迷いの気持ち
(私が行かないと、リューン様がお困りになる)
いつもは食事の片付け係なので、ムイは普段から食卓の様子を知る由もなかった。
しかもここ最近は洗濯係に回されていたので、リューンやライアンとの直接的な接触もなかった。けれど、ライアンの滞在が長引き、マリアに頼まれた時だけは夕食の仕込みも手伝っていたのだが、今回は偶然にも、このような良からぬ場面に遭遇してしまった。
リューンの荒げた声でただならぬ雰囲気を感じた調理人たちが、その手を止める。マリアなどは、困ったことになりはしないかと、はらはらとしながら、耳を傾けていた。
リューンとライアンの会話で、ムイは事の重大さを感じた。
(ライアン様と一緒に行かないと、リューン様が酷い目に遭ってしまう)
不安な表情を浮かべていると、マリアが肩を抱いて、慰めてくれる。
「大丈夫さ。リューン様とローウェン様に任せておけばいいんだよ」
慰められても、不安は大きくなるばかりだった。
(名前を渡さないと、リューン様が……)
握っていた布巾を見つめる。
(でも、この名前は……)
ムイは、小さい頃に交わした父親との約束を思い出していた。
まだ母親が生きていた頃、そして兄弟と両親とで家族みんなで幸せに暮らしていた頃。ムイがまだ言葉を持ち、ころころと可愛らしい声で笑っていた頃。
「さあ、こっちにおいで。これからお前の本当の名前を教えるから、よく覚えるんだよ」
父が、耳元で囁いたことを覚えている。
「それが、あたしの名前なの?」
「そうだよ。これは、お前のお母さんのお母さん、つまりはお前のおばあちゃんから受け継がれたものなんだ」
「え、おばあちゃんから?」
父の隣で、母がにこっと笑った。
「じゃあ、どうして今まで、その名で呼んでくれなかったの?」
「この名前は特別なんだよ。だから大切にしないといけないんだ」
「特別?」
頭を傾げた覚えもある。
「そう。この名前はね、特別な力を持っているんだ。だから、誰にも教えてはいけないよ」
「誰にも?」
「ああ、誰にもだ」
「どうして?」
父はムイの頭に手を乗せて、続けて言った。
「この名前を持つものはね、王様になれるからだよ」
「王さま? イヤだあ、お姫さまが良いっ」
父の、少し笑った顔。
「いいかい? 誰にも教えてはいけないよ」
「うん」
その後、直ぐにも母を失い、父と兄弟とも離れてしまったため、それがどういう意味のものなのかはわからなかったが、ムイはその父の言葉を忠実に守ってきた。
途中、言葉を失ったのは悲しかったが、これでもう名前を言わなくて良くなったと、ひっそりと喜んだりもした。
そして、こうも思っていた。
(王様なんかになりたくない)
人を従わせたり、命令によって言うことをきかせたり、そんなことはしたくなかった。
だからこそ、リューンに初めて会った時。躊躇なく命令し従わせていたのを見て、ムイは心底怖くなったのだ。王にしかできないことを、この人は平気でやっている、と。
(けれど、それは間違いで……)
ムイは、肩を抱きながら心配そうに覗き込んでくるマリアに笑いかけると、止めていた手を動かして、皿を洗っていった。
(温かくて優しい人で。そんな人が王様なんかになりたいと思っているはずがない)
だからこそ、ライアンが怖かった。愛人にされることではない、彼らが王になりたがっていることが、だ。
(名前を欲しがっているということは、王様になって人々を従わせたいに違いない)
皿を洗うムイの手に力が入った。
(名前を知られちゃいけない、絶対に知られてはいけない)
名前を守る、そう心を新たにすると、ムイは水道を捻って、皿の洗剤を洗い流した。