十六、 女性への接し方だ
教室に一歩足を踏み入れた瞬間、生徒達の視線が飛んできた。五十人はいるだろうか。階段式の講義室で、大きな窓からは日が差し込み、環境はよさそうだ。
この語学学校には制服はないようで、皆それぞれ、自国の服を着ている。
「今日から二週間、皆さんと共にブリンス語を学ぶ、体験学習性のラリサ・シビリテルさんと騎士のレオン卿です」
ミラー教授の紹介に、ホッと小さく息をつく。「リホン出身」ということを言われなくてよかった。
「それでは、お二人は空いているお席に……」
視線を感じ、教室の中央に目を留める。
そこにいた……いや、いらっしゃったのは、イリア王国の王太子、エイブリヒ殿下だった。帝都にいらっしゃっているとはダニーに聞いていたが、まさかこの学校で再会するとは。さっきまで重さを感じていなかった胸のあたりが、いきなり下を引っ張られたような感覚。
「ミラー先生、こちらの席が空いております!」
明らかに、エイブリヒ殿下の両隣はうまっていた。と、思ったら、右隣に座っていた護衛のサフマドさんがサッと立ち上がった。殿下の隣に、こうして一つ、席ができた。
「ラリサさん、エイブリヒ殿下とはお知り合いでしたか」
ぎこちなくうなずくラリサお嬢様。王族と知り合いだということをこんな公衆の面前で言われるなど、お嬢様は思いもしなかったのだろう。
そして、言われるままに殿下の隣にお嬢様は座ることになった。反対側の席は、どうやら殿下のご学友のようだ。
ざわつく教室を抑え、ミラー教授の授業が始まった。
俺はサフマドさんと共に、窓際に立ち、ラリサお嬢様が学ばれる様を見ていた。時々、エイブリヒ殿下がお嬢様に何やら耳元で囁いたり、教科書をお嬢様に見せたりしている。
机を並べて勉強するというは叶わなかったけれど、いきいきと教授の話を聞くお嬢様の横顔をずっと見ているのもいいものだ、と自分に言い聞かせる。
正直、授業はつまらなかった。あくびしたいのを必死におさえつつ、俺は耐えた。
自分にとってブリンス語がかんたん過ぎるとかそういったものではなく、授業の形態というか、教授法がおもしろくないのだ。
お嬢様が俺にブリンス語を教えてくれた時は、公爵邸にあるあらゆるものを使って試してくれた。時には絵を描き、身振り手振りを交え、俺が早く会話できるように、周りと意思の疎通がとれるようにと、優先順位を考えてくださったというか。言いたいことを言えるようにと、力を尽くしてくださったのだ。
つまり、実用性のある語学学習。
それに比べて、今日の授業だけと思いたいが、ミラー教授は延々と教科書を読み、それを文法事項を中心に訳していくというもので、まぶたの重さに耐えるのがやっとだった。内容も、古典的な随筆ばかりで、そのために文法の例文に生活に沿ったものとは程遠い。こんな教授法だと、教養は存分に身についたとしても、俺だったらいつまで経ってもしゃべれるようにはならないだろう。
おそらくこの帝国にとっての「言語学」はただの教養で、コミュニケーションをとるための道具ではなく、「できれば自慢できるものの一つ」といった程度なのだろう。貴族の趣味の一つとしてもよく挙げられると聞いたこともある。
こんな授業で、ラリサ様の参考になるんだろうか。
お嬢様が目指すのは、生きた語学だ。話す人や、それを聞いた人に役立つ、あるいは助けられる、そして癒し癒されるような。
知りたいと思う人、愛する人の声を通訳ではなく自分の耳で聞き、通訳を介さずに自分の声で心を伝えるためのツールとしての語学。
少なくとも俺は、そのようなものとして、ラリサお嬢様にリホン語を習ってきた。
ミラー教授の授業が全て悪いわけではないと思うが、とても中級レッスンとは思えない難易度というのも気になるところだ。
などと考えているうちに、鐘が鳴り、授業が終わった。
「ラリサさん、体験授業はいかがでしたか。ラリサさんにはやさしすぎたでしょうね」
エイブリヒ殿下が、そう言ってやさしい微笑みを浮かべる。
「とても興味深い授業でした。ブリンス帝国の文化はあまり存じ上げておりませんでしたから、またとない機会になりました」
ものは言いようですね、お嬢様。
「私はやはり、ラリサさんに教わる方が上達が早いように思います。帝都でも、お時間がつくっていただけますか?」
殿下の上達が早くなるのは、先生がラリサお嬢様だからという理由が大きいだろうが、今回ばかりはあの授業の後なので心の中で大きくうなずいた。
「エイブ、俺のことも紹介して」
エイブリヒ殿下の横から、見慣れないラフな民族衣装を着た男が顔を出す。殿下を敬称なしの「エイブ」呼びとは、どういった関係だろうか。
「ラリサさん、こちらは友人のヨシナリ・オーミヤです。ヤマタタズミ王国の王太子だとか」
ヤマタタズミ?
聞いたことがあるようなないような。確か、遥か遠いイリア王国よりももっと遠方の国だったか。何にしろ、王太子だからエイブリヒ殿下と気安いのだろう。
「『だとか』って何だよ、だとかって」
「ヨシナリ、こちらはリホン王国から来られたラリサ・アリアナ・シビリテルさんです。失礼のないように」
「リホンって、あのリホン王国?」
驚くのも無理はない。
「どおりでどこかで見たことがあると思った。宝姫とそっくりだもんな」
声が少々大きく響いたせいか、周りの生徒の何人かが聞き耳を立て始めた。
「初めてお目にかかります、ヨシ……ヨシュナリ……いえ、ヨシナリ殿下。ラリサと申します」
珍しく、お嬢様の活舌が悪い。確かに、リホン人には発音しにくいお名前ではある。おまけに「殿下」を付けるともっと言いにくい。
「はじめまして、ラリサ。気軽にヨシナリと呼んで」
ヨシナリ殿下はそう言って、栗色のくせ毛を撫でつけた。
「ヨシナリ、せめてラリサ「さん」と呼べ」
それは、口には出さないが俺も気になっていた。
「えー、早く仲良くなりたいし。だって、こんなにラリサはきれいで愛らしいんだよ?」
「えー、じゃない。それにラリサさんが美しいのとそれは関係ない」
「じゃあさ、ニックネームで呼ぶのはどうかな。ラリー? リサ? それともララ?」
全身の血が、一気に冷えた。
口内に入ってきた息が、喉の辺りでピタリと止まる。
サッとお嬢様を見る。やはり、表情がかたまっていた。
「恐れながら、申し上げます」
一介の護衛騎士が王族達の会話に割って入るのは失礼極まりないのはわかっていたが、主君の心を守るのも俺の務めだ。
「レオン、どうした」
知らない間に、エイブ殿下も俺に気安くなりましたね。恐らく牽制でしょうけれど。
怒りをぐっと拳に閉じ込め、ラリサお嬢様の顔をうかがいながらつづける。
「リホン王国では、愛称を呼び合うのは将来を約束した方のみとなっております」
やんわりと笑いつつ、うつむくお嬢様。
ヨシナリ殿下は決してからかったわけではないような気もするが、異性といえば俺以外はリホンの王太子としか関わってこなかったお嬢様は、どう応えていいのかわからないのだろう。
「そうだったのか。ヨシナリ、謝れ」
睨みつけるエイブ殿下の横で、ヨシナリ殿下はフッと笑う。
「それじゃあ、どの愛称がいいか、今から考えておきますね。ララ、がいいかなぁ」
エイブ殿下と俺の小さなため息が同時に出たのは言うまでもない。
俺だって、いつか「ララ」とお嬢様を呼んでみたいと夢見たとしても一度だって口に出したことがないのに。
「ヨシナリ、それはヤマタタズミ王国の文化なのか?」
エイブ殿下の口から、何度目かのため息が漏れる。
「それって、どれ?」
「女性への接し方だ」
「愛情を素直に表現するかどうかってことか? つまり求愛?」
求愛。
あれは求愛だったのか。




