『失われた記憶と救世主』
「生まれ変わり……ですか」
帝都オクタヴィアの大聖堂。かつて天信教の深厳なる聖域として鎮座していたその場所は、教団が払いのけられたのち、幾重もの改装を経て新たな『真理の光教団』の至高なる拠点へと姿を変えていた。青空に聳え立つ四つ葉の煌めく尖塔は、過酷な歴史を乗り越え、未来へと向けられた民の幸福の象徴である。
この新生なる聖堂の司教として足を踏み入れた男の名は、カシアン・ヴァロア。かつて優秀な宦官として先帝に見出され、南海の果てへと続く未知の海路を探索する大任を帯びた人物である。だが、かつての大遠征において大艦隊の半数を蒼海の露と消す大失態を犯し、帝の激怒を恐れた彼は、二度と帝都の土を踏むことができなくなっていた。
失意の底にあった彼を救い出したのは、当時4歳の、アルヴェリア親王の令嬢ルシアの発案であった。南の風が吹き抜ける港湾都市シューコルンの大聖堂――その司教の座へと据えられたカシアンは、そこで穏やかに時を過ごし、いつしか六十の坂を越えていた。彼が実に十四年という長い年月を経て再び帝都へと舞い戻るに至った事の発端は、一通の不思義な手紙にほかならない。
その手紙には、いまだ文字を覚えたてのような幼い筆跡で、こう記されていたのだった。
――『オクタヴィアの大聖堂を完成させたので、帝都に戻りオクタヴィアの司教をせよ』
文末には、シェルランテ・フォン・オーレリアというあまりにも幼き尊名と、本物の赤ん坊のものであろう小さな朱色の手形がぽんと押されていた。そしてその傍らには、教皇ゲンドラス・サイリュンの厳格なる署名と黄金の教皇印が刻まれていたのである。
本来であれば、オクタヴィアの大聖堂の改装には数年の歳月を要する見通しであった。しかし年明け早々、新たな皇女誕生という吉報が帝都を駆け巡ると同時に、大聖堂は一夜にして神秘的な光を纏い、まったく新たな姿へと生まれ変わった。民衆はこの奇跡を吉兆と崇め感嘆の声を上げたが、現場で改修工事に当たっていた工夫や職人たちは深く困惑するばかりであった。何しろ、朝一番に作業へ向かうと、そこには完璧に組み上げられた大聖堂が忽然と完成していたのだから。
◇
奇跡の果てに誕生した新たな大聖堂の一室。重厚な扉に閉ざされた密室には、三人の人物が集っていた。老司教カシアン・ヴァロア、気品と憂いを湛えた貴妃セシリア、そして静けさを纏うココロギ・サイリュンである。
「ですが……やはり前世のルシア様の記憶はないようです」
ココロギの推測に、セシリアは静かに頷き同感を示した。亡きルシアは、セシリアの愛娘であった。新たな皇女シェルランテが生まれてすぐ、彼女はセシリアへと念話を送ってきた。しかし、そこには目に見えぬ固い絆こそ感じられたものの、セシリアが実の母であることを理解している様子はなかった。その後も、純粋な愛着をもって「義理の祖母」として認識しているようであった。
ただ、幼きシェルランテはセシリアとイリアード、そしてココロギに対してだけは、理由の排された無条件の好意と信頼を寄せているのだった。
「つまり……私がどのような経緯を経てシューコルンへと逃れていたのか、あのお方はご存じないということですかな?」
カシアンの問いかけに、セシリアはしなやかな首を傾けて頷いた。
「ええ、おそらくは。純粋に、今のあなたをこの大聖堂の司教として最善の適任者だと判断なさったのだと思いますわ」
幼いシェルランテの意識の内でどれほどの思考が巡らされたかは定かではない。しかし、それが事実として極めて巧妙な人事であることは確かであった。カシアンはかつて二万人、二百隻を超える大艦隊を統率した卓越した宦官であり、宮殿の奥深い内情にも帝都の政治的機微にも誰より精通しているのだから。
カシアンは太い腕を組み、深く息を吐き出した。
「いずれにせよ、私はなぜこのような運命の輪が回ったのか、その真実を知りたいのです。ココロギ殿、もう一度確認させてください。『救世主と世の終わり』……総主教は確かにそう口にしたのですね?」
「はい」と、ココロギは澄んだ瞳で深く肯いた。「総主教アルノルトは、地下の祭壇の闇の中で、確かにこう言いました……『救世主は死せよ。世界は滅びよ』と。それが彼の最期の詠唱でした」
ココロギの目を見つめれば、それが真実であることが痛いほど伝わってきた。この清廉な少女が嘘を吐くことなど、万に一度もあり得ない。
「ルシアは……私がこの手で産み落とした我が子ですのよ?」セシリアは胸を押さえ、絞り出すような声を漏らした。「あの子がこの世を救う『救世主』の宿命を背負っていたなんて、どうしても信じられませんわ……。ルシアと名付けたのは、他ならぬ陛下なのですから」
「ですが……ルシア様は、救世主と呼ばれても何ら遜色のないお方でした」
ココロギはそこまで言うと、不意に言葉を詰まらせて俯いた。鮮明に蘇るルシアの面影に、溢れ出る涙を堪えることができなかったのだ。
「確かに、見事というほかない采配でしたな」カシアンは静かに昔を噛みしめるように呟いた。「あのお方はまるで網の目を編み上げるように、この世の政、教、そして商のあり方を根本から塗り替えてしまわれた……」
涙を落とすココロギの前に、セシリアがそっと歩み寄った。彼女は美しい蓮花の刺繍が施された絹の手布を差し出し、優しく声をかけた。
「ココロギ、泣かないで。私も悲しいのよ……。けれど私の涙は、この一年であまりに泣きすぎて、すっかり枯れ果ててしまったけれど」
◇
セシリアは眼差しを遠くへ向けながら、言葉を続けた。
「陛下にこの聖堂の地下を隅々まで調べ尽くしていただいたけれど、何一つ手掛かりは残されていなかったわ。ラーナの古都へも足を運んでみたけれど、そこには読めない未知の文字が刻まれていて、あのヴォルフラムでさえ手を焼いているの」
三人はいま、天信教の深奥に潜む闇と秘密を追っていた。ルシアが命を落としたあの惨劇の日。この地下の暗がりで行われた禍々しい秘儀によって、ルシアの侍女ヴィオ、皇后ロザリア、そして第四皇子イスファの三人が、何者かに魂を乗っ取られたかのように発狂したのだ。同時に、セシリアたちリヴィエールの血を引く者が持つ異能の力を封じる、強固な結界が張り巡らされた。
古きリヴィエールの民と、天信教――両者が無関係であるはずがない。最終的にルシアはその生命の灯火を投げ打って結界を打ち破ったものの、二度と戻らぬ人となったのだった。
「白亜宮の書庫は古来、幾度かの火災に見舞われていますからな」カシアンが顎に手を当てて言った。「建国当初の古い記録まで遡って検証するのは、極めて困難でしょう」
そのとき、ココロギが何かを思い出したように顔を上げた。
「そういえば……ルシア様が以前、こう仰っていました。『かつてラーナで、自ら歴史の証拠を消し去った時代があったのではないか』と」
「消されたというのなら、残された僅かな痕跡から手繰り寄せるしかありませんわね」セシリアの瞳に強い光が宿る。「あの秘儀で明確に命を狙われたのは、先帝陛下、皇太子、そしてルシアの三人。教団の望みは、オーレリア帝国とリヴィエールの血筋を完全に抹殺すること……」
「おそらくは、セシリア様の推察通りでしょう」カシアンが深く頷く。「我々は、オーレリア建国の黎明期まで時を遡って調べる必要がありそうですな」
「父ゲンドラスが申しておりましたわ」セシリアは記憶の糸を紐解くように語りかけた。「オーレリアは元々、東方の燕国と同じ『錦族』によって開かれた国であったと。『錦織』を織りなす民の国――それこそが、オーレリアという名の真の語源なのだそうです」
「ふむ……古代都市アンチアルマの崩壊から、莫大な財を遺して逃れてきた民ということですかな?」
「東北の燕国へ逃れた人々と、大河アシュロンを下り東海諸島へ逃れた人々だけが生き残った……と伝えられていますけれど」
カシアンは静かに問いを重ねた。「逃れたと伝えられてはおりますが……実態は『その二つの地域へ逃げ延びた者以外は全滅した』と解釈するのが正しいのではないでしょうか? 財宝をそのまま置き去りにして逃げることも、また襲撃した側がその財宝を手につけぬまま残したというのも、あまりに不自然でございます」
「……ええ、全くその通りね」
長きにわたる議論に、セシリアは溜息を漏らし、そっと額を押さえた。
「今日はひとまず、ここまでにいたしましょう。これ以上考えると、頭がおかしくなってしまいそうですわ」
窓の外からは、新たに生まれ変わった大聖堂の尖塔が、静かな夕刻の光を浴びて淡く輝いていた。太古より続く陰謀と滅びの記憶――その解明に向けた長い旅路が、今まさに静かに始まろうとしていた。
主人公とその協力者
ココロギ・サイリュン:聖ゲンドラス教国の教皇の娘で、リヴィエール家の血を引く少女。『真理の光教団』の巫女(通称「四つ葉様」)として後宮の聖堂に常駐している。瞬間跳躍(空間跳躍)の異能を持つが当初は制御が苦手で、覚醒により黄金の光の壁を展開して呪詛を完全に掻き消す力を掌握した。
ビー・スー:南国ディヌイヤ王国生まれの青年。ディヌイヤ・ラーナ公国にて『真理の光教団』の司教を務めている。丸盾と短錫杖を愛用し、快活な性格でココロギの調査や戦闘をサポートする。
フレデリカ・リヴィエール:アルヴェリアの主であり、恐ろしく美しい老貴婦人。リヴィエール直系のレジェンド的存在で、赤ん坊のシェルランテと共に大決戦の場に現れ、圧倒的な力で数百年の封印を押し戻し濁流を干し上げる。
オーレリア帝国 皇室・宮廷
シェルランテ・フォン・オーレリア:皇太子リアムとシルヴィアの間に生まれた皇女(通称「白鷺姫」)。亡きルシアの生まれ変わりと噂され、誕生直後から凄まじい「念動」や「瞬間移動」を本能で使いこなす規格外の赤ん坊。
イリアード:オーレリア帝国の第15代皇帝。親王時代にアルヴェリアの大規模な治水と開発を進めた功績を持つ。孫娘のシェルランテを溺愛する好々爺の一面も見せる。
リアム:オーレリア帝国の皇太子で、先帝の息子。リヴィエールの血を受け継いでいる。
シルヴィア:皇太子リアムの妻であり皇太子妃。先帝の娘。リヴィエールとは無縁の血統だが、お腹の中のシェルランテから放たれる圧倒的な異能の波動を感じ取りながら彼女を出産した。
リゼリア:イリアードの傍らに控える皇后。リヴィエール一族の女性であり、念話や念視、予知の異能を司る。
セシリア:後宮の一角『水明宮』に住まう貴妃(側室)。芸術の都ルミナリア出身で四十を過ぎても衰えぬ美貌を持つ。念話、念動、念創(無から有を生み出す)という宮中の誰も知らない隠された資質を持ち、生まれたばかりのシェルランテと距離を超えて心を通わせた。
ベルトト:後宮の女官長。皇后リゼリアと同じくリヴィエール一族の女性。
シンシア:イリアードのもう一人の娘。父親が一歩近づくと一歩後退してしまうような年頃で、少し距離がある。
カリナ / シエンタ:後宮で働く女官たち。ココロギの作る護符や神秘札を求めて、彼女のいる聖堂(四つ葉堂)へこっそり息抜きにやってくる。
真理の光教団(新生大聖堂)
カシアス・ヴァロア:帝都オクタヴィアの新生大聖堂に司教として赴任した男。かつて先帝に優秀な宦官として見出され大遠征の全権を握ったが、大失態を犯して帝都を追われていた。文字を覚えたてのシェルランテの手形付きの手紙によって14年ぶりに呼び戻された。
ゲンドラス・サイリュン:『真理の光教団』の教皇であり、ココロギの実の父親。
黒山羊結社・天信教(敵対勢力)
アルカディアス:仕立ての良い漆黒の外套を羽織った、白髪の穏やかな風貌の初老の男性。その正体は、帝国の影で暗躍する狂信的な秘密組織『黒山羊結社』の頂点であり、近年大陸全土に影を落とす『天信教』の真の黒幕。足元からどす黒い粘着質な影を広げる禍々しい禁忌の力を操り、アシュウェストとアルヴェリアで「大水没」の儀式を起こそうと目論む。
結社の男:漆黒の法衣をまとい、胸元に「三つの目を持つ黒山羊」の銀の紋章をつけた男。異能を強制的に封じる紫の光を放つ歪な剣を構え、旧第5ドックでココロギたちを襲ったが、二人の連携と長柄の横凪によって石壁に叩きつけられ敗北した。
アルノルト:かつての天信教の総主教。「救世主は死せよ。世界は滅びよ」という最期の詠唱を遺して、地下の祭壇の闇の中で死亡した。
過去の歴史・故人
ルシア:かつて失意の底にあったカシアスを救い出した、アルヴェリア親王の令嬢。セシリアの実の娘であり、ココロギたちにとっては「救世主メシア」と呼ばれても遜色のない存在だった。天信教の禍々しい秘儀による結界を自身の命の灯火と引き換えに打ち破り、亡くなっている。
ヴィオ:ルシアの侍女。
ロザリア:当時の皇后。
イスファ:第四皇子。
※ヴィオ、ロザリア、イスファの3人は、ルシアが命を落とした惨劇の日に、地下で行われた禍々しい秘儀によって魂を乗っ取られたかのように発狂した。
ミカエル:数百年前、アシュウェストとアルヴェリアの底に眠る「原始の力」を隠すため、無理やりこの地に『蓋』をしたとされる歴史上の人物。




