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29.何者も冒せない死

29


 ヘルレアは娼婦と向かい合っている。何故か、王は真っ直ぐに、自分より背の高い女を見据えて、動く事が無かった。


『自己満足で殺して、善人面……』


『お前は、私のお母さんの振りをして、騙したんだ』


『死にたくなんてなかった』


『あともう少し、頑張って働けば()()()へ帰れたのに』


『私はもう、この地獄からは出られない』


『どうして?』


『私は死ななくてもよかったのに……死にかけていたけれど、でも』


『殺したのはお前』


 女が頬を歪ませて、吐き捨てるように笑った。 


『苦しめないように?』


『死んだ方が楽?』


『ねえ、誰が決めたの……』


『もっと、生きたかった』


『身勝手に私の命を奪って』


『こんな惨めな姿で、死ぬ気持ちがお前なんかに判るか』


『綺麗な夢を見せて、楽に死ねればそれでいいのか』


 ヘルレアは氷のような表情で聴き続けていた。

 ジェイドも動けなかった。心身は動きを止めて、瞬きさえ忘れていた。背中を押し、急かすものがあるのに、それでも現状の対処を怠る事も許されなかった。

 “蜂の巣”を支配する存在も、また、ヘルレアのように、人外でありながら心というものを理解している。そして、ヘルレイアがどういった存在なのかも、知り尽くした聖性種族のようだった。ジェイドには、そう思わずにはいられない。これが、予め用意されていた、刺激に対しての反射という、単純なものには感じられなかったからだ。

 ヘルレアが女へ腕を伸ばす。その腕は指先から薄青く灯り、瞳が灯るさまとよく似ていた。ヘルレアの手が女の透けた頬へ触れると、王自身の手先も馴染むように透けた。

「私は……死だ」静かで抑揚の無い声。

「この世で最も理不尽で、平等なもの」


『それが何?』


『敬えということ?』


『何をしても許されるというの……』


「そうだ、惨めで憐れな人間……死と相反する生も私のものだ。お前を救わなかったのは、お前に価値が無かったから――生きるも、死ぬも、私が定める」


『……病み衰えた王』


『己の本性を無くした、死に損ないの王』


『覚えたばかりの愛は、気持ちが良いか?』


『驕り高ぶり、施しに酔うその姿、真に滑稽よ』


『己を忘れたのなら、思い出すがいい』


『人を喰い、犯し、異形となさしめる怪物め――』


『私の娘を殺しやがって!』


 明らかに声の質が変わった。ヘルレアが以前発声した、重なる音に近いが、それより更に低く重い。男でも女でもなく、憎しみに濁る。

 女の顔面が内側へ向かって崩落し、穴が空いた。穴の奥には何も無くて、闇が口を開いていた。


『愛しい愛しい、私の娘』


『性の奴隷となり、搾取される、美しくも醜悪な我が娘』


 ヘルレアの青白く灯る小さな手が、女の華奢な顔の輪郭を撫でるように落ちて行き、胸元で止まると手の平を添えた。


「今度は、本当に解放してやる。お前の()()はクソだ」


『こんな出来損ないの爬虫類に憐れみをかけられ、滅っされるなど』


『あってはならない』


『秩序を乱す者は赦さぬ』


『美しきヨルムンガンド、お前が……』


「舐めるな、お節介野郎! この()()()()()が。穢れに我を忘れやがって」

 ヘルレアの手が女の身体へ溶け込んで行と、彼女が薄青く光を放ち始める。すると、王の白い首が乾いたようにひび割れ始め、顔面全体までに広がった。亀裂は肉色に熟れて、今にも肌が崩れそうだった。追うようにして、露出する空いた手も、赤黒く割れが走る。


『……な、ぜ』


「半端者め、私が自己満足の慰めで、人間と生きているとでも思ったか。私は誤ちなど犯さない――正道は私が決める」

 ヘルレアの前腕部分まで女の身体へ呑まれる。だが、女は特に苦しむ事なく、棒立ちでなされるがままだ。光が強まり部屋を満たして、その強さでジェイドの目は焼けるような痛みに耐えられず、視覚を極限まで閉ざした。

 眩い光の中でも開き続ける官能が、壁の変化を感じ取る。未だ泥沼から抜け出そうと、苦しむ者の存在が薄くなり、散じてしまった。

 光が唐突に弱まると、同時にジェイドの視覚は開く。薄青い女は、波打つように淡い強弱を繰り返す光を放ち、(おぼろ)げに浮かぶ。ヘルレアの腕は女から離れていて、その手に()を囚えていた。ジェイドはその光を知っている。だから星だと感じ……思考や記憶へと、刻々と干渉される感触を素直に受け入れた。

 ヘルレアの身体は崩れ行くようで、亀裂から肉が溢れ出しそうだった。王は自身の身体を気にもせず、星を両手に包む。

「行け、もう誰にも捕まるな……価値など無い方が良い」

 ヘルレアが傷だらけの両手を開くと、星は空へ浮き立つ。見上げる程高くに星が輝き、吹き消えるように光は絶えた。


『そんな、』


『酷い』


『返して、返して……』


『私の娘』


『ああ、何故』


『滅しない』


『逃がすくらいなら、消滅する方がよかったのに!』


「消滅するのはお前だ。取り敢えず、今は消えて頭を冷やせ、聖性種族」

 ヘルレアが腕を振りかぶると、穴の空いた顔面へ拳を叩き込んだ。腕は穴を通ったようで、女の頭は動じず、更に突っ込んだ腕は貫通するでなく、頭の中へ消えていた。女の幻は()けて形をなさなくなり始めると、反対にヘルレアの突き出した腕が、色濃く現実に帰って来る。女が消え去ると、王の身体が完全に戻って来た。それは、猟犬にも解る程、人界への明確な帰還だった。

「ちょっかい出して、墓穴を掘ってくれるんだ。礼でも言っておくか」

 ジェイドは頸を傾げかけたが、部屋の変化した感覚で壁を注視すると、現実に扉が顕現していた。

「あれは……先を進めるのか」

「お言葉に甘えて行ってやろう。こい、オリヴァン・リード」

「わん、わん! ご主人様って感じだね。あれ、ムー君かな?」

「待て、ヘルレア。傷はどうした」

 ヘルレアは意外な事を言われたように、瞬くと、合点がいったように両手を物珍しそうに見ている。崩れ落ちそうな指を、痛覚が無いように平気で折り曲げている。

「ああ、他人の支配区域だと、放っておいても中々治らないものなんだな。隣人トラブルはするものじゃない。メンドクサ」

「身体に大事ないのか」

「まあ、引っ掻かれた程度だろ」

 ヘルレアが珍しく擦音と共に、一つ深呼吸をすると、生々しい亀裂が跡形も無く消えてしまった。そしてジェイドは、王が深呼吸をした後の一拍、呼気が乱れるのを捉えた。ヘルレアは自身の物理存在を零にして生きる。それが、自律を失して()()()()ような不安定さを、猟犬程度に覚らせる失敗をした――ジェイドに、そう感じさせた。

 ヘルレアが負った怪我は、ただの損傷ではない。指摘した後の反応は、誤魔化しているようにしか思えなくなった。王が異常を無自覚でいられるとは到底考えられない。それでもジェイドは、王が言わないと判断した事柄へ、言及するべきではないのだろう。

 それでいい。思考などいらない――はず。

 ヘルレアはさっさと扉へ向かってしまうので、ジェイドはオリヴァンが遊ばないように、追い立てる動作で先を促す。

 ジェイドは自分の中で、欠落したものがあると感じた。けれども、独り前を歩く、小さなヘルレアの背中には、迷いの無い真っ直ぐな姿しか映らなかった。



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