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『オーレリア戦記』  作者: りあと
外伝『2つの宝珠』帝国歴283年~298年
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『濁流を阻む慎み』

皇帝ヴィンセントからの並々ならぬ寵愛を一身に集めながらも、フレデリカの位階は長年にわたり「正五品・婕妤(しょうよ)」のまま据え置かれていた。


後宮の者たちは影で噂した。皇帝の気まぐれがいずれ冷めるのだろうと、あるいは彼女に上位へ登るほどの野心が欠けているのだと。しかし、真実は正反対であった。位階が上がらぬよう、進封の打診があるたびに皇帝の御前で膝を折り、涙を流して辞退の懇願を重ねていたのは、他ならぬフレデリカ自身だったのである。


元は女楽出身の貧しい女官上がりの身。後ろ盾などどこにもない己が貴妃や妃といった高位に上り詰めれば、名門貴族出身の側室たちの猛烈な嫉妬と憎悪の標的となる。皇帝の寵愛という不確かな盾だけで渦巻く謀略の風浪を耐え抜くことなど不可能なのだと、彼女は誰よりも冷徹に理解していた。


そしてその慎み深き生き方は、彼女が産み落とした第五皇子イリアードを守るための、無二の鎧でもあった。



◇

時が流れ、第五皇子イリアードが元服の節目となる十五歳を迎えた。


健やかに、息災に育った我が子を見つめながら、フレデリカは再び大きな決断の時が訪れたことを確信していた。後宮において、皇子の十五歳は「婚姻」という政治の波に呑み込まれる年齢を意味する。


強力な名家や権力機構と繋がる婚姻は、権力闘争の渦中にイリアードを叩き込むことになる。かといって、後ろ盾のない身ゆえに政敵からの嫌がらせや、謀略に満ちた不利な良縁とは言えぬ婚姻を強制されるわけにもいかない。権力闘争から完全に孤立しつつも、悪意から身を守る絶妙な着地点——。


フレデリカが弾き出した解はひとつであった。引き取って育ててきた姪のリゼリア、そしてセシリアの二人を、イリアードの正室および側室として娶らせること。


身内だけで結びつき、他家との婚姻の隙を完全に排する。そのためには、宮廷で圧倒的な権力を握る巨大な存在——「シュタインベルク家」の許諾を得なければならなかった。



◇

フレデリカが最初に足を運んだのは、後宮の頂点に君臨する皇太后の宮であった。皇太后もまた、シュタインベルク家の出身である。


「……第五皇子イリアードの婚姻を、リゼリアおよびセシリアとの間で結ばせたい、とな?」


重厚な香炉の煙が立ち上る一室で、皇太后は深く腰掛け、目の前で静かに頭を下げるフレデリカを見下ろした。


「はい、皇太后様。イリアードは才乏しく、他家との大望を果たす器ではございません。身内のみで静かに暮らし、皇室の末端でお仕えすることこそが分相応と存じます。何卒、格別のご配慮を賜りたく存じます」


皇太后はゆっくりと目を閉じた。シュタインベルク一族の利益という観点から見れば、上位の皇位継承権を持たない第五皇子が権力を持たぬ身内とだけ結びつき、完全に権力争いから離脱することは極めて都合が良い。


しかし、皇太后の瞳には単なる政治的計算だけではない、複雑な色が浮かんでいた。イリアードは自らの血を引く愛おしい孫の一人でもある。


「……フレデリカよ。お前はどこまでも賢しく、そして哀しい母親だな。イリアードの将来の牙を自ら抜き、平穏と引き換えに日陰の道を歩ませようというのだから」


「それが、あの子を生かす唯一の道でございます」


「……よかろう。余から皇帝にも申し伝えておく。イリアードには、その静寂こそが相応しいのかもしれぬな」


皇太后の小さな溜息と共に、最大の障壁のひとつが取り除かれた。



◇

次にフレデリカが向かったのは、後宮を統括する皇后の宮であった。同じくシュタインベルク家の威光を背負う皇后は、かねてより女官上がりのフレデリカが皇帝ヴィンセントから深い寵愛を受け続けていることを、長年にわたり不快に思い続けていた。


豪華絢爛な調度に囲まれた応接の間で、皇后は冷ややかな眼差しをフレデリカに向けた。


「……ほう。第五皇子の妻に、そなたの姪二人を当てたいと?」


「はい、皇后様。身の程知らずの望みとお叱りを受けるやもしれませんが、どうかご慈悲を」


皇后の口元に、かすかな嘲笑が浮かんだ。


本来ならば、皇子の婚姻は他家との結びつきを強めるための貴重な駒である。それをあえて何の後ろ盾もない身内だけで固めるということは、第五皇子イリアードが将来の皇位継承争いから『完全に降伏し、退場する』ことを意味していた。


(長年、陛下のお心を奪い続けてきた女の産んだ子……。それが自ら爪を研ぐのをやめ、無害な存在になると誓うというのか)


シュタインベルク家にとっても、自らが擁立する上位皇子たちの脅威がひとつ減ることを意味する。何より、目の前で卑屈なまでに頭を下げるフレデリカの姿は、長年の胸の支えをすっと下ろさせるものであった。


「よいでしょう、婕妤フレデリカ。そなたが身の程を弁えていることは褒めて遣わします。その婚姻、我が宮としても異論はありません」


「……寛大なご決定、深く感謝申し上げます」


深く床に伏せるフレデリカの背中を見つめながら、皇后は満足げに身を乗り出したのだった。



◇

皇太后と皇后、後宮における二大権力の承諾を取り付けたフレデリカは、静かに自分の居所である翡翠宮へと戻った。


廊下からは、まだ幼さの残るイリアードと、顔に偽りの痣やそばかすを描いたリゼリア、セシリアたちの楽しげな話し声が聞こえてくる。彼らはまだ、自分がどのような巨大な濁流から守られたのかを知らない。


「これでいい……。これで、あの子たちは守られる」


自室の鏡の前に立ち、フレデリカは静かに自らの姿を映した。正五品・婕妤。華やかな後宮にあって、あまりにも地味で目立たない位階。


だが、この低き身分と「無欲」という最大の仮面こそが、愛する息子と少女たちを猛獣の巣窟のような後宮から救い出す、最強の武器となったのだ。


夕日が翡翠宮を温かく染め上げる中、フレデリカはそっと窓の外を見つめ、静かな笑みを浮かべるのであった。

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