第79話 六之助の話——「風魔、最後の影」
元和七年(1621年)晩秋
夜、六之助の屋敷に一馬と新九郎が呼ばれた。
珍しいことだった。仕事の話なら書院で済む。屋敷に呼ばれるのは、いつも改まった話がある時だった。
囲炉裏を挟んで座ると、新九郎が先に切り出した。
「父上、風魔という名を耳にされたことはありますか」
六之助の手が、一瞬止まった。
「陸奥で古老に聞きました。北条に仕えていた忍びの一党だと。今も、どこかに残党がいるという噂もあると」
六之助はしばらく黙っていた。囲炉裏の炭が、小さく爆ぜた。
「……その名は、俺にとって少し重い」
一馬と新九郎は顔を見合わせた。父がこういう前置きをすることは、滅多になかった。
「話してやろう」
六之助は炭を一つ、火箸で直した。
「お前たちが生まれる前の話だ」
———
天正十八年、冬。
小田原の北条家が滅んで間もない頃だった。北条に仕えていた風魔一党の多くは、そのまま姿を消した。だが一部が、主を失ったまま関東の山に潜み、野盗や傭兵として糊口をしのぎ始めた。
殿——資晴様が整備を進めていた交易路や湊が、その残党に狙われ始めた。
「六之助、忍びは忍びが狩るのが早い。頼めるか」
殿からそう言われ、俺は一人で山に入った。
———
残党の潜む山中を探るうち、一人の若い忍びと出くわした。
まだ二十歳そこそこに見えた。手練れというほどではないが、体の使い方に無駄がなかった。仲間内では「疾風」と呼ばれていると、後で知った。
「お前が、六之助か」
「知っているのか」
「伴の名は、こちらでも聞こえている」
疾風は油断なく構えていたが、殺気は薄かった。斬り合うために出てきたわけではなさそうだった。
「お前たちは、なぜ山賊のようなことをしている」
「主を失った忍びに、他に何が残る」
疾風はそう言った。
「俺たちは、誰かの影であることでしか、生きられない。北条様がいなくなって、俺たちは影を失った。影のない忍びは、ただの盗人と変わらん」
———
その言葉が、俺の胸に妙に引っかかった。
伴の家に生まれ、忍びとして生きてきた俺にも、似たような感覚があった。誰かに仕え、誰かの影として動く。それが忍びの生き方だと、疑ったこともなかった。
だが、俺には殿がいた。仕える先があった。
疾風には、それがなかった。
「お前は、これからどうする」
「分からん。仲間と共に、どこかへ流れるだけだ」
「頭目は誰だ」
「……それは、言えん」
疾風は口を閉ざした。仲間への義理だけは、まだ残っているようだった。
———
俺は殿から、頭目格を捕らえよという密命を受けていた。街道を脅かす一味の芯を絶てば、残りは自然に散る——それが殿の読みだった。
数日かけて、頭目の居所を突き止めた。夜討ちをかけ、頭目とその側近数名を確保した。
疾風のような、迷いながら流れ着いただけの若い者たちには、手を出さなかった。
最後にもう一度、疾風と顔を合わせた。
「頭目は捕らえた。お前たちの仕事は、もう続かない」
疾風は覚悟を決めた顔をしていた。
「俺も、連れて行くのか」
「いや」
俺は首を振った。
「散れ。名を捨てて、どこかで生きろ。もう、誰の影にもならなくていい」
疾風はしばらく、俺を見ていた。それから、何も言わずに背を向け、山の奥へ消えていった。
———
六之助はそこで、言葉を止めた。
一馬が、しばらく待ってから聞いた。
「その疾風という人は、その後どうなったのですか」
「知らん」
六之助は静かに答えた。
「知らないままでいい。忍びは、消えた者を追わない。それが、こちらにできる唯一の情けだ」
「見逃したことを、殿には」
「伝えなかった。頭目を確保し、残党は散った、とだけ報告した。それで十分だった」
六之助はそこで、少し間を置いた。
「だが、話には続きがある」
一馬と新九郎が顔を上げた。
「頭目を捕らえてひと月ほど経った頃、屋敷に妙な男が訪ねてきた」
———
その男は、疾風と同じ一党の生き残りだった。ただし、疾風とは違う道を選んだ者だった。
「野盗働きは、もう嫌だ」
男はそう言って、俺の前で頭を下げた。
「忍びの技しか、俺にはない。だが、それを盗みや脅しに使うのは、もう嫌になった。何でもいい。仕事をくれないか」
俺は驚いた。頭目を潰した後、残党は散ったと聞いていた。だが、散った先の一人が、こうして自分から訪ねてくるとは思っていなかった。
「お前、名は」
「もう、風魔の名は捨てた。好きに呼んでくれ」
俺はしばらく、その男を試した。何日か寝食を共にさせ、動きを見た。腕は確かだった。それに、目に嘘がなかった。
その男だけではなかった。ひと月ふた月と経つうちに、似たような者が、ぽつりぽつりと訪ねてくるようになった。多くは断った。だが、素性が確かで、二度と盗みには戻らないと見極めた者だけ、伴の家の下働きとして受け入れた」
———
六之助は、そこで一馬と新九郎の顔を交互に見た。
「一馬、新九郎。お前たちも、その者の一人をよく知っている」
「……誰ですか」
「弥助だ」
二人が、同時に息を呑んだ。
「弥助が……」
「物心ついた頃から、屋敷にいた男だ。庭の手入れをし、お前たちが小さい頃には木刀の稽古の相手もしてくれた」
新九郎の声が、少しかすれた。
「弥助が、風魔だったのですか」
「ああ」
六之助は静かに頷いた。
「本人は、隠していたわけではない。ただ、誰も聞かなかっただけだ。俺も、お前たちには話さないでおこうと決めていた。忍びだった過去を背負わせず、ただの弥助として、この家で生きてほしかった」
「なぜ、今になって話すのですか」
一馬が聞いた。
「風魔の名を、お前たちが外で耳にするようになったからだ。いずれ、弥助の耳にも入るかもしれん。その前に、お前たちが自分の口から聞いておいた方がいいと思った」
六之助は火箸を握り直した。
「弥助を、これまでと変わらぬ目で見てやってくれ。それだけを頼みたい」
一馬は、しばらく黙っていた。それから、小さく頷いた。
「変わりません。弥助は、弥助です」
新九郎も、同じように頷いた。
「明日、稽古をつけてもらう約束をしていました。……いつも通りにします」
六之助は、少しだけ表情を緩めた。
「それでいい」
新九郎が、少し間を置いてから言った。
「陸奥の鍛冶職人の件と、同じですね」
「そうだな」
六之助は頷いた。
「資景様も、同じ判断をされた。誰も知らないところで、誰かが生き延びられるなら、それでいい。那須は、そうやって色々なものを見逃してきた」
———
囲炉裏の炭が、また小さく爆ぜた。
六之助は、しばらく黙って火を見ていた。
「俺も、鵜飼の家に入り、お前たちの父になった」
「はい」
「忍びであることをやめたわけではない。だが、守るものができた。お前たちが生まれてから、俺の影は、誰かに仕えるためだけのものではなくなった」
一馬と新九郎は、黙って父の話を聞いていた。
「疾風にも、そういう道があってくれればいいと、今でも思う」
六之助はそう言って、火箸を置いた。
「名も知らず、どこかで生きているといい。それだけで、十分だ」
———
夜が更けて、一馬と新九郎は屋敷を出た。
外は冷え込んでいた。二人並んで歩きながら、しばらく何も話さなかった。
新九郎が、ふと空を見上げた。
「父上にも、そういう時があったのですね」
「ああ」
一馬は短く答えた。
「俺たちも、いつかそういう話をするのだろうか」
「さあな」
二人の足音だけが、夜道に響いていた。




