16 黒の森、仮想の楽団、館
ロアンが不老院と思惟党のつながりを知ったのは、まだ肌寒い春の朝のことだった。
青々としたトウヒの森は、その根本を露に覆われて、まるで雲の中に浮かんでいるようだった。丘の上から見下ろしていると、時折、風の予告もなくそれらの木々の一部から、昨晩降りしきった雨の名残りが土に落ちる音が聞こえてくる。トウヒのすぼんだ帽子の先が、茂みの中で目覚めた動物の活動を知らせるように、かすかに揺れる。
ゆるやかな斜面に沿って植えられた木立と、その向こうで朝日を受けて輪郭を橙色に輝かせた高台のあいだに、湖の姿が見えた。それは夜闇をいまだ映しつづけている円鏡のように、水素の薄いヴェールを被りながら、風景の中でくっきりとした黒を浮かべている。ロアンは、木立の合間から這い出てきた霧が、徐々に台地の麓からその上に這いのぼろうとしているのを見やりながら、長靴で、霜をふくんで毛羽だつ土を踏み鳴らし、丘から森の中へ続く小道に入っていった。
一晩雨に濡れた森は、木々と葉花に、動物と昆虫の糞が混じり合ったような、甘やかな匂いを発散していた。蜜菓子のようなその粘り気が鼻腔や肺にこびれつくのを、冷えた空気が抑えこむ。森の中は、その名をロアンが自身の母語で呼んだ時に感じる陰鬱さを打ち消すほど、鮮やかな色彩に満ち満ちている。朝靄の中、足元で湿った落ち葉が割れるしなやかな音を聴きつつ、ピンクや紫の光に葉々を縁取られた木立の合間を進んでいく。道の勾配がほとんどなくなったところで、右手の木の枝に、麻縄で、木彫りのカッコー時計が吊るされているのが見えた。文字盤の針は6時で止まっている。あらためて辺りを見渡すと、霧を透かして木立の合間から差し込む黄身がかった朝陽が、奇妙に黄昏めいて見える。鳥や虫の音が何かに打ちつけられたように、一瞬、息を潜める。道の先へ振り向くと、霧の向こうから徐々に人影が浮かび上がってくる。それは小さな楽団だ。彼らはまるで細やかに描きこまれた風景画の中、画家のミスか子供の他愛ない悪戯によって落とされた原色の絵の具のように、それぞれ、けばけばしい色合いのローブを羽織り、顔には白黒灰色の仮面を被っていた。手に持ったマリンバやタンバリンが、破りとられた楽譜の一部を延々と繰り返している。
すれ違いざま、ロアンは彼らの爪先から帽子の房にまで眼をやった。彼らは人間ではなかった。ローブの破れ目、仮面の縁から、赤茶色の錆の浮かぶ関節が覗けている。自動人形。カーニバルが終わったことを知らないのか、あるいは持ち主がオーダーを取り下げるのを忘れたせいか、もうかなり長いこと、森の中を徘徊しつづけているように見えた。ロアンはすれ違いざま、楽団の最後尾の一体の仮面を掴んでみた。エメラルドのローブを着込んだその手ぶらの楽師は、必死に顔を前に向けようと、キシカシ、首の関節を鳴らしながら、架空のフルートの穴を埋めるように、顎の下で両手の指を動かし続ける。ロアンが手を放すと、フルート奏者はすぐさま顔を前に戻して、数メートル先を行く仲間についていく。そのまま、隊列に歪な空隙を残したまま、霧の向こうに楽団は消えていく。
<館>は、低い草に覆われた森の中の小さな広場に建っていた。ドアを潜って、そのゴシック様式を模した黒い建物の中に入っていく。居間にはロアンが<ガレー船>と呼んでいる、古ぼけた羊革の長椅子を取り囲うように、大小のテーブルが設置されていた。正面奥のキッチン側から注ぐ仄白い光に、部屋の中の物質は皆その表面をぬめり気のある銀色に輝かせている。壁にかけられた絵画は、たしかな映像を記憶の中から引き上げられないほど、その色彩を影の中に埋没させている。カコ、と小さな槌を叩くような音が鳴る。ロアンがダイニングテーブルの上に眼をやると、ひとりの少年が、その黒い巻き髪を垂らしながら、チェス盤を覗き込んでいた。キッチンの方で物音がすると、ロアンはそちらに近づきながら、テーブルの側を通り過ぎる際、少年の影に「おはよう、ヴィンセント」と声をかけた。カコ、と次の手を打って、少年の姿が消える。キッチンに備え付けたコーヒーメーカーは、彼の帰宅に合わせてコーヒーを淹れてくれていた。ロアンは湯気の立つマグカップを片手に、人の影も幽霊の影もない無人のダイニングテーブルの一角に腰を下ろす。しばしのあいだ、部屋の中の何を見るでもなく黙ってブラックコーヒーをすすっていると、コラクラコラ、と音を立てて、部屋の隅のシネマトグラフが回り始める。彼の隣の席に、銀色のピクシーカットの女性の姿が映し出される。彼女はミントグリーンの下着の上にデニムのオーバーオールという格好で、自分が映像として出力されていることに気づく様子もなく、一心不乱に、机の上に広げた紙の上に何かを描き込んでいる。後背から4本の腕を突き出した人型の絵。描き手の女は耳から垂らした金色の長方形を静かに揺らし、丸眼鏡の奥からロアンの眼を覗き込んで、部屋の声帯を振るわせる。
「おはようロアン」
「おはようアレックス」
「いま、新しい白兵戦用の躯体の仕上げにかかってるの」とアレックスはいう。「前作の反省から、そんなに幻知覚をこすり合わせさせなくても十分に駆動させられるようなやつ」
「それはありがたいね」とロアンはいって、彼女のデザイン画に目を落とし、「……これを使わなくて済むのが一番いいんだけど」
「もしもの時のため——期待しといてね」
ロアンが歯切れのいい反応を返さず、顔をあげると、アレックスの向かいに、いつのまにか新たな人影がある。夜の底で揺れる焚き火の炎のような赤髪をした男が、口を動かす、
「おはようロアン」
「おはようガス」
黒い薄手のパーカーを着たガスは、冷たく輝く鉄製のボトルを顔の前でくいと傾けて、
「今度いつ俺とワークアウトに励むつもりだ?」
「……ああ」
「最後のワークアウトからもう26日が経過している」と言う。「ロアン、警告するぞ。お前の身体は鈍り切っている」
「だろうな」
「自覚はあるでしょうね」とアレックスが口を挟む。「森に帰ってきてからというもの、ろくに私のデザインの評価もしないで、ジプシーに売りつけられたドラッグを一日中ふかしてばかりだもん」
「あの煙草葉……<天使の足跡>は、毎年決まった量取れるわけじゃないんだ。葉が高原の氷雪に一定期間封じられる必要があるから……。気候変動のせいで、もうすっかり希少品になってしまった……ブツが街の市場に降りて高騰する前に、まとめて買い切る必要がある」
「だからなんだ」とガスはいう。「それが運動をサボっていい理由にはならないぞ」
「わかってるよ」とロアンは言う。「ちゃんと……そう……スケジュールを確認しておく」
ベルの音が空間に響く。ロアンはうんざりしながら、右手の壁の、冷却装置の上でキンキンに冷えた量子黒電話をにらむ。
「こんなに朝早く誰?」
「協会員」
ロアンはその声に隣を振り向く。すでにアレックスの姿は消えていて、代わりに、黒髪を長く垂らした、灰色のスウェット姿のアゾニアが映し出されている。彼女が紅を塗っていない、薄い珊瑚色の唇を動かして、
「でも、安心して。相手は私たちの親愛なるモーラだから」
「モーラが? いったい何の用で?」
ロアンは重たげに椅子から腰をあげ、黒電話に近づいていく。
「この前のお礼が言いたいみたいよ」とアゾニアがその背中に投げかける。「ほら、あなたに依頼していた、ある口座の通信履歴の追跡」
「ああ、あの仕事か」と言ってロアンはダンベルのオモチャのような、黒い受話器を持ち上げる。
「アゾニア。ワンタイムダイヤルを」
「はいはい」と彼のCogentは答える。「6372823√78198198√2……」
彼女の声に合わせて、カリカリと音を立てて回る白い骨輪のようなダイヤルを眺めながら、ロアンは眉間にこびれついた眠気をつまむ。
「……81√27819。ロアン」
「何?」
「モーラはちょっと……腰を据えて話したいんだって」
「ああ、そう、わかった」
ロアンがそう答えると、テーブルに座るアゾニアの向かいに、青地に薄い黄色と緑のチェックの入った、トム・フォードのスーツを着た女の姿が映し出される。アゾニアは彼女に微笑みかけると、椅子から立ち上がり、背もたれを掴むように映えて、こちらを振り向く。実際に椅子が少し後ろに下がる。ロアンは、何事もなかったかのように隆起を落ち着かせる絨毯を睨みながら、テーブルに戻り、女の向かいに腰かける。
「おはようロアン」
「おはようモーラ」
「こんなに朝早くごめんね」
「本当だ」とロアンは言う。「起きてたから良かったけど」
「なら良かった。何か予感があったのかも」
「どういう意味?」
「あなたの勘が働いたんじゃないかって」
「勘って……あの、取引履歴の追跡を依頼された口座に?」とロアンは言う。「履歴のあるこの1年半ほどの間、送金側は何層にも送り先を特定されないよう煙幕をかけていたみたいだが……受け手の口座は、送り主の工作努力が可哀想になるようなガバガバの暗号資産口座。特定には少し時間がかかったが、拘束されているヴィルマーナのコンピューターでも見つけられたようなものだ。受け取ってた金額は正直少し羨ましいものだったけど、そんなに面白い相手には思えなかった」
「確かに、あなたが面白みを感じる相手じゃないわね」とモーラはいう。「金の受け取り主は思惟党。あなたが提供してくれた情報が決め手になって、はっきりわかったんだけど」
「思惟党?」
「聞いたことない?」
「ああ」
「広くヨーロッパを中心に活動している、新興の平等主義結社よ」とモーラは言う。「主な活動は、下級党員や支持層として抱え込んでいる低所得者や仮想労働者の支援を名目に、彼らを模擬境界に送り込み、複数の仲介組織を経て、シュミレーション結果を政府や自治体、企業に売りつけること。それによって物理現実で居場所や意義を失っている彼らに、社会への貢献意識や人間としての尊厳を取り戻させること」
「素敵だ」とロアンは言う。「きな臭い慈善団体の鏡の様……中枢部の連中はどんな奴らなんだ」
「あなたとそんなに年齢の変わらない、若者層が多いわ」
「なるほど。でも連中は、オートメーションの波に呑まれ、新興労働市場で居場所を見出せない人間の世話をしてるわけだろ? あんまり話が合いそうにない」
「なぜ?」
「同世代とはいえ、典型的な自然知性派の臭いがするからだ」とロアンはいう。「どうせ『Cogentに依存している若者は、半民主義の台頭を許す民主主義の敵だ』とのたまっているような、保守主義の家庭出身者の集まりだろう」
「ところが、中枢部の若者たちは、擬心症なんて可哀想なパパとママのための慰めの言葉だとでも言わんばかりの、Cogentのヘビーユーザーばかりよ」
「へえ」とロアンは静かに感嘆する。「興味深い矛盾だ。Cogentを使いこなす党員たちが、Cogentによって実社会から駆逐されたであろう下級党員や支持者たちの世話をしているのか」
「その通り。おそらく、思惟党の中枢部にいる党員は、組織の持続的発展には、そこにいる人たちが口に出して指摘しづらいような矛盾を抱えていること、そして、下層部の組織員や支持者さえもその矛盾の共犯者に仕立て上げることが必要だって、わかってるのね。
Cogentの扱いが上手い部下をひとり、短期的に潜り込ませてみたんだけど、彼女の報告を聞く限り——連中はうまくやってる。
いわゆる入党審査や新人研修はすべて模擬境界上で行われ、そこに出席するものは生身の自然人格かCogentによる代理人格かを問わない。そこで党が要求するチューリング・テスト・スペクトラムを上回るコミュニケーションを発揮できた新人は、中級党員とみなされ、そうでないものは下級党員として種々の雑務や派遣・広報活動に回される。
一度中級党員以上に任命されてしまえば、とくに重要度が高くない定期会合では、Cogentによる代理人格出席を許可され、さらに一定以上のCRR保持者に対しては、本人と代理人の思想的一貫性が有り、かつ、党内でのあらゆる人格における言動に共同で責任を取るのであれば、参加者が人間であるか機能知であるかを逐一精査することさえしていない。
有能な半民主義者の若者を取り込むためなのか、あるいは電子的な風通しをよくするためなのか……少なくとも、あなたが自身のCogentを新しい環境でのトレーニングがてら潜伏させるのに、闇市場で身体情報を買って<人間の証明(Proof of Humanity)>を徹底させる必要はない」
「潜伏、何の話だ?」と、ロアンは微笑もうとして、思わず頬を引きつらせる。「僕は半民主義者の先鋒となって人権人知再解釈運動を推し進めるつもりも、保守政党と結びついた自然知性派団体のスパイになるつもりもないぞ」
「もちろん、そんなことにあなたのモチベーションがないことは知ってる」とモーラは言う。「スパイごっこをするには、もっと個人的な動機が必要でしょ。口座よ」
「口座?……」ロアンはモーラの微笑みの向こうに透けたキッチンを眺めながら、思い出したように呟く。「なるほど……思惟党への送金手の方か」
「そう。あの口座は前々から私たち協会の内部監査室が目をつけていたものだった。あの口座は私たちの間で、こう呼ばれている。
不老院、91番」




