかり合っていたのだ。
それが、地面へ降り立つと、死んだ同族を更に吸収融合して、一匹になってしまった。あまりにもスムーズに物事が変化したので、側にいる炎狗すら反応が遅れて、一匹となった魍魎は、今までとは比べものにならない程早く空を走った。
だが、鼬もどきはジェイド達の方へ見向きもせず、攻撃を仕掛けに移動したのでは無かった。魍魎の主人であろう、術者の元へ駆けていったのだ。
そうして鼬もどきは、何の躊躇も無く術者の頭を鷲掴みにして齧り付くと、薄皮を剥がすように、髪諸共頭皮を全て毟り取った。
咀嚼しながら術者の二の腕へ前足を掛ける。すると術者が倒れる床の周りから、獣やら人型に近い手が幾つも這い出てきた。頭を出すもの、手、前足で弄るモノ達が、肉を次々と毟り取っていく。白い脂肪が溢れ、鮮やかな血管や臓物が引き千切られ奪われる。凄まじい咀嚼音は飢餓を抱えていたかのように荒れ狂った。
外道の手から漏れた血肉が、何の理由か飛沫を上げて沸騰している。直ぐに血肉がへばり付く骨が露出して、人体で最も大きな大腿骨が、籠もった音と共に両断された。
それが蟻地獄に呑まれるかのように、床へとぐずぐずになって消えて行く。これはもう蟻地獄ではない、本当の地獄へ堕ちた姿だった。
「うへ~、グロいね。まあ、でもさ、まだマシな方かな」オリヴァンがニヤニヤしている。
「あれが対価か……無残なものだ」
「術者が莫迦なんだ、仕方がないだろう。人間如きが外界不可触の禁を破るからだ。
あのエルドとかいう奴だけではなくて、猟犬にもどうせ、その莫迦は大勢いるんだろう」
「争い事には外界術が不可欠だ。その才があれば取り立てられるのは必然――だがな、才能というだけあって、力を持っていて、尚且つ制御可能なほどの能力を有しているのは、それほど多くはいないはずなんだ。居たとしても、魍魎を降伏して使役できる人間など、更に限られる。エルドは特別だ」
「ブッサイクな学問だよね~『視える奴もいるが、その深淵は、輪郭すら知ることができない』そんでもって、一歩でも踏み込めば後戻りもできない。四凶に準ずれば魂すら実在前提で、それを貨幣のように取り引きするのは、当たり前なんだっていう世界なんだから。魂の存在を認めるってのが何より厄介だよね。地獄と背中合わせの人生、死は救いを与えない……おお、聖母よ!」
オリヴァンは祈る仕草で天を仰ぐ。
オリヴァンが〈聖母の盾〉の現教主なのだから、敬虔な信者達へ同情を禁じえない。
「魂の存在を認める、か――。お前、やっぱり観測者かなにかだろ」
「プライベートな事はノーコメントだよん。あと、僕ちゃん情報屋だってのも忘れないでちょうだい」
「単なる人間の……いや、まあ、異常者だが、そうした情報屋が、外道に精通してたまる、か――ん? 異常者? 自分で何を言ってるか判らなくなってきた。異常者だからアリなのか」ヘルレアが渋い顔をしている。
珍しくヘルレアは悩んでいるようで、算数を解こうと問題をこねくり回す子供のようで愛らしい。
「くだらない事で、オリヴァン殿に惑わされるな、王よ」
オリヴァンはそうした一連のやり取りを嬉しそうに見ながら、気取っているのか自身の口元へ指を充てがう。
「んー? ようやっと俺氏の凄さが分かってきたかな。四凶の外法外道に、人類のまま準ずる事ができる代表的な力といえば――神視、邪視に分類される瞳力系天与の器だね。邪眼、魔眼、天眼、瞳鏡、何でもいいけど、どれもが正道から逸脱した邪なものとされる……のが、世の常なのよ! 本当を言うと神視系の瞳力はまさに天与の器そのものなんだけど、能力も能力だから虐げられることが多い。神童なのにね、残念! エルちんは神視系みたいだけど……瞳鏡かな?」
オリヴァンの饒舌さは、やはり四凶に通じている人間の言葉に聞こえてくる。
しかし、
エルちん――おそらくエルドのことだろうが、この二人はあまり接触したことが無い。戦闘時も居合わせたのは今まで皆無だ。今回初めてエルドが下した炎狗を見ただろうし、そうした魍魎を目視して、術者がいったいどんな能力を具えているのかなど、本来ならば四凶に準じていても、さすがに判らないはずだ。
カイムも教えるはずがない。
普通じゃない――。
共に居れば居るほど、ヨルムンガンドの子であるという、恐ろしさが伝わって来る。
「お前ペラペラと、調子に乗りやがって」
「だって、ヘルレア王は雰囲気からして外道に疎そうだし。その場その場のノリで、外道と渡り合ってるとこあるでしょ」
オリヴァンの意外な認識に、ジェイドはヘルレアをまじまじと見詰めてしまう。
「こんな外道の坩堝で戦った経験がないんだよ。そんなの当たり前だろう、悪いか! 知識がなくても何とかなるのがヨルムンガンドだ。攻撃性能世界第一位のゴリ押しで殲滅してやる」
「あ、本音言っちゃったねー可愛い。まだ、十幾つだもんね。しょうがないよね。お子様だよねー」
「可愛いって言うな!」
確かに見た目はだけは可愛い。
「更に言わせてもらえば、別に特別な能力がどーたら無くたって、これくらい分かるさ。
邪視のように見る方向が変われば、物事が変わるって一般論を言ってるだけだもの。
でもさ、四凶に準じた術者が、魂という存在を認めていても、俺っちにとっては、そんなのうんこより実在性がないのよ。見ようとしなければ、それは無いものと同じさ。別の方角から見れば、単なるペテンなんだよね」
「そういうところが無駄に腹が立つんだよな、お前。天使が視えて排除したクセに、魂を認めない、ペテンだと抜かす。なら、お前は一体どこから見ているんだよ」
「カイムと同じ事を言うね、ヘルレア王。俺っちは、どこからも見ていないよ」オリヴァンはにっと笑ってから、両手で目を塞いでしまった。
「どこからも見ていない……感受性零なら、でもさすがに天使をペテンの一種にするのは無理なのでは? 災害級なのですから」
「ジェイドちゃんこの世は広いよ、甘く見ない。実際のところ瞳力とは正反対の鈍感さを持つ人間も、また居るんだ――天使も形無しさ。でも、こちらも残念なことに遭遇する人間は、そうあるべくしてその地位に居ることが多い。俺っち達が代表的じゃないの。見たくなくても仕方なく視える方から、視なけりゃならないそんな事ばかりさ……放っておいたら視えてるジェイドちゃん、あぼんしてたでしょ。俺っちはムー君より優しいから、泣く泣く一役買ったのよ。畢竟、視える人間の前へ顕現する運命なんだよね、講釈終わり!」
ヘルレアが気だるげに手をパチパチと叩いて「頼んでないのにご苦労さん」と、どうでもよさそうに、頭だけキョロキョロさせて何か部屋を調べている。
「オリヴァン殿が仰る通りで、何より外界術の入口が〈視える〉から始まる。この能力すら初歩の初歩。そうして視野を変えて視る事が出来ても、それだけで終ってしまう人間ばかりだ。だから、これだけ外界術が〈蜂の巣〉に蔓延している現状は、尋常の事柄ではない――それと、オリヴァン殿。それ程までに視覚を……立ち位置を、自由自在に切り替えられるのはあなただけだ」
「んー、そだね。じゃあ、特別な俺氏から助言。火薬庫で湿気たマッチを擦り続けてるみたい。いつ堕ちてもおかしくないよ。恐い恐い、もう行き着く先はリンボどころじゃないと思う、これ以上増悪すれば大穴が開く」オリヴァンは、わざとらしく両腕を抱えて震えてみせる。
「オリヴァン・リードはウゼえが、正直に言えば、外道は私の専門ではないから、ライブラで動いていた時の知識と感覚でしか、ものを語れない。大穴か……、おそらくそれが奴等の目的なんだろう。大穴が開くと何が起こるか――、」
「俺っちにもそこは分からんね。地獄より悪い何かが引き摺り出てくるかもしれない」
「万古の神か……いや、さすがにありえないか」
「……万古ねえ、〈向こう側の女達〉に会えたりして。よかったねヘルレア王。母ちゃんかもしれない存在に再会できるよ」
「そんな不確定な奴等を簡単に親認定するな」
「でもさ、綺紋の異能からして、どう考えても親っぽいよね。〈女達〉って云うくらいだから、男親はしらんから単為生殖とか? 究極のユリかな、かな?」
「知らん、訊くな」ヘルレアの声は拒絶というより、訊かれたことが単に面倒臭いような感じだった。
「やはり親については何も知らないのか?」
「ジェイドまで話題に乗っかって、興味を持つな。知らんもんは、知らん――大体な、何で〈女達〉が綺紋を持っているのが確定的とされているんだよ。そこから疑問を持て人間共。恒例、恒例、言い過ぎなんだよ」
「えー、便利じゃないの恒例。思考停止ばっちこい」
ヘルレアとオリヴァンがくだらない言い争いを始めたが、止めに入らなければならないような危険な応酬ではなかった。もう、じゃれてるような穏やかさなので、ジェイドの視線は、自然喰われた術者へ移る。
既に、遺体は屑肉しか残っておらず、魍魎の動きは鈍り始めていた。
そして、馴染みのある気配に天井を仰ぐ。
『隊長、お気を付けください。魍魎共が自らの主を喰らい、汚れ過ぎました』それはエルドの声だった。
更に、炎狗がジェイドへ視線を送って来たのに気付く。
「ジェイド殿、あの解き放たれた魍魎共は、悪さをします。殺すか、あるいは降伏しなければ」
いつの間にか、術者の亡骸があったところには、影のように淡い、水溜りのようなものが揺らめいていた。




