『翡翠宮の静謐(せいひつ)』
後宮の最奥に位置する翡翠宮は、外界の喧噪が嘘のように静謐な空気に包まれていた。かつて皇太后フレデリカが過ごし、皇帝イリアードが幼少期を過ごしたこの居館は、幾年もの歴史と気品を重厚に湛えている。
「アレス・マクウェンとエミーナは出立したようですね」
水鏡宮の主であり、後宮の頂点に立つ皇后リゼリア・リヴィエールは、繊細な磁器の茶杯をそっとソーサーに戻すと、小さく溜息をついた。聡明かつ冷徹と周囲から評される美貌に、わずかな疲色が差している。
向かいに座る貴妃セシリア・リヴィエールは、穏やかな微笑みを浮かべながらリゼリアの杯に温かい紅茶を注ぎ足した。二人は従姉妹であり、幼馴染であり、十歳と九歳で宮中見習いとしてこの翡翠宮にやってきて以来の親友であった。互いを深く理解し尊重し合う二人は、これまで一度として争ったことがない。
「はい。いつもの事ですけど驚かされますね。今回の件で思い出しましたけど、ノバージェを攻め落として、教国を作ってからルシアはアレンとエミーナの結婚を認めたのです。その時からルシアはアレンが崔厳の息子だと知っていたのでしょう。そして、1番信頼できるエミーナをあてがったように思えます。13年後のこの時の為に」
リゼリアは美しい庭を眺めながら、頷いて話を聞いていた。
「彼の国の仕置きとしては、万全ですものね。いずれココロギが行く事になるかと思っていましたが、その必要は無くなりましたね。エミーナが産んだ双子に興味があります。相当、強い力を発現して来たとか」
「ルシアから始まって、ココロギ、シェルランテ、ツルギ、ミタマ。今になって過激な血の者が増えましたね。私達の頃は肩を窄めて、世間にバレないようにひっそりと暮らしていましたけど」
しばらく、皇后は想いを巡らしているようであった。
「ところでエレノアの件で相談があります。あの娘は、どこか気には召しませんけれど、筋は通さねばなりませんわ。奉儀正九品から昭訓正七品へと昇格の儀を進めます。彼女の人間性はともかく、後宮の秩序と公平を守るのが皇后たる私の務めですから」
リゼリアの毅然とした言葉に、セシリアは深く頷いた。リゼリアはさらに言葉を継ぐ。
「それにしても、最初から皇太子夫婦の居所を東宮と春宮に分けて住まわせたのは、本当に正解でしたわ。あのような女狐と同じ邸で暮らさせたら、シルヴィアの心が持ちませんもの」
「ええ、本当に。シルヴィアは皇孫女シェルランテを育てながら、いま二人目を身ごもっておられますからね。あのお心優しい方に無用な心労はかけさせたくありませんわ」
セシリアの言葉に、二人の表情がふっと和らいだ。皇太子妃シルヴィアが暮らす春宮——今や『白鷺宮』と呼ばれるその館の話題になると、後宮の冷ややかな空気も温もりに包まれる。
かつてシルヴィアが第一子であるシェルランテを懐妊した頃、どこからともなく一羽の巨大で美しい純白の白鷺が舞い降り、春宮に住み着くようになった。誕生した皇孫女は『真珠のような鳥』を意味するシェルランテと名付けられ、別名『白鷺姫』として愛されている。
「白鷺宮は、相変わらず賑やかですの?」
「賑やかどころではありませんわ」リゼリアは苦笑を漏らした。
「マグロの件でしょうか?それならこちらにもお裾分け頂いて美味しく平らげましたわ」
「春宮は常に活気に満ちていて、皆の笑顔が絶えない素晴らしい場所になっていますね」
「それに引き換え……芙蓉宮は、少々気がかりですね」
セシリアが声を潜めると、リゼリアも悲しげに眉をひそめた。「他者を見下すエレノアの心の影が、あの鳥たちを引き寄せているのではないかとすら思えてしまいます」
「命を宿したとはいえ、あの調子では自滅しかねませんね。皇太子妃と生まれてくるお子たちに害が及ばぬよう、私もしっかりと目を光らせておきます」
「頼りにしているわ、セシリア」
セシリアの温もりある励ましに、リゼリアは静かに頷き、そっと微笑みを返した。




