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30.失われた時間

30


 絹の夜具にカイムはぐったりと身を任せて動かない。ただ、()()()()と眠り――と、いうより殆ど意識を失っている状態だった。元々、身体的に色味の強くないカイムは、調子を崩せば更に顔色が青く、どこかヘルレアの膚色を思わせる。

 ようやく本当の眠りに変わる頃、寝返りを打ち、カイムは瞼を上げる。頭痛に眉を歪めて、こめかみを押さえた。ベッドの程好い弾力に身を任せるまま寝返りを打って、小さく呻いた。

 ――なんとも、愚かしい。

 これ程、馬鹿らしい悪手を取るとは、主人として失格ではないだろうか。幾ら歳月を理由にしようとも、限度があるというもの。

 カイムが無意識に、猟犬を求める働きかけをすると、激しい頭痛に襲われて、脂汗が浮く。苦痛に縮こまって、胎児のような姿で身体を強張らせて、頭痛が過ぎ去るのを待った。そうして自分の中に意識を強く追いやっていると、純黒の闇が足元から立ち昇る感覚が襲ってくる。

 全ては心のうちなのに。


 ――ああ、闇が来る。


 星の瞬かない、本当の闇が――。


 見渡す先に果ては無く、落ちて行く底も、見上げる(そら)も、また無い。本当に何も無い闇に独り立たされて、予感に叫び出したくなる。


 ――赦してくれ。


 ――ただ、護りたくて。


 ――永遠に褪せて消えなくても。


 何も無かった闇に、捉えられ無い程細やかな煌めきが浮上を始める。それはいつしか、霧のように深くなりカイムを溺れさせる。

 凄まじい記憶の閃光が、カイムを切り裂いた。記憶に絡み付く感情は、何時でも彼へ鮮やかな痛みをもたらす。


 ――それでも、弱い君達が傷付くのを見ていられなかったから。



 ……噛み合わないものが、正しくいられましょうか。



 カイムは記憶の反芻を止められないまま、現実へ意識を戻す。壊れないという意味が、未だ実感出来なくて、何を表すのか――真実、判らない。

 言葉では知っていても、経験すらできないと言われているのだから、そもそもが、理解できるものではなくて。カイムでは無く、他の誰かではこの痛みに、耐えられないものなのか。壊れるとどうなるのか。精神病者になるのか。

 ――母さんのようになるのか。

「……ヘルレイア、あなたはやはり酷だ。どうして、いつも、希望を抱かせてくれるのだろう」

 王のする事、全てが人を傷付ける。深い絶望の中で瞬く小さな光は、諦める事を許してはくれない。夢幻に等しい希望でも、見出だせれば惑う。

「猟犬は……誰か。そう、チェスカルが居る」

 カイムはつい、意識のうちで呼ぼうとして、今はできないのだと強く目を閉じる。

「カイム様、聴こえております。ご心配なさらないでください。守護のお許しが下りました」

 チェスカルが、失礼しますと言いながら、カーテンを開いて現れた。

「守護か、そこまで。本当に僕は愚か者だ。僕の猟犬が、なんて哀れな……精神が蝕まれてしまう。早く禁じなければ」

「今はお待ちください。猟犬へ触れてはなりません」

「何が起こっているのか、何も判らないのか」

「女王蜂のお力がお利きにならない今、現状把握は我ら猟犬がしておりましたから、何が起こっているのか、残念ながら判りません」

「僕は……あの十年を捨ててしまった」

 どうしようもなく、やるせなくて、カイムは顔を覆うしかなかった。主人が猟犬へ、これ程情け無い姿を見せるのは、本来哀れな事ではあったが、カイムの心身が弱っている為か、感情の吐露を抑えられなかった。

「捨てたなどと……酷い事を仰らないでください。猟犬は、とても幸せでした。カイム様がくださったものは、夢でも幻でもありませんでした。主人に愛されるがこそ人になったのだと、我らは――私は誇らしかった」

「チェスカル……僕は、そうか。ごめんよ。僕だけの十年ではなかった。あの十年を誇らしいと言ってくれる君に、なんて事を言ったのだろう」

 チェスカルは、カイムと初めて会った、あの日の幼い顔で主人を見つめていた。彼は今も、カイムの隣で嬉しそうに笑う、名も無き子犬のままだった。

 カイムは自分の熱に浮かされた心が、微かに落ち着いて、一つ言葉が生まれた。


 守らなければ、と。


「こちらへ来なさい」カイムは重たい身体を起こして座る。

 チェスカルがカイムの求めに、そっと床へ上がり、主人の側へ迷う素振りで腰を下ろした。彼は遠慮しているどころか、身を竦めて怯えているようにさえ見える。そうして、酷く落ち着かない様子だったが、主人と同じ床にいるのだから、当然だろう。

 カイムには歴代主人のような趣味は無いので、正直、子供をベッドに上げた、親のような気分程度でしかない。だから、何を意識するものでもなかったのだが。

 しかし、カイムはこうして猟犬を床へ呼ばわる行為が、猟犬へ、特に緊張を強いる事になるのは解っていた。カイムは、猟犬を誰も特別扱いした事はない。だから、猟犬の添い寝を許すはずもなくて、猟犬を床へ上げるなど初めてだったのだ。これで、動揺するなと言うのは、土台無理な話だろう。

 主人が猟犬を()()()、必ず悦ぶが、カイムの愛し方とは違う。猟犬は皆、等しくカイムを恋しく想うものだが、身体を重ねるような、過剰な触れ合いは、カイムの中では禁忌だった。だから、猟犬との性的な接触はクロエが初めてで、それでもカイムには、欲望を掻き立てられるものではなかった。

 チェスカルは、主人の性質的にも、状況的にも、愛を求められるわけではないと、解っているだろう。それでも、何かぎこちない様子が、微笑ましい。

 カイムが手を伸ばすと、本能なのか、自然チェスカルは(こうべ)を垂れた。主人は猟犬の頭に一触れ添える。

「女王蜂のお側へ行きなさい。ご助成して差し上げられるのならば、全力で闘うんだ。掟で下されるのでは無い――僕が許す」

「主命のままに」

 カイムは顔を(ほころ)ばせ、手を下ろす。すると、チェスカルが直ぐに床から離れようと、主人に頭を向けたまま、もたつきながら後退する。ベッドの弾力は、いかに鍛えた猟犬であっても、動作を阻む。

 本当は主人の許可も得ずに下るのは、あまりよろしくないものなのだが。カイムは、チェスカルのそうした、普段ではあまり無い、拙い失敗に、つい、くすりと笑む。

「早く(いえ)へ帰ろう……僕はお腹が空いてしまったよ」

「……カイム様、そろそろ青年期も過ぎますので、暴食はなさらないでくださいね。いつまでも、どうか、お元気であらせられますように」

「はい、はい」

 いつも一言多いチェスカルだが、この時ばかりは、どこか故意に言葉を探しているような色をしていて、カイムは彼のはにかみを感じた。

 ベッドから下りると、猟犬はカーテンを引いた。だが、カーテンに隠れる子供のようにして、立ち止まる気配がする。護衛しているというより、本当に隠れんぼをする子供のようだ。

「……ずっとお側におりますから。おいていかないで下さい。どこにもいかないで下さい。独りにしないで……、下さい」

「どこにもいかない。僕も側に居るよ。いつも、見ているから」

 カイムは猟犬達を、酷く傷付けてしまっていたことに気付く。戦いばかりに目が向いて、猟犬の心が見えなくなっていた。猟犬達は今、皆独りだ。そして何よりも、その原因はカイムが倒れた事に始まる。それがどれだけ、猟犬を苦しめ、悲しませたか。

 チェスカルはカーテンの間から、すっと居なくなってしまう。彼はカイムの言葉によって、これから女王蜂に従属する。場合によっては、生命も懸ける事を許した。

 猟犬の主人となった事に後悔が無いとは言えない。それでもこうして、全身全霊を持って愛してくれる、猟犬といる幸福は、カイムだけが知り得る世界だ。

 だから――また、誰かが去り行くのかと、自分の選択をいつも呪うのだ。



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