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7/7

7 名前のない伝説の竜


 葉擦れの音。

 その隙間から、白い月が覗いている


 足元を小さな動物が通り過ぎ、梟の声が森に沈む。


 彼女が地面を踏むたび、草と土の匂いが立ち上った。

 黒いローブの裾を引きずりながら、老婆は迷いなく足を進める。


 銀狼王が治める森を、さらに奥へ。


 そこは――忘れられた森。

 天をかすむほどに高い樹木が幾万と並び、鳥の声一つさえ響かない。

 闇と腐った葉が、足元さえ見えないほどに深く沈んでいる。


 魔女婆は指先でフードを払うと、ゆっくりと見上げた。


 そびえ立つ、大岩。

 かつてこの地を治めたと言われる伝説の邪竜――アルドレインの姿をした岩だ。


 老婆はそっと岩肌に触れた。


 触れたその手を、滲む金の瞳で見つめる。


「あたしの手……しわしわだ。……年をとったもんだ」

 

 長い年月を生き抜いてきた女の声はしわがれ、枯葉を踏んだ音に似ていた。


「もう……見つからないのかもしれないね……」

 

 指先が、そっと岩肌をなぞる。


「……あたしも、疲れちまったよ……」


 その声は葉擦れの音に紛れ、そしてほどけていく。下ろした指先は、あまりにも白かった。




 

 遥か遠い昔のこと――


 湖はエメラルド色に輝き、その水面で陽の光が砕かれては舞うように遊んでいる。

 木立の隙間から柔らかい風が吹いて、かすかな波を作っていた。


 ティアは、木で組んだ桶を抱えて湖岸を歩いていた。

 桶を草の上に置き、服の裾を払ってしゃがみ込む。

 水を覗きこむが、ふと、彼女は顔を上げた。


 この湖は、神の棲家と呼ばれている。

 彼女しか近づかない場所だ。


 ――人の気配がする。


 ゆっくりと立ち上がり、背の高い木々に近づいた。

 その向こう。

 倒木に腰掛け、栗鼠に木の実を差し出している男がいる。


「ほら……来い」


 ティアが木の影から近づくと、それに気づいた栗鼠が男を離れ、素早く逃げていった。


「あぁ……」


 男が、ゆったりとティアを振り返る。

 

 この世のものとは思えぬ真っ青な髪。

 滲むような金の瞳。

 そして、人ならざる気配を纏った、異様に整った顔貌の男。


 彼は、ティアを見るなり息を飲んだ。


 ティアも、その細い手を胸に当てた。

 日を透かすゆったりとうねる金の髪が肌に沿って揺れ、空色の瞳はまっすぐに男を見つめた。


 男は立ち上がる。


「……君は、美しいな。私のものになるか」


 だが、そのひと言にティアは柳眉を歪めた。


「……あたしは“もの”ではないの」


 男は淡く笑うと、小さく首を傾げる。


「君、名はあるのか?」

「さぁ?」


 彼女はさっと踵を返すと、その場を離れた。

 男はまた倒木に腰掛け、指先で木の実を弄りながら楽しそうに笑う。


 柔らかい風が葉を揺らし、雲はゆったりと、空を渡っていた。





 三日月の夜。

 松明の火が大きく揺れた。


「男は武器を持て!」


 村から、悲鳴と怒声が上がる。


「女子供は村長の家へ! 早く!」


 松明を持った兵士たちが村を囲んでいた。

 火矢が次々と夜を裂く。


「急いで! 走って!!」


 ティアも村の子どもたちの手を引き、走っていた。


「老人に手を貸してあげて!」

「足を止めないで!」

「そっちは行ってはだめ!」


 あちこちから火と声が上がる。

 逃げ惑う村人たち。


 ティアは転んだ子どもを助け起こし、抱き上げる。

 

 村は火に呑まれようとしていた。

 男たちは兵士から村を守ろうと戦うが、村にはろくな武器など無い。


 火の粉が肌を焼く。

 喉が痺れたように痛んだ。

 足を止めては行けない。


 だが、ティアはハッと息を呑む。

 

 燃え盛る柱が倒れてくる。

 

 ――間に合わない!

 

 子どもを庇い、身を低くする。

 熱が、彼女の髪を舐めた。


 その時――

 一陣の風。

 立っていられないほどの暴風。

 そして、大粒の雨が音を立てて天から降り注ぐ。


 兵士も村人も、みなが愕然と顔を上げた。


 村に、影が落ちている。

 月の空を覆う巨体。


 ――竜が、そこにいた。


『我が番に手を出すか』


 その声は、地を震わせる。

 彼の羽ばたきは、肌を裂くほどの冷たい風を生んだ。

 火を飲み込み、兵士たちの鎧を軋ませる。


 騒然とした兵士たちだったが、号令のもとに、一斉に矢を放った。

 だがそれは、竜の堅い鱗に弾かれ、折れた矢が村に落ちる。


 足を絡ませながら、村の語り部の老婆が広場に躍り出た。


「アルドレイン様じゃ!」


 その声に、村の老人たちから歓声が上がった。


「アルドレイン様が我らを救いに来てくださったのじゃ!!」


 村の老人たちは揃って膝をついた。

 一斉に手を合わせる。


 青い鱗に滲むような金色の瞳を持つ竜――アルドレインは、凍る息を吐いた。


 兵士たちはなす術もなく、村から離れ始める。


 ティアも、空を見上げていた。


「……アルドレイン?」


 竜は、兵士たちが離れたのを見届けると、夜空に溶けるようにして去っていく。


 すべての音が一度止み、

 葉擦れの音がゆっくりと戻ってくる。

 焼け焦げた木の匂いとかすかな油の匂いが、村に残された。

 ほとんどの建物は、焼け落ちてしまった。


 だが、村人たちはたった今起きた奇跡に身を震わせ、抱き合って喜んでいる。


 呆然と空を見つめ続けていたのは、ティアただ一人だけだった。





 翌早朝。

 ティアは湖岸を走った。


 木々の向こうの倒木に男が座っているのを見つけると、迷わずそばまで寄る。

 踏んだ草の匂いが、強く立ち上った。

 金の髪が揺れる。

 口角を上げたアルドレインは、ゆっくりと顔を上げた。

 ティアは呼吸を整えながら、その瞳を見つめる。


 竜と同じ、真っ青な髪と滲むような金の瞳に、ひれ伏したくなるほどの重い気配。


 ――彼が、やはり……。


「……あなた」

「どうだ? 惚れてくれたか?」


 間が抜けるほどの彼の気楽な言葉に、ティアは眉を寄せた。

 彼が笑うだけで、重い気配がふっと和らぐ。


「……あなた、人をなんだと思ってるの?」


 男は声を立てて軽やかに笑っている。


「人の子に惚れたのは初めてでどうしたらいいかわからん。

 どうやったら君は私を好きになる」

「あなた……伝説の竜のアルドレインなのでしょう? なのにそんな……」


 ティアの視線が彼の組まれた脚に向く。

 鋭く裂かれたような傷跡。


「……あなた、怪我してるの?」


 アルドレインも自らの傷を見ると、それを軽く撫でた。


「いかに伝説の竜であっても、矢をあれだけ放たれれば一つくらいはあたるものだ」

「薬を……。人の薬が竜に効くのかしら……」


 ティアの指先にアルドレインはそっと触れ、優しく引く。


「君が私に触れてくれればきっと治る」


 ティアは掴まれた指をさっと引き抜くと、再び眉を寄せた。


「あっはっは。かわいいな。人の子よ。

 ……すぐに治る。気にするな。

 だが、怪我した私を可哀想に思うなら、少しだけ話し相手になってくれ」


 アルドレインは髪をかき上げながら愉快そうに笑い、ティアはそれをじっとりと見据える。


「伝説の竜がこんなに変な人だとは思わなかった……」


 ひとしきり笑うと、アルドレインは瞳を柔らかく細めて、ティアの瞳をまっすぐに見つめた。


「君と口づけがしたい」

「お断りよ」

「あっはっはっは。だめか。残念だ」


 ずっと笑っているアルドレインを見下ろしながら、ティアは小さく息を吐く。

 強張っていた肩から、わずかに力が抜けた。





 日が高くなる頃。

 村では、復興のためにあちらこちらから声が上がっていた。

 

 木材などの資材を運ぶ者。

 家を建て直す者。

 瓦礫を片付ける者

 怪我人の手当てに走り回る者。


 その中にどうしてか、アルドレインがいる。


 丸太を軽々と運んでいるアルドレインにティアが駆け寄り、声を潜める。


「……なぜあなたがここに?」


 アルドレインはにこっと笑うと、何でもないことのように答えた。


「男手はあると喜ばれる」

「誰もあなたって気づいてないみたいだけど」

 

 彼は笑いながら指先で額にトントンと触れる。


「……少しばかり忘れてもらった」


 ティアは眉を歪めて金の瞳を見据えた。


「そんな顔をしてくれるな。人手はあった方がいいだろう?」

「でも、伝説の竜にこんなこと」


「誰かこっちに手を貸してくれ!」


 向こうから声が掛かる。

 

「はーい! 今行くよ」


 アルドレインはそれに応えると、ティアに向かってニカッと笑い掛けてから、丸太を抱えたままそちらへ走っていった。


「……呆れた」


 ティアはため息をつく。

 それから、彼女も炊き出しをしている女たちのところへと歩き出した。





 村人たちが思い思いの場所に座り込んで昼食を取っていると、元気な声が上がる。


「次は私が鬼だ! 小さき者共! 逃げ惑え!」


 子どもたちから一斉に楽しげな声が上がった。

 アルドレインは、駆け出した子どもを一人ひとり捕まえては抱き上げて、喜ばせている。

 村人たちもそれを見て朗らかに笑っていた。

 ティアだけは唖然と、口を開けてその様子を見つめる。

 

 復興には、時間がかかりそうだった。

 だが、子どもたちの無邪気な声は、晴れ渡った空に軽やかに響いていた。





 日が沈みかけた頃、

 湖に帰ろうとしているアルドレインの背に、ティアは声をかけた。


「待って!」


 足を止め、彼はゆったりと振り返る。


「ティア。……私ともっと一緒にいたくなったか?」

「ほとんど一緒にいなかったじゃない。あなた動き回ってて……」


 隣に並んだティアの指先を、アルドレインは壊れ物のようにそっと手に取った。


「ただの村男のように、君と同じ村で、村のために働いた。それだけで私は楽しかった」


 アルドレインが微笑む。

 その柔らかさに、ティアは思わず胸が締め付けられた。

 ティアが口を開く前に、アルドレインは自分の懐に手を入れる。


「そうだ……。これ、見つけたんだ。きれいだろう?」


 彼が取り出したのは、青い小さな石。

 この村でたまに見つかる石だ。

 確かに見た目はきれいだが、価値がほとんど無い石でもある。


「あなたは伝説の竜なのに……」


 ――素朴な人だわ……。


「何?」

「何でもない」


 ティアが小さく首を振ると、アルドレインはその手に石を乗せた。


「もらってくれるか?」


 金の瞳に夕陽が映り込む。

 複雑に揺らいで、目が離せないほどに美しかった。


「……えぇ」


 アルドレインは手を離すと、柔らかい笑みを残して歩き出した。


 ティアはその背を、静かに見送った。





 その日も、ティアは湖に向かった。


 木立の合間、いつもの倒木に、今日もアルドレインは腰掛けている。

 だが、彼は空を見上げたまま、動かなかった。


 ティアは下草を踏み、彼に歩み寄る。

 アルドレインはティアに気づくと、隣をぽんぽんと叩いた。

 導かれるままにティアがそこに腰を下ろそうとした時、彼女は肩を震わせた。 


「怪我したの?」

 

 彼の腕には、肉が裂けたような傷。

 顔色を悪くしたティアをきょとんと見つめ、アルドレインは遅れて「あぁ」と声を漏らした。


「すぐ治る」

「なぜそんな怪我を……」


 アルドレインは視線を滑らせて、空を見上げた。


「……なぜ、人は戦をするんだ? 争いが起こること自体は、理解できる。だが、人間には言葉があるだろう? 村を焼いたりする必要はないんじゃないか?」


 ティアは、静かに彼の隣に腰を下ろした。


「……あなた、どこかの村を守りに行ったのね」


 少しだけ湿った風が吹く。

 アルドレインは息を吐くと、小さく首を振った。


「行くのが遅かった。いくらか……死なせてしまった」

「なぜあなたがそんな事をする必要があるの?

 人間のすることでしょう?」


 彼は自分の手元を見つめる。


「人間だって、怪我している鳥を助けることがある。そんな感じだ。変だろうか」

「でも……」

「アルドレインはもう、私しかいない。

 あちこちで火が上がると、すべてには間に合わないんだ。私だって人の争いが終わらないことくらい分かっている。だが……傷つくと分かっていて放っておくのは、好きじゃない」


 ティアは眉を寄せ、その横顔を見つめた。


「待って。

 アルドレインてあなたの名前じゃないの?」

「……アルドレインは私の種族の名前だ」

 

 彼女はハッと息を呑み、口元に手を当てる。


「そうだったの……。それは失礼なことをしてしまったわ。

 あなたの名前は?」


 彼はその青い髪をさっとかき上げると、ふっと笑った。


「必要か?」


 ゆっくりと彼女を見、その金の瞳を細めて笑う。


「アルドレインでいい。君の声で“アルドレイン”と呼ばれるのは心地がいいからな」


 アルドレインが手を伸ばし、ティアは迷わずその手に自分の手を添えた。

 

「本当に変な人ね」


 彼女の白い指先をそっと握ると、アルドレインは声を立てて笑う。

 ティアはその柔らかな瞳を静かに見つめた。





 それからもティアは湖に通った。

 アルドレインは、よく笑っていた。

 時に豪快で、どこか泰然自若とした男でもあった。

 気づけば、二人は手を取っていることが増えていた。





 その日も、彼女は彼の隣にいた。

 倒木を離れ、草地に並んで湖面を眺める。


 かすかな水の音。

 鳥の囀り。


 アルドレインは風を頬に受け、心地よさそうに瞳を伏せていた。


「ティア」 

 

 ティアは彼の横顔を見る。

 青い髪が風に揺れ、その頬を柔らかく撫でていた。


「私は、君とやはり口づけがしたい」

「……いいわよ」

「やはりだめか……え?」

 

 アルドレインはゆっくりと彼女の方へ顔を向ける。


「今……いいと言ったか」


 ティアはアルドレインの金の瞳をまっすぐに見つめたまま。

 彼は自分の唇に指先で触れた。


「……口づけをしたら、君は私のつがいになる」

「いいわよ」


 しっかりと頷いたティアに、アルドレインはわずかに目を見開く。


「……本当に?」

「えぇ」


 彼は彼女に体を向けるようにして座り直すと、その手を取った。


「番になれば、私は君から離れない。

 竜の祝福を受けたら、それこそ長い時間、君は私に付き纏われることになる」

「アルドレインは真面目ね」


 アルドレインはふっと笑い、目を柔らかく細める。


「君を愛してるからな。ずっと一緒にいたい。

 初めはその美しい見た目に惹かれたが、話してみてもっと好きになった。

 強気で、呆れるほどに真面目で、伝説の竜である私にもずけずけと物を言う」

「……褒めてるのよね?」

「褒めてるつもりだが……間違ったか?」

「あなた、やっぱり変な人だわ」


 ティアがくすくすと笑うと、アルドレインはそれを愛しげに見つめ、彼女の頬に手を添えた。


「ティア、私の番になると言ってくれ。

 そして、私が君に口づけることを受け入れて欲しい」


 金の瞳と、空色の瞳がまっすぐに交わる。


「あなたの番になるわ。口づけることも、許します」


 視線が絡み合う。

 アルドレインが顔を寄せ、静かに唇が重なった。


 途端に――淡い光が、二人を包む。

 

 そうして吐息が触れ、ゆっくりと熱が離れた。


 アルドレインはそっと彼女の目元に触れる。

 彼女の瞳は、彼と同じ、滲むような金色に変わっていた。


「これで、君は私と同じくらい長く生きる。

 ……それと、少しばかり力も与えた」

「力?」

「君なら、きっとうまく使える」


 柔らかい風が、二人の髪を同時に揺らしていく。


「ティア、私はもう一度君と口づけがしたい」

「もう一度すると、何が起こるの?」

「私が満足する」


 ティアはきょとんと彼の瞳を見つめ、遅れて笑い出した。

 アルドレインも一緒に笑う。


 そしてまた、口づけをして、見つめ合う。


 小さな波を立てる湖面に陽が弾かれ、それは眩しいほどに、きらきらと揺れていた。





 だが、二人の時間はそう長くは続かなかった。 





 伝説の竜であるアルドレインは、戦のたびに現れ、人々からの信仰を集めた。

 しかしそれは、いつしか国にとって都合の悪い存在となった。


 国は、勇者を遣わした。


 長い戦いの末、アルドレインは討たれ、石と化した。


 かくして、

 彼らの存在は、時代とともに忘れ去られていった。




 

 一人残されたティアは、長い年月を掛け、彼を元の姿に戻す方法を探した。

 

 彼女はある時から宝石を集め始めた。

 宝石はこの星の息吹。

 多くの魔力をはらみ、魔法の媒体となる。

 

 宝石と引き換えに人外の願いを叶えていくうち、彼女は魔女として、動物をはじめとした多くの人外に、その名を知られることになった。





 いくつもの季節が巡った。

 魔女である彼女は長い寿命をもっていたが、それでも年を取った。


 集めた宝石は、いつしか木箱いっぱいになった。


 誰も、彼女の名を知るものはいなくなった。

 彼女自身も、呼ばれることのなくなった本当の名を忘れてしまった。


 あまりにも、長い年月が過ぎてしまった。


 石化した竜の岩からは、もう彼の生命力は感じられない。


 仮に彼がこの世界に戻ったところで、きっとまたいつか、力のありすぎる彼の存在は人に厭われることだろう。



 


 魔女婆は、アルドレインの岩を見上げた。

 月が、静かに彼女たちを見下ろしている。

 

「アルドレイン……。

 あなたがくれた長い寿命も、もう長くはもたないみたいだ。

 とうとう石化を解く方法は見つからなかった」


 彼女の滲むような金の瞳は、わずかに濡れていた。


「だから、決めた」


 彼女は一度、目を閉じた。

 風が、葉を震わせる。

 

「……あたしが、あなたのところへ行く」


 彼女は岩の周りに、これまで集めた宝石を撒いた。

 葉の隙間から差し込むわずかな月光が宝石に滑っていく。


 岩に、手を触れた。

 彼女の老いた頬に、涙が伝う。


 “……君は、美しいな。私のものになるか”

 

 “ただの村男のように、君と同じ村で、村のために働いた。それだけで私は楽しかった”


 “アルドレインでいい。君の声でアルドレインと呼ばれるのは心地がいいからな”


 “私は、君とやはり口づけがしたい”


 記憶が、甦る。


 もう二度と戻らない、彼と過ごした日々。


 柔らかい声。

 朗らかな笑い方。

 美しいその瞳。


 その生き方。その全て。


 彼女は、指先に力を込めた。

 節が白く浮き立ち、呼吸が浅くなる。


 強い光が、生まれる。

 媒体の宝石が、音を立てて次々と砕けていった。


 一瞬の静寂。


 宝石の砕ける音も、もうしない。


 闇が、森に戻る。





 そうして残ったのは、

 竜の岩に寄り添うように座る――乙女の石像だった。





 だが、まだ石が一つだけ残っている。

 青い、小さな石。


 その石は、彼がかつて彼女にあげた名もない、価値もない小さな石だった。


 それは、呼吸をするようにはじめは小さく明滅を繰り返し、

 やがて強く輝き出す。





 青い石の光の中から、彼は手を伸ばした。


 青い髪。

 滲むような金の瞳。

 そして、異様に整った顔貌の男。


 彼は、石像に、そっと口づけを落とした。


「ティア……。

 一人で頑張らせてしまったね」


 アルドレインは額を当てた。

 

「早く君の声が聞きたい。君とまた、口づけがしたい。

 ……あちらの世界なら、共に幸せになれる」


 風が、凪いだ。


「今、迎えに行く。共に生きよう」


 淡く、光った。





 そして、そこにはとうとう何も残らなかった。

 竜の岩も、乙女の石像も。





 それは、深い、深い森の奥。

 誰も彼らの行く先も、恋物語の終わりも知らない。


 だが、名もない、ただ一人の男と女が幸せになった。 


 この物語は、ただそれだけの

 ――名前もない物語にすぎないのだ。



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