『海軍准将の隕石落とし』
アルヴェリア南部、港町フルヴィアルトの郊外。 そこは、アルヴェリア水軍がその栄光を揺るぎなく誇示する軍港地域であった。
海を見下ろす高台に佇む、庶民が羨むほどの豪奢な邸宅。若くして出世を遂げた提督の住まいにふさわしいその邸宅の二階書斎で、アレス・マクウェン海軍中将(40)は静かに退職届を整えていた。強風が吹き抜ける日の午後だった。
軍歴二十五年。幾度となく艦隊の指揮を執り、修羅場を潜り抜けてきた彼の面影には、込み上げる幾多の思い出が深く滲んでいた。
そこへ、ノックもなく扉が開く。 現れたのは、普段の軍服姿とは打って変わり、淑やかな装いを纏った妻のエミーナ准将(37)だった。非番であるにもかかわらず、その腕には大量の作戦資料が抱えられている。
「アレス。来月の合同演習の件だけど、第7艦隊との調整が――」
言葉の途中で、エミーナの視線が机上の書類に留まった。 そこに記されていたのは、はっきりと印字された『退役申請書』の文字。
彼女の整った眉が不審げに跳ね上がる。
「……何よ、これ」
アレスは静かにペンを置き、深々と椅子に背をもたれ、妻の瞳を正面から見つめ返した。
「言葉通りの意味だ、エミーナ。私はこの秋で軍を退く。そして北の神聖なるゲンドラス教国へ移住するつもりだ。お前にも、退職の手続きを進めてほしい」
一瞬の静寂が空間を支配した。 エミーナは抱えていた資料を机にドサリと落とすと、腕を組み、冷ややかな笑みを浮かべた。
「正気なの? 夫婦揃って無職になれと言うの!? 私たちには二人の子供がいるのよ! 一体どうやって育てろと言うの! あなたのその地位だって、誰もが得られるものじゃないのよ? それを捨てて私にまで仕事を辞めろだなんて……どうかしてるわ。こんな歳になって宗教に傾倒してどうするつもり? 神様から宝石でも恵んでもらって暮らす気? 神様だってそんなに甘くはないわ! ねぇ、聞いてるの!?」
「俺はお前も子供たちも愛している。だからこそ、一緒に行きたいんだ」
「そういう問題じゃないわ!」
エミーナの金切声が室内に響き渡る。 階下の居間で勉強していた十二歳の双子——兄のツルギと妹のミタマが、顔を見合わせる気配が伝わってきた。
「今はまだ理由を明かせない。話せる時が来たら必ず説明する。だから今は、黙って俺に従ってくれないか」
「理由も言わずに黙って従えだなんて……! 今の生活をそんな身勝手な理由で捨てろと言うの!? 勝手すぎるわ!」
「勝手なのはどっちだ!」
アレスが激しく立ち上がった。体格差から生じる威圧感に、エミーナが一瞬目を見開く。
「私は家族の『これから』の話をしているんだ!」
「何よ……大きな声を叩かないで! やる気なの? 相手になってあげるわ。こうなったら、あなたを殺して、子供たちと後を追うわ!」
「なっ……待て! やめろ!! なぜそうなる! 落ち着け、エミーナ!」
激情に駆られたエミーナは異能の力で刃を錬成し、愛するが故に憎い夫へと斬りかかった。
――ギィィン!!
重厚な金属音が響く。 瞬間移動で両親の間へ割り込んだ息子のツルギが、錫杖で母親の渾身の一撃を完璧に弾き返していた。
(強い……いつの間に、これほどの力を……!?)
驚愕するエミーナだったが、感情のままに叫んだ。
「ツルギ、退きなさい! みんなで死ぬのよ!」
エミーナは左手を突き出し、壁に向かって灼熱の火玉を放った。
「何を考えているんだ、やめろーッ!」アレスの絶叫が届く前に、
「お母様、お止めなさい!」
娘のミタマが放った霧の玉が、間一髪で火玉を包み込み、掻き消した。
(ミタマが水術を……? 私以上の精度で……!?)
「なら……直接焼き尽くすわ! パイロキネシスで!」
「エミーナ、やめろーッ!」 「お母様、ダメーッ!」
ミタマが両手を翻すと、可憐な氷の結晶体が舞い踊り、燃えかけた壁の残り火を一瞬で鎮圧した。
「霜華……! ルシアと同じ技を……」
我が子の予想外の成長に、エミーナは呆然と脱力した。
そこへ畳みかけるように、双子の声が綺麗に重なる。 「「ダメーーッ!!」」 寸分の狂いもない見事な呼吸だった。
ツルギは錫杖を高く掲げ、ミタマは右手を天にかざしていた。
「私の……『隕石落とし』まで阻止したというの? あなたたち……」
「お、お前……隕石まで落とそうとしたのか!? うちの家族はどうなっているんだ……!」
恐れ慄く父親を余所に、ミタマが懐から丸められた四通の羊皮紙を取り出した。
「お父様、お母様。皇帝陛下、皇后陛下、教皇猊下、そしてセシリア様よりお手紙が届いております。全てシェルランテ皇孫女殿下の署名入りです」
エミーナは受け取った四通の手紙に目を通し、ようやく事の真意と背景を把握したのだった。
◇
荒れ果てた書斎に、再び静寂が戻ってきた。
アレスは深く息を吐き出し、柔らかく妻の顔を見つめた。エミーナもまた、決意と微かな申し訳なさを宿した瞳で夫を見返す。
「ちゃんと説明できなくてすまなかった。謝るよ」
「……いいえ」
エミーナはどこか晴れやかな、優しい笑みを浮かべた。
「次の引越し先は……もう少しお庭が広い家を探しましょうね」
「了解した、准将」
アレスが笑みを添えて軽く敬礼してみせると、エミーナは呆れたように息をつきながらも、美しく鮮やかな敬礼を返した。
その光景を見届けていた双子は顔を見合わせ、満足そうに声を揃えた。
「「やれやれ、これにて万事解決だね」」




