『ラーナの美しき巫女』その2
カラン、と寂しげな音を残して倒れた金の杖を見下ろし、ルシアは感情を排した声で小さく告げた。
「聖堂内のすべての文書と宝物をそのまま残して退去しなさい。抵抗を試みる者には、それ相応の処置を執ります」
総主教カルヴァルの後ろで身を縮めていた司教や神父たちが、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い始めた。千年のあいだ絶対の神聖不可侵を誇った大教導司教座聖堂『マジェストゥウーズ』の聖域は、今やただの広大な石造りの建築物へと成り下がっていた。
背後に控えていたヴィオが静かに前に出ると、腰の筒から羊皮紙の巻物を取り出し、大理石の床に広げた。 「ルシア様、接収手順の第一段階、完了いたしました。これより街の行政機関および宝物庫の押収へ移行します」 「頼みます、ヴィオ民への略奪や暴行は一切許さない。もし騎士団員の中に違反者が出れば、即刻重罪に処すように」 「御意」
ヴィオは短く礼をすると、そのまま流れるような動作で聖堂の外へと向かっていった。
◇
数日後。帝都ラーナを覆っていた重苦しい緊張感は、徐々に新たな熱気へと移り変わりつつあった。
『聖ゲンドラス教国』の聖騎士団は、占領軍にありがちな不法占有や市民への弾圧を一切行わなかった。それどころか、旧支配者であったグラッデェ人の残党を速やかに捕縛し、彼らが貯め込んでいた苛酷な重税の還付と、食糧の無償配布を開始したのだ。
大教導司教座聖堂の前には、毎日何千人ものラーナ市民が押し寄せていた。五本の尖塔の頂点に掲げられていた天信教の聖旗は引き降ろされ、代わりに爽やかな純白に緑の『四つ葉のクローバー』を模した『真理の光教団』の巨大な旗が風になびいている。
その日、聖堂のバルコニーにルシアが姿を現すと、広場を埋め尽くした民衆から割れんばかりの歓声が巻き起こった。
ルシアは掲げた片手で歓声を静めると、その透き通るような声を広場全体へと響かせた。
「ラーナの民よ! 天信教の偽りの神話と、皇帝による支配の時代は本日をもって永遠に終わりを告げたました!これより、この地には『ラーナ共和評議会』が設立されます。この国の主人は、神の代理人を名乗る聖職者でも、血統を誇る皇帝でもない。あなた方一人ひとりなのです!」
地鳴りのような歓喜の叫びが帝都の空を揺らした。 長い歴史の中で、常に「授けられる側」「従う側」として歴史の影に追いやられていた市民たちが、自らの足で立つ瞬間を迎えたのだった。
バルコニーの影で見守っていたヴィオが、腰の剣に手を置いたまま、隣に立つヴォルフラムに話しかけた。
「……これで本当に良かったのでしょうか?ヴォルフラム様」 「何がだ?」 ヴォルフラムは腕を組み、冷ややかな眼差しで眼下の群衆を見つめている。
「神話を奪い、新たな信仰『真理の光』を授ける。……私たちがやったことは、天信教が千年前に行った『神話のすり替え』と、根本的には変わらないのではないですか?」
ヴィオの問いかけに、ヴォルフラムはわずかに口元を緩め、短く鼻で笑った。
「真実などというものは、常に勝利した者が書き換える幻に過ぎん。だが、ルシア様が与えたのは『支配のための欺瞞』ではなく『自立のための光』だ。それをどう使いこなすかは、あの愚かで愛おしい民ども次第さ」
「……相変わらず口が悪いですね」ヴィオは苦笑し、視線をバルコニーのルシアへと戻した。
◇
その夜。大教導司教座聖堂の奥深くに存在する、最深部の地下書庫。
かつて天信教が「不都合な歴史」をすべて封印し、焼き捨てたとされていたその暗闇の中に、ルシアは一人立ちすくんでいた。手にした燭台の灯りが、壁一面に刻まれた文字盤を怪しく浮かび上がらせている。
「これが……抹消された『本当のアルストラーナ』の記憶……」
ルシアの手が、古びた石版の表面をそっと撫でる。 そこに刻まれていたのは、天信教が提示していた欺瞞の歴史でもなければ、ラーナ人が信じていた平和な王権の物語でもなかった。
『王権とは神から与えられしものではなく、星の彼方より来たりし“異能の力”の器に過ぎず。力を失いし時、神話を作り替え、歴史を偽れ――』
ルシアの瞳が小さく揺れた。 自身の右手に宿る、聖堂の扉をも容易く開け放つ「異能」の真の起源。そして、なぜ自分が『真理の光』を掲げてここまで来なければならなかったのか――その本当の意味が、石版の刻印とともに繋がり始めていた。
「ルシア様」
背後から静かにヴォルフラムが足音を殺して現れた。
「上の処理はすべて終わりました。……やはり、ここに眠っていたのですね」 「……ええ、ヴォルフラム。私たちは歴史を正したと思っていた。けれど……」
ルシアはゆっくりと振り返り、冷たい地下の闇を見つめた。
「本当のやるべき事は、これから始まるのかもしれません。この大陸に隠された『始まりの嘘』は、天信教だけのものじゃなかったのだから」
新時代の光が差す古都ラーナの地下で、ルシアは真の歴史を巡る新たな輪舞曲が、静かに始まったような気がしていた。




