『ラーナの美しき巫女』その3
アルストラーナの北半分を統治していたグラッデェのカサルは、フィヨルドを根城にする海賊と、エルス川北岸に広がる「黒い森」の住民――すなわち森の民による執拗な襲撃や略奪に疲弊しきっていた。彼はついに、自ら防衛すべきエルス川南岸を切り捨てるという凄惨な決断を下す。自らの手で領地を焦土へと変え、街を焼き払い、領民を強制的に南へと連れ去る――無理やり北の脅威から距離を置くというその惨烈な暴挙を、昨年、ルシアはカサルごと惨劇の記憶として葬り去ったのだった。
現在、エルス川南岸の復興と、故郷を追われたラーナ人たちの帰還を推し進めるため、ルシアはジル・オテに五百名の聖騎士を託し、現地へと派遣している。
一方、南部においては、ルシアの要請に応じたディヌイヤ王国の国王ボロ・ディヌイヤが動いていた。すでに南部三都市の占領を終えたことで、南海を渡る海上交易ルートは見事なつながりを取り戻している。こちらの南部へも、同じく五百名の兵を率いるビー・スーを派遣したところであった。
聖騎士団の陣容には、リヴィエール家の者たちをはじめ、リヴィエール商会やリヴィエール銀行から派遣された人材も名を連ねている。大陸全域の経済と人々の心を支えるインフラやライフラインの再建は、確かな手応えとともに着々と前進していた。
──燭台の淡い灯りが、机上に広げられた大きな羊皮紙の地図を優しく照らし出している。
(今、真に求められているのは“異能の力”だ……)
ルシアは一人、思いを巡らせる。市民の目の前でより多くの奇跡を示し、彼らの心を芯から臣服させることができたなら、すべての施策はより円滑に推し進められるはずだった。
現在、ルシア以外で異能を宿しているのはココロギだった。だが、彼女は秘めたる力の強大さゆえに、それを完璧に制御しきれずにいる。
たとえば――彼女がふと強烈な便意に襲われたとしよう。するとあろうことか、所構わず見ず知らずの民家のトイレへと瞬間移動してしまうのだ。用を済ませてドアを開けた瞬間、住人もココロギも互いに等しく驚愕するという惨劇が繰り返される。
そうした本人の意図しない大失敗があまりに続いたため、彼女にはすっかり萎縮し、すぐに頭を下げる癖がついてしまっていた。無論、本来の彼女は心根の優しい、細やかな思いやりに満ちた少女なのだ。部屋の隅で休んでいるヴィオの傍らで、ルシアの視線に気づいたココロギが、キョトンと首を傾げた。 ルシアはそんな彼女へ、温かな笑みを返した。
先日も、アルストラーナ軍五十万という圧倒的な敵陣のど真ん中へ瞬間移動してしまい、そのまま馬車で強行突破を果たすという、まさに彼女らしい大失敗をやらかしたばかりだ。しかし結果として、それがオーレリアに勝利をもたらす決定的な引き金となったのだから、運命とは何とも興味深いものである。
身重の元侍女・エミーナは、今や幸せな奥様生活を満喫しているはずだった。 (遊びに行きたいけれど、今はそんな時間もない……仕方ないわね。大物を召喚するしかないわ)
ルシアは静かに立ち上がると、そっと目を閉じ、指先で印を結んだ。
一瞬の静寂の後、目の前に高貴で美しい貴婦人が姿を現した。あられもない就寝前の姿のまま呼び出されたセシリアは驚き、咄嗟に両肩を抱くようにして身を捩った。
「お母様! ルシア、お会いしたかったのです!」
喜びに顔をほころばせたルシアは、母セシリアへと一気に抱きついた。
セシリアは驚きが冷めるにつれ、半ば呆れ、半ば怒りを覚えながらも、愛娘を優しく抱きしめ返した。 「……ここは一体どこなの? それに、こんな夜更けに連絡もなく呼び出すなんて」
ルシアは寝着姿の母親の肩にそっとガウンを羽織らせながら説明した。 「ここは大陸の西端よ。アルストラーナの首都、ラーナ」
セシリアは思わず目を丸くした。かつて大陸全土を統一した伝説の都として、ラーナの名を知らぬ者はいない。もっとも、大陸東部の人々の間では、古来よりこの地に住む錦族の言葉の影響から、アルストラーナを「大秦国」と呼ぶ風習も色濃く残っているのだが。
そこへ、ココロギが丁寧にお辞儀をした。彼女は花の都ルミナリアにあるセシリアの実家で育った経緯があり、セシリアとは顔なじみだったのだ。 さらに、微かな気配に目を擦りながら起きてきたヴィオも、目の前の突然の来訪者がルシア宮の女主人その人だと気づくや、慌てて頭を下げた。
「今日はもう遅いですから、ゆっくり休むとしましょう。ベルトトに上手く手配してもらってから、改めてこちらへ来てもらいますわ」
ルシアは甘えるように母親の手を引き、一緒に休むべく、温もりあふれる寝所へと案内するのだった。




