『響く砧と黄金の菊花酒』
十月を迎え、西の古都アンチルマには本格的な秋の深まりと、忍び寄る冬の足音が訪れていた。かつて戦火によって灰燼と化し、瓦礫の広野だった街は、総督アルヴェリア親王イリアードのもと、十三万の帝国軍、五千の親王軍、そして数万のアンチルマ領民による懸命な復興作業によって、確かな街の骨組みを取り戻しつつあった。
朝晩の冷え込みは日に日に厳しさを増し、草木には白く冷たい霜が降り始める。復興本部の高台からは、秋深まるアンチアルマの全景が見渡せた。広場や通りでは、瓦礫の撤去だけでなく、来るべき厳しい冬に向けた防寒の準備――「冬支度」が盛んに行われていた。
「トントン、トントン……」
秋の澄んだ夜空の下、アンチアルマのあちこちから心地よい木槌の音が木魂していた。布を台石の上に置き、槌で叩いて生地を柔らかくし、ツヤを出す伝統的な手作業――「砧」の音である。
先月、騎馬民族グラッデェの残していった羊たちから刈り取った大量の羊毛や毛皮は、完璧主義者の侍女長ベルナデットの完璧な工程管理のもとで加工され、いまや領民や兵士たちの防寒着や綿入れの衣類として順調に仕上がりつつあった。
「ふふ、良い音が響いていますわね。この砧の音が街中に満ちていることこそ、人々が冬を越す準備を整えている証拠ですわ」
親王妃リゼリアは、総督府の回廊から夜の街を見つめ、慈愛に満ちた表情で呟いた。隣に立つ夫のイリアード親王は、防寒用の厚手の外套を羽織りながら頷いた。
「ああ、リゼリア。十三万の兵と数万の民に防寒具を配備するめどが立ったのも、君やセシリア、そして侍女たちが羊毛の加工と配布を指揮してくれたおかげだ。これで凍死者を出すことなく冬を越せそうだよ」
「殿下、防寒具だけではございませんわ。本日は『重陽の節句』にございます。無病息災と延命長寿を祈り、人々の邪気を払うための宴を用意しております」
リゼリアが微笑むと、奥から大きな木箱を抱えた側室のセシリアと、侍女のエミーナ、ロゼッタが元気よく現れた。
◇
「殿下、姉様! 重陽の節句の準備が整いましたわ!」
セシリアが嬉しそうに掲げたのは、赤い小さな実を実らせた茱萸の枝と、それを織り込んだ小袋であった。茱萸はグミ科の植物であり、その強い香りと朱色の日は邪気や悪気を払い、災厄を退ける力があると古来より信じられている。
ロゼッタとエミーナは、イリアードとリゼリア、そしてお互いの腕や髪に、心を込めて茱萸の小袋を結びつけた。
「ロゼッタは念視と予知で、一番香りが強く、邪気を払う力の強い茱萸の群生地を見つけて摘んできました! これで殿下も姉様も、病魔に冒されることはありません!」
「エミーナは念動で、兵士や領民の皆さん数万人の分の茱萸袋を一気に縫い上げましたよ! 腕に付けておけば、寒さや病に負けずに復興作業ができます!」
二人の侍女の頼もしい言葉に、イリアードは「感謝するよ、二人とも」と温かく目を細めた。
さらにセシリアが持ってきたのは、美しい黄金色に澄んだ酒器であった。中には、可憐な黄色と白の菊の花びらが浮かべられている――「菊花酒」である。
「この菊の花は、アンチアルマの郊外で咲いていた秋菊を丁寧に摘み、お酒に浸したものですわ。菊は長寿の象徴。復興に励む兵士の皆様と領民の皆様の健やかな未来と長寿を願って、今夜は皆様にこの菊花酒を振る舞います!」
セシリアは自身の異能「念創」と「パイロキネシス」を極限まで繊細にコントロールし、菊花酒の風味を一番まろやかで香りの立つ温度へと温めていた。完璧主義者のベルナデットが、横から眼鏡の位置を直しながら分析結果を口にする。
「セシリア様の調合した菊花酒は、アルコール度数、薬効成分の抽出率ともに最高値です。全軍および全領民へ一斉配布するための輸送ルートおよび配給シフトの最適化はすでに完了しております」
◇
夜が更けるにつれ、アンチアルマの大広場には大きな篝火が幾つも焚かれた。冷え込む十月の澄んだ夜空には、満天の星々と、遠くの山々に降り始めた初霜の気配が満ちている。
広場に集まった十三万の帝国軍、五千の親王軍、そして数万の領民たちには、出来立ての温かい綿入れの防寒着が手渡され、手には赤い茱萸の袋が飾られた。そして一人ひとりの盃に、芳醇な香りを漂わせる菊花酒が注がれていく。
イリアード総督が高台に立ち、盃を高く掲げた。
「アンチアルマの全ての民、そして我が勇敢なる兵士たちよ! 厳しい夏を乗り越え、我らはこの街の再建をここまで推し進めることができた。今夜は重陽の節句である! 茱萸の赤で邪気を払い、菊花酒を酌み交わして長寿と健康を祈ろう。来るべき冬を、全員で温かく乗り越えるのだ!」
「おーっ!!」
割れんばかりの歓声が、晩秋の夜空へと響き渡った。兵士も領民も一斉に盃を干し、菊の爽やかな香りと酒の温かさに息を吐いた。
「美味しい……! 体の芯から温まるぞ!」
「綿入れの服も軽くて温かい。これで冬の作業も怖くないな!」と、笑顔が人々の間に広がっていく。
広場の一角では、セシリアとエミーナが「パイロキネシス」を用いて篝火の火力を密かに調整し、煙を出さずに柔らかな温もりだけが広場全体に行き渡るよう配慮していた。ロゼッタは「念話」で人々の心に安らぎの波を送り、疲労を癒やしていく。
リゼリアはイリアードと並んで菊花酒を口にし、夫の隣で優しく微笑んだ。
「殿下、ご覧ください。瓦礫ばかりだったこの街に、しっかりと冬を迎える準備と、暖かな人の輪ができております」
「ああ、リゼリア。瓦礫を片付けることだけが復興ではない。こうして季節の節句を祝い、共に冬への備えを整え、希望を分かち合うことこそが、真の復興なのだな」
◇
宴が静かに終わりに近づく頃、街の至る所で再びトントンと心地よい砧の音が響き始めた。それは明日着る暖かい衣類を整える音であり、生きている喜びを確かめ合う生活の音であった。
セシリアは高台から見下ろす街の灯りに目を細め、リゼリアの隣で語りかけた。
「姉様、十月の冷たい風も、みんなの熱気と笑顔があれば怖くありませんわね。冬が来ても、私が温かい料理と火で皆様を温めてみせます!」
「ふふ、頼りにしているわ、セシリア。でも無理は禁物よ。私達も一緒に、殿下とこの街を支えていきましょうね」
二人の妃は顔を見合わせ、温かく微笑み合った。イリアードはそんな妻たちと従者たちの姿を愛おしそうに見つめ、強く胸に誓うのだった。どんなに厳しい冬が訪れようとも、このアンチルマに灯った希望の火を消させはしない、と。
十月の澄んだ夜空に、茱萸の香りと菊花酒の残り香、そして力強い砧の音がどこまでも静かに溶け込んでいった。




