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34.強襲

34


 チェスカルは女王蜂と共に、ソファへ座り、ただ無言で時をやり過ごすしかなかった。けれども、主人であるカイムの様子は、カーテン越しで常に感じ取ってはいる。猟犬であるチェスカルは、今の主人にあまり触れるべきではなかった。主人の調子が酷く悪いのだ。どのような形であれ、今、猟犬と接触すれば、尚更に身体が損なわてしまうのは明白だった。

 そして、女王蜂はカイムの話題へ触れるべきか迷っているようだった。今までのカイムとチェスカルのやり取りで、二人が尋常ならざる場に身を置いているのを、女王蜂は既に理解しているのが分かる。

 女王蜂は柳眉(りゅうび)を顰めたまま、問いかけの言葉を懸命に呑み込んでいるようだった。チェスカルへ尋ねたい事は、幾らでも口頭へ上るだろうに、何も聞くべきではないと、彼女は経験で知っているから、無言を貫く。

 チェスカルはその姿が何故か哀れに映った。チェスカルとて、このまま何も答えるべきではない。主と自分の在り方に置いて、如何なる情報も漏らす行為は、只の愚策でしかなかった。しかし、だからこそ彼女の聡明さが、チェスカルの心を揺らす。

 ――カイム様は、女王蜂を受け入れておられた。

 チェスカルは女王蜂と向かい合うように居住まいを正した。

「あまりご心配なさらずに。側近の兵士が複数おりますから、事の収拾も早いでしょう――それと、なんと申しましょう。実に情けないですが、ヨルムンガンドが……ヘルレイアが共におります」

「信じておられるのですね」

「私の主観では、これ以上の事は申せません。ですが、全てが壊れてしまう程、脆くはないのです」

 女王蜂は小さく肩を落とし、息を吐いた。

「そうでございますね。私達は弱くはありません。そして……死が側に居られる。それが必ずしも、悪とは限らないのですから。カイム様を必ずお守りしましょう――ヘルレアの心を動かしたのは、カイム様なのでは?」

 チェスカルは言葉が出ず、一瞬だけ口を開けたままの恰好になってしまう。否定も肯定も出来ず、曖昧に首を傾げるしかなかった。

 女王蜂は細やかながらも、(ほが)らかに笑みを溢すと、得心するように頷いてみせた。その時、女王蜂のオパールに似た瞳が煌めいた。

 無言を強いられる問いかけではないのに、チェスカルは狼狽えて何も答えられなかった。何故かそれがとても恥ずかしく、無表情を貫けなくなりそうで、女王蜂から顔が見えないように、と、面を逸らしてしまった。

 すると、風が片頰を(くすぐ)る感覚を残して通り過ぎていった。チェスカルは思わず寝所を振り返って、カーテンの奥を見透かすような心持ちで、固まってしまう。

 主人は見ている。

 チェスカルは体面も保てず、大きく息を吐いていた。これ程大きく心情を漏らすのは、彼らしくないと分かっているのに、安堵の気持ちを隠せなかった。

「女王蜂、少しカイム様のご様子を見てまいります」

「はい。何かご入用がございましたら、何なりとお呼び下さいまし」

 チェスカルはソファから離れると寝所へ行き、伺いの言葉を控えて、カーテンを僅かに引いた。

 カイムは相変わらず眠っているように見えたが、意識だけは働いているのが判る。恐らくその動きは本能的なものなので、肉体の覚醒を促すにはまだ早いだろう。

 それでも安らかに眠る主人を見ると、この上ない幸福を覚える。未だ主人との繋がりは絶ってはいるが、側近くに留め置かれたチェスカルだけが、主人の安定を実感出来ているのだ。

 しかし、他の猟犬は――

 このような状態なのに、特権を振るっているような恍惚とした喜びがある。間違いなく、この感情は不謹慎なものなのだろう。だが、自認に相違なく、今、チェスカルは特別なのだ。今は格上のジェイドすら居ない。主人へ(はべ)るのは自分だけ。

 ――主命を下されたのも自分だけ。

 これは猟犬の本能だ。

 ジェイドが居なければ、最も主人に近い格を有するのは、自分(チェスカル)のみとなる。

 重石を排除したい――。

 この危険な苛立ちは、カイムの枷が弱くなっているからか。勿論、本気でジェイドへ襲い掛かるつもりはない。それは主人を危険に曝す。チェスカルは猟犬として、それ程愚かではない。カイムの安全以上に優先されるものなどない。

 そして、自身の思考に愕然とする。

 冷静なつもりで巡った思考は、明らかに異常なものだった。

 排除したい、許されない。

 赦されない――。

 ジェイドを重石と表現し、枷が弱まっていると感じた。この異常事態に、分かっていながら危険な思考を放棄出来なかった。ジェイドへ対抗心を持つ事は、けして珍しいわけではないが、状況が許す筈がなかった。

 それなのに、

 主人を護らなければと考えながら、危険に追いやろうとしてしまった。

「……蝕まれ始めたのか? これが?」

 思わずカイムを見詰める。

 戒めが欲しい。

 早く鎖を引かれなければ――。

 チェスカルが無意識に声を上げようとした瞬間、女の言葉にならない声が背後から溢れ出す。それが男の声と混ざり始め、揉めているようだった。チェスカルは女王蜂が抵抗しているのだと瞬時に判断出来たが、カイムを護る為に、カーテンに潜む事を選んだ。

 しかし――、

「おい、そこの男。抱いた女を見捨てる気か?」

 女王蜂を捕らえたであろう男は、何か思い違いをしている。それはチェスカルにとって、好都合な展開へ、物事が運びそうな誤解だった。

 チェスカルは素直にカーテンを小さく引いて、寝所から出る。なるべく寝間が見えないよう身体で、ドレープの隙間を隠した。

 黒装束の男が、ソファのある部屋中央付近で、女王蜂を後ろから羽交い締めにしている。その男の手には銃が握られていて、女王蜂の頭へ据えられていた。

「俺は客だ。それが何か問題でも?」

「娼館に来て女を買う男など、やはりその程度か」侮蔑も露わに吐き捨てる。

 チェスカルは一瞬奇妙なものを感じたが、方向性は決まった。怯える素振りより、強気で押した方がいい。

「女王蜂はいい女だった。折角、娼館に来たんだ。背中からもいいが、正面から抱いてやったらどうだ。向かい合って()()方が快楽に歪む顔が拝めて気分も上がるぞ」

「お前のような男ばかりだと思うな」

 チェスカルは口角を歪めるように笑ってみせた。

「だったら何だよ。娼館に来る意味なんかあるのか。お楽しみで汚れたベッドの清掃にでも来たのか? それはご苦労な事だな」

「黙れ! お前には関係無い」

 やはり想定していた通り、この男は感情的になり易いきらいがある。

 男の目的を聞き出したい。そして、何より主人の存在を知られたくない――現状、奇妙な事にこの黒装束が、カイムの存在を気取っているような言及も、動作も無かったからだ。

 チェスカルは()()()()と、宥めるように軽い挙動を取ってみせた。

「よかったよ、俺は関係無いんだな。女王蜂に用があるのか。だったら俺なんざ、邪魔なだけだろう? 殺すか?」

「お止めなさい。あの方は私と何の関係もないお客様。私はあなたに逆らうつもりもありません。望みを言いなさい」

 男は何故か一拍無言になった。

「……おい、ならばお客人。お前――扉の方へ行け」

 チェスカルの鼓動が乱れる。

「なんだ、逃がしてくれるのか。随分と慈悲深いな。だが、後ろからズドンは無しだぜ」

「慈悲深い、か。そうでありたかった」

 この男は相反するものを抱えてここに居るようだ。何かの想いに浸るだけの迷いがある。

 チェスカルは寝所の前から一歩たりとも離れたくはなかった。しかし、無意味に取られかねない程に強情を張れば、当たり前だがカーテンの向こうに何かがあると気取られてしまう。

 一度だけでも――、

「……怖くて動けないんだ。恰好付けてただけなんだよ」チェスカルはカーテンを握り締める手を放した瞬間、忍ばせていた極小のナイフを、袖口から弾き出した。

「なら、動けるようにしてやろう」

 男は女王蜂を引き摺るようにして、チェスカルの元へやってくる。そして女王蜂へ向けていた銃口をチェスカルへ転じた。

「これなら動けるだろう」

「止めろ、」チェスカルは威圧でもって押し出されたかのように振る舞って、男へナイフを突き立てようとした。

「余計な事は止めておくんだな、()()()()()()()

 攻撃をしようとしたのは知られてしまったが、チェスカルは笑い出したくなった。まさかここまで思い違いをしているとは考えていなかったのだ。だが、やはり何者が娼館を訪れているのは正確に把握している。

「分かった、動けばいいんだろう」チェスカルはナイフを捨てると、出入り口の扉前まで追い立てられる。

「いいか、お前もこの“蜂の巣”の客なんだ。ここで何が起こっているのか、そのまま見ていろ」

 男は完全に女王蜂へ集中している。カイム・ノヴェクという軍事会社の代表には、殆ど興味を示していない。

 ――何も知らなのだ。

「女王蜂、望みは何かと聞いたな、望みか……返せ。母を()()()()()()()()

 チェスカルは意図せず眉根を寄せた。男のその言いように、今度こそ計画の一端を嗅ぎ取って、女王蜂が今の状況を完全に把握したのではないかと気取る。

「それは……それはならぬ! 何も知らぬ余所者が」女王蜂が発した声音と口調の強さは、初めて聞くものだった。


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