『錦族の謎、水底の記憶』
オーレリア帝国の中心にそびえる白亜宮。その広大な後宮の一角には、鮮やかな緑のクロ―バーがまるで絨毯のように広がる瑞々しい庭園がある。
そこは真理の光教団の聖堂、通称『四つ葉堂』と呼ばれていた。
透き通るような鐘の音が心地よく響き渡る中、聖堂の奥からは箪笥ほどもある大きなオルゴールが、厳かで美しい旋律を奏でている。
庭では数匹のうさぎがのんびりと放し飼いにされており、日頃の激務から逃れてきた女官たちが、こっそり仕事をサボっては彼らを撫でて癒やされていた。
「四つ葉様、手荒れがひどくて……。どうか護符をいただけないでしょうか」
「カリナさん。これは痛々しいですね……。神の御加護がありますように」
聖堂の巫女であり、この館の主であるココロギ・サイリュンは、穏やかに微笑みながら不思議な力を込めた護符を手渡した。
「ココロギ様! 今、お使いの途中でこっそり抜け出してきちゃいました。私にも神秘札をください!」
「シエンタちゃん、また上司に叱られてしまいますよ? はい、これ」
「ありがとうございます! お礼にお菓子を持ってきたので、後で食べてくださいね!」
「ふふ、ありがとう」
ココロギが異能の力でその場で作る護符や、一人ひとりに向けた絵と言葉の助言が記された神秘札は、後宮の女性たちの間で大変な評判を呼んでいた。中には、老化を防ごうと必死に護符を顔に擦り付ける猛者までいるが、残念ながら効果は全くない。「老化は病気や異常ではなく、人間として正常な営みなのですから」というココロギの真っ当な説明に、皆が苦笑いするのも日常の光景だった。
そんな賑やかな応対を終え、ココロギは小さく息を吐いて奥の自室へと戻った。
部屋に流れる静寂の中で、彼女は机の上に広げた古い地図に視線を落とし、その指先で頼りなく輪郭をなぞった。
彼女の胸には、ずっと消えない澱のような疑問があった。
先日のオクタヴィア大聖堂での討論――「錦族の滅亡」という推論が、どうしても頭から離れなかったのだ。
(本当に、彼らはなぜ滅び去ったのだろうか……?)
燕国、そして大河アシュロンの河口から沖合に突き出た東海諸島に暮らしていた錦族。彼らは逃げ延びてその地に住んだのではなく、その地に住んでいた錦族だけが「生き残った」のではないか。それこそが、司教カシアスの唱える見解だった。
さらに不可解なのは、アンチアルマの地下深くにて見つかった莫大な財宝の存在だ。略奪もされず、手つかずのまま美しく残されていたのは、どう考えても不自然だった。
(火事や敵の襲撃であれば、財宝は奪われるか灰になるはず。それがそのまま残って人だけが消える理由……。もしそれが、一瞬にしてすべてを飲み込むような『水害』だったとしたら?)
ココロギは思考を巡らせながら、地図の上の「アンチアルマ」と、旧燕国の首都「鳳山」に二本の指をあて、その距離を測った。
そして、指の幅を変えないまま、そっと東海諸島へと滑らせてみる。
(……やっぱり)
確信を得るため、もう一度、アンチアルマから南東に向けて同じ幅で指を当てがった。
その三箇所から全くの等距離に位置する場所――そこには、「アルヴェリア」の名が刻まれていた。
アルヴェリア。今でこそ現皇帝イリアードが親王時代に大規模な治水と開発を進めたことで豊かな土地となっているが、それ以前は100年以上もの間、誰も立ち入ることのできない広大な湿地帯として放置されていた場所だ。
「湿地……水害……水没……。……ん?」
違和感を追ううちに、ココロギはある地理的な特徴に突き当たった。
南北を貫く大運河と、南側を東西に流れるアシュロン川。その二つの巨大な水脈が交わる物流の要衝、アシュウェスト。
そこは、アシュロン川上流のアクスアルブや、彼女の故郷であるルミナリアから運ばれる物資、そして海を渡ってきたフローラブルグの商船が集まる活気ある港町だ。ここから大運河を北上すれば、あらゆる富が帝都へと送り届けられる。
だが、地図をよく見れば、アシュウェストのすぐ対岸こそが、あのアルヴェリアなのだ。
なぜ、これほど交通の便が良い場所の目の前でありながら、アルヴェリアは長い間不毛の地として打ち捨てられていたのだろうか。
ココロギは自身の複雑な血筋に思いを馳せる。
彼女は聖ゲンドラス教国の教皇の娘であり、リヴィエール家の血を引く母から生まれた。その身に強い異能を宿しているものの、未だその大半を自在に操ることはできない。
かつて花の都ルミナリアで隠し子として生まれた彼女は、異能を発現させたことで、ルシアの母であるセシリアの実家・リヴィエール家に母子ともに保護されて育った。リヴィエールの一族はもともとアルヴェリアの土豪であったが、強力な異能を発現させるのは、本家よりもルミナリアに移った分家の血筋――フレデリカ、セシリア、エミーナ、ルシア、そしてココロギ自身へと連なる系譜の者たちだけだった。
ルミナリアは、ココロギが生まれ育った愛着のある町だ。
現在、ルミナリア大聖堂は取り壊しの最中だが、そこからは何一つの発見も報告されていない。むしろ怪しいのは、ルミナリア郊外にある「セレスティア大聖堂」のほうではないかという予感があった。
(ニルニラ侯爵家の居城があったあの場所を、なぜルシア様は選んだのだろう……。もしそこに何か重大な秘密があったのだとしたら、ルシア様は私たちが思う以上に、世界の多くの真実を知っていたことになる)
だとすれば、最後に残された謎のピースは、やはり「アシュウェスト」だ。
あそこは古くから交易の拠点として栄華を誇っている街だ。それにもかかわらず、どういうわけか「天信教の大きな大聖堂」が一つも存在しない。あの人口規模と歴史を持ちながら大聖堂がない街など、帝国広しといえどアシュウェストだけだった。隠された歴史の歪みが、そこにある。
(政庁以外で、あの街にある大きくて古い建物といえば……)
ココロギの脳裏に、街を牛耳る「5大商人」の館が浮かんだ。
自身の実家でもあるリヴィエール商会を除いた、残りの4つの商会の建物。あの堅牢で古い敷地の奥深くにこそ、歴史から消し去られた水底の記憶が眠っているのかもしれない。
「……探ってみる価値は、ありそうね」
ココロギは静かに地図を閉じると、自身の内に眠るかすかな異能の気配を感じながら、決意を秘めた瞳で窓の外の青空を見つめた。




