懐柔
「ねえ、ムイ。僕と一緒に来るよね?」
ライアンの言葉に一種の強制力を感じると、ムイはさらに恐れ慄いてしまった。もし自分が喋れる人間だったとしても、今、声を出すことなど到底できはしない。
「もちろん、お前の待遇は優遇するよ。お前のために、綺麗で広い部屋を用意しよう」
掴まれている手首を、ぐっと握られる。
居心地がよく、大好きだったガゼボが、嫌なものに一瞬で変わってしまうほどだった。真っ白なガゼボの純潔が、どす黒く染まっていってしまうような、それほどの不快感だった。
「いいんだよ、喋れないのは知っている。うんと頷くだけでいい。やってごらん」
ムイがライアンをちら、と見る。その顔。仮面を被ったような、笑いを貼り付けたような顔。
(この人、怖い)
ムイが逃げないようにと、ライアンはさっきから、ムイの手首を掴んでいる。
(腕が痛い……)
「さっき見せただろ? リューン殿の母上の伯父が、一緒にお前を連れていくるように言っているんだ。あのシーア=ブリュンヒルドがだぞ。いくらお前のような下っ端の者でも、名前くらいは聞いたことがあるだろう」
ムイは、頑なに顔を動かさなかったが、もちろん答えはイエスだ。ここから西方へといった広い土地に、その城はある。
ワグナ国では、一、二を争う領地を所有していて、その領地には広大な麦畑が含まれている。領民が潤えば当然、領主も潤う。莫大な資産を抱え、王室にも懇意だという。
(とても聡明な領主様だと聞いたことがある。それなのに、どうして……)
隣に座るライアンが、顔を寄せる。耳元で、囁くように言った。
「お前が僕と一緒にこれば、ここよりはるかに良い生活をさせてやろう。仕事なんてしなくていい、ただお前は僕に名前を教えてくれるだけでいい」
名前、という言葉に反応して、どんっと心音が上がった。その拍子に、ムイは立ち上がり、ライアンに握られていた手を振り払った。
(やっぱりこの人たち、私の名前にしか興味がないんだ)
赤くなった手首を、もう一方の手で握ると、ムイは後ろへと足を進めた。
「ムイ、僕と一緒に来なければ、リューン殿が困ることになるぞ」
一転した。
脅迫めいた声色を浴びせられ、そろそろと後ずさっていた足を止めた。ライアンは中腰になって、ムイに向かって手を伸ばした。
「お祖父様の怒りを買えば、今のリューン殿の地位も危うくなるだろう」
その言葉を聞いて、ムイは身を固くした。それを見て、ライアンが続けざまに声を上げた。
「ああ、そうだった。それに、お祖父様の手紙にはリューン殿にと、縁談の話も書いてあったな。トレビアヌ領主の次女サリー=トレビアヌ嬢だ。まあ、ここに比べれば、小さな領地だが血筋は確かだ」
ムイは振り返って、城に向かって歩き出した。
(……縁談、)
実際にはライアンが追い掛けてくるわけではないが、追い掛けられているような感覚に陥り、ムイは自然と小走りで駆けた。
胸の中がもやもやと気持ちが悪い。吐き気さえ覚えながら、ムイは城へと走った。
ライアンに最後に投げつけられた言葉が、頭の中でぐるぐると回る。
「何と言っても、とても美しいお嬢さんだ。ムイ、お前が今までに見たことのないような、本物のお姫様だ」
ムイは懸命に走った。走って走って、ようやく自室に戻る。もうすぐ、この日の五度目の洗濯の時間となろうが、ムイはベッドにうつ伏せに寝転がると、枕に顔をうずめた。