21.聖母の盾
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「勿論、オリヴァン殿が王の血筋とは解っていましたが、よりにもよってレンティスの血筋だとは」
チェスカルが苦い顔をしている。
「まあ、あまり振れ回る事ではないからな。“聖母の盾”その現教主と多方面に知られれば障りもある。あの馬鹿は平気であちらこちらをふらふらしているから、余計に下手な事は言えないだろう」
――ヨルムンガンド・クレメンティリス。
その世界蛇は恒例として、略称でもってレンティスと呼ばれる。
女の番を持つ雄のヨルムンガンドであった。
もう既にいつの時代に生きた世界蛇かは判らない程その歴史は古く、“聖母の盾”という宗教を母体にして、レンティスの血が流れる一族が存在する。
「死の寵愛を受けるというのは、何とも強い力で護られ続けるのだという事がよく解りますね。ヨルムンガンドの血を受け継ぐという、真なる意味が良く解ります」
「僕はオリヴァンを見ていると嫌になったものだ。血を繋ぎ過ぎれば、あいつのようになるのではないかと思ったものだ。まあ、実際は単にオリヴァンがイカれてるだけで、ヨルムンガンドの血が影響しているわけではないが。それでもゾッとする」
チェスカルがほんのり微笑むのが主人には感じられた。
「ですが、オリヴァン殿は血筋から離脱なされたとお聞きしています。今まで存じ上げておりませんでしたが、それは“聖母の盾”との関わりを絶ったという事ではありませんか。あれ程巨大な宗教で、それでもなお現教主であらせられるとは。失礼ですが、トラブルを引き連れて歩いているとしか思えません」
“聖母の盾”は世界有数の宗教で、あまりに古すぎて殆ど形骸化している部分がある程だ。はっきりとした信者でなくとも、季節々の恒例行事等に組み込まれ、祝う習慣が世界中に広まっているほど浸透しているのだ。祝う当の本人達が、気付いていないというのはザラだった。
事実上、その教主ともなれば、気軽に外をうろつける立場にないはずだ、はずなのだが。
「だから目に見えて厄介なんだよな、それでも縁が切れないという。僕も自覚していないだけで、ヨルムンガンドの血に狂っているのかもな」
「卑下はお止め下さい」
アメリア国の国教は“聖母の盾”だ。
カイムもその地で生まれただけあって、“聖母の盾”に関する行事は知っている。しかし、カイムの場合は自己がヨルムンガンドの子である為に、そもそも宗教行事というものを厳しく禁じられていた。しかもそれが、ヨルムンガンドに関わる宗教である“聖母の盾”では尚更関わる事を禁忌にされていたのだ。
そういった事情がある為に、カイムは教育の場というものへ、相当気を使われて育って来た。本来、猟犬の主人であるカイムは、館で専属の教師のみによって教育を受けてもよかったのだが、彼自身の意向によって、ノヴェクと長く縁を持つ男子校へと通う事になった。
そこは完全なる無宗教を貫く特殊な学校だったのだ――。
そしてそこに、あの教主は居た。
――オリヴァン。
幼い彼の名はそれだけ。
当時は姓を持ち得なかった。リードは母系の姓であり、教主一族直系は姓が無いのだ。
誰もが知る国教である“聖母の盾”。親に無宗教を求められている少年達とはいえど、教主が居るという特殊な状況に置かれて、興味を抱かずにはいられようか。しかしながら、少年達はオリヴァンと会った瞬間に直ぐ、彼が変人であると認識せざるおえないという現状に陥って、折れずにはいられなかっただろう。
「祈りを捧げられるものへは会わない方がいい。これは教訓だな」
チェスカルが小さく吹き出す。
カイムはなんとなく、珍しく楽しげに笑った飼い猟犬の笑顔が嬉しくて、その様子を眺めていた。
そんなにのんびりとしていられる状況ではなかったが、これはやはり職業柄の慣れというものであろう。一歩踏み出せば死にかねない現場でも、緊張の間に挟まれた僅かな余裕を見付けると、日常の笑顔とユーモアを取り戻す。
でなければ、この世界で生きてはいけないだろう。
「ですが不思議ですね。何故、“聖母の盾”その教主だというのに、オリヴァン殿は無宗教の学校へお入りになったのでしょう」
「それは……単純に殺されかけていたからだろうな」
「なるほど、やはりそういった事柄からは、いくらあの方であり、血筋であったとしても逃れられませんか」
「チェスカルも知っているだろうが、僕が通っていた学校は、ノヴェクの援助金を受け取っていたからな。手を出そうとする怖いもの知らずは、さすがにあまり居なかったのだろう。だからオリヴァンを守るにはうってつけの場所だったということだ。外へ出して守るしかない程、危機的な状況に置かれていた。しかも他組織の庇護が全面的に及んでいる場所で……お笑い草な事だが、生徒達でもオリヴァンが教主だと知っているのに、外の人間は誰も手が出せなかった」
「……それは、そうだと思います。ノヴェクが囲う学校で、しかもカイム様がいらっしゃる時分に、無礼を働く輩など常軌を逸しています」チェスカルの顔がほんのり引きつっている。
カイムはくっくっと喉で笑う。
「そう考えると、偶然からとはいえ、僕は完全に上手く利用されたな。これが“死の寵愛”ということか……と、いう経緯だ。他に何か質問はあるかい?」
「子供達は何故、オリヴァン殿が教主であらせられる事を知っていたのですか」
「あいつ、自分で言っていたからな」
チェスカルはもう無言だ。
女王蜂がソファに座って視線を虚空に留め続けている。カイムはなんとなくそれが、意識の遠ざかっているさまだと感じ、“蜂の巣”を掌握する、真なる主人の姿であると理解した。
だが、そっと感じた声もカイムへ理解を促した。
……カイム様のよう。
猟犬には主人がこう見えているのかと、カイムはつい女王蜂を見つめてしまう。少し観察すれば解る。彼女の意識はここには無い。
カイムは女王蜂の邪魔をしないように、黙して、自らも夜空を見上げた。
猟犬が何の滞りもなく瞬いている。今のところ、大きく動き出す者達は居らず、一点に留まり続けている。むしろ、そうする以外他に術が無く、敵方の様子を窺うしか方法が無かった。何故なら、今現在“蜂の巣”に敵は居らず、完全に沈黙してしまっている。
オリヴァンへ接触を取ったのは、組織の母体ではなく、組織から外れた意思を持ち、なおかつそれが、組織全体に認められない行為を行っていると自覚して接触してきた連中だ。
天使を招いたのは“聖母の盾”、その信徒であったが、攻撃を命じたのは明らかに組織であろう。この状況で、召喚されたのが一体だという事はあり得ない。
女王蜂は、すっと、姿勢を変えて、部屋へ視線を動かした。カイムは戻って来た女王蜂の様子を覗って、声掛けに問題無い事を慎重に確認した。
「女王蜂、下手に動くより、このまま兵士を留まらせ、使用出来なくなった外界術についても、このまま様子を見ましょう。現状、無軌道に動くのはあまり得策ではないと思われます」
「仰せのままに……私は戦闘の専門家ではありません。そして今は、外法外道で何らかのお手伝いをする事すら出来ないのですから、心苦しい限りでございます」
「心苦しいなど、仰っしゃらないでください。あなたの異能は何よりも重要だと思います。それに……戦うのは僕達の存在意義です。たとえ闘争の場が違えども、お護り致しましょう」
「存在意義……だからそうして、カイム様は常に戦場へ居られるのですね」
「女王蜂、僕はそれでいいのです」
カイムと女王蜂は見つめ合っていた。そうすると、やたら大きな咳払いが振り掛かって来る。わざとらしく二、三度繰り返すものだから、カイムは仏頂面男へ顔を向けずにはおられなかった。半眼で飼猟犬を見るといつもの完全な無表情で、何事もなく何かを考えている素振りをしていた。軽く思考へ触れようとすると、ぽいっと主人の意思は乱雑に弾かれた。無理矢理に思考へ接触しようとすれば、勿論出来るが、明らかに意味は無さそうな状況なので、飛ばされるままにしておく。
「ヘルレアの事は忘れていないからな……」
「カイム様、どうなされました?」
傍から見れば、それは脈絡ない独り言のような言葉だ。だから、反応したのは、チェスカルではなくて女王蜂だった。
「いえ、少し思い出した事を伝えただけです」
「そうでございますか……?」
チェスカルが突然、真っ直ぐカイムを見据えて来た。
「魅力的な女性との出会いをお手伝いするなど、私としたことが、軽率に過ぎました。免疫の無い方には刺激が強過ぎる」
女王蜂もさすがにチェスカルの臆面もない言いように察せざる負えず、カイムと仏頂面の間に流れている空気に僅かに慌てているようだった。猟犬の言いようは主人に対してあまりに無礼で、カイムはむっつりとして腕を組む。
主人は一つ息をついた。
「……チェスカルは、もう少し主人に優しくしてくれ」
何度目だろうかと、いつもの言葉が漏れた。




