第66話 アップルパイ
京さんが復帰したのは、およそ5分後。
それからしばらく、全員が勉強に集中していた。
わからないところが出たら、すぐに森川先輩がサポートに入ってくれる。
その教え方は、私が理解していない部分をよく理解しており、きちんと自ら考え、自分で答えを引き出せるように誘導するようなやり方だった。
言葉は少しぶっきらぼうだけれど、その奥にある優しさは、やはり森川先輩らしい感じがする。
その森川先輩も、赤本を開いて自分の勉強も進めていた。
赤本というのは、大学入試の過去問のこと。
さすがは受験生というか、森川先輩が3年生であることを再認識させられてしまう。
その先輩が、ふと時計を見ると、おもむろに立ち上がる。
「そのまま続けててくれ」
ドアを開けて、部屋から出る。
そのドアが開いた一瞬、柑橘系の甘い香りが、外から僅かに入ってきた。
思わず筆を止め、その香りだけの甘みを感受する。
「なんか、いい匂いでーすね」
いち早く、素直に反応したのは千里だった。
それに私も追従する。
「この感じ……もしかしたらアップルパイかも?」
「ほう、さすがいっちゃんだね……この匂いの正体を、早くも感づくなんて」
帽子なんて被っていないのに、被り直すような仕草をし、パイプを持っているような真似をする京さん。
「ふふん……何を隠そう。甘いものが大好きで、多種多様なお店で甘味を巡る甘いものハンター! それだけに留まらず、その肥えた舌を満足させるため、自らの手で作ってしまうというパティシエの一面を持つ…………それが、森川先輩だっ!」
「京ちゃん。それ、内緒にしてって言われてたよね……?」
何故かクラーク博士の銅像のような格好で決めポーズ。
どうして決めポーズをしているかもよくわからない上に、愛さんの突っ込みが入って更に台無しとなった。
「あ、でも、自分で作ることは知らなかったですけど、甘いものが好きっていうのは知ってましたよ」
「私もでーす」
「そう、2人は知っていたな」
突然現れた森川先輩に、全員の肩が大きく痙攣した。
恐る恐る振り返ると、そこには焼きたてのパイを持った森川先輩が立っていた。
「だからと言って、それで良いというわけじゃない。こと、勉学にしても仕事にしても、結果が全てだと言われるが、こういう場合は過程が重んじられて然るべきではないかな、京?」
怒っている気配が無く、むしろそこに恐怖すら感じてしまう。
「い、いやぁ……つい流れで。っていうか、早いっすね!」
「下拵えは既に済んでいて、あとは焼くだけ。タイマーも掛けてあったからな。勉強しながら出来あがるのを待つだけだったというわけだ」
何とか話を反らそうとする京さん。
頭にはめいっぱいの冷や汗をかいている。
「さて……残念だが、約束を違えた罰だ。愛と京の分は無しだな」
「そ、そんなぁ!」
「……えっ?!」
京さんが抗議の声をあげ、愛さんは理解出来ていない表情で、自然に声が漏れている。
「あ、あの……何で私が?」
「お前がここに来た理由を忘れるな。愛、お前がここにいるのは何故だと言った?」
「京ちゃんの監視役ですか……?」
「そう、京のお目付役だ。であれば、それをきちんと管理出来なかったお前は、京と連帯責任を取るしかない。管理職はつらいな」
「そ、そんなぁ……」
本当にがっかりした声を出す愛さん。
その気持ちは痛いほどわかる。
こんなにいい匂い、美味しそうなパイを目の前にして食べられないなんて、生殺し以外の何者でもない。
「ふ、ふふん……で、でも、どうせボクらは狩野の家から仕入れた食材じゃないと食べちゃいけないんだし。ど、どうせ、食べられないんだもんね」
それでも何とか強がって見せる京さん。
森川先輩は、ここぞとばかりに不敵な笑みを浮かべる。
「悪いが京。これは、お前たちも一緒に食べることを想定して、狩野の家に直接話をして仕入れた食材だ。まぁ、ある意味当然の配慮だが、お前たちも食べられるようにしてあるぞ?」
「なん……だと……」
京さんの心が折れる音が聞こえた気がした。
がっくりと膝を折り、まるで祈るような姿勢で崩れ落ちている。
「さて、食材も最高の物を仕入れ、私が心を込めて丹念に作ったアップルパイだ。せっかく5等分したが、残すのはもったいない。一子、それに千里。お前たちが2切れ食べるといいぞ」
いつの間にやら小分けしてくれていたアップルパイ。
その匂いだけでも、それが美味しいものだと本能が叫んでいる。
否が応でもお腹が鳴り、唾液が舌の下に溜まり、目は僅かに見開き、顔を上気させ、目の前にあるパイを欲していた。
「で、では、いただきます」
丁寧に添えられていたフォークで先端を切り、口に運ぶ。
その瞬間。
弾けるリンゴの甘酸っぱさ。
じっくりと火を通したことで、リンゴの甘さがより引き立てられている。
生地は、ふんわりと仕立てられつつも、しっかりと歯ごたえを残していた。
バターがたっぷり練り込まれているであろうその生地は、噛む度に甘さが広がり、甘ったるくなりそうになるも、リンゴのほのかな酸っぱさがそれを留め、どこまでも甘さを堪能出来るようになっている。
「これは、感想は聞くまでもないかな」
「はひ……」
森川先輩が珍しくニヤニヤしながら言う。
私も私で、そんな先輩に気づくことが出来ず、ひたすらアップルパイを堪能している。
「すっごーいです、森川先輩! こんなにおいしいアップルパイは初めてでーす!」
「そうか、そう言ってもらえて嬉しいよ、千里。苦節10年、甘いものを研究してきたが、実を結んだようだ」
何というか、森川先輩は凝り性な気がする。
実際、このアップルパイは趣味の領域とは思えない。
何かのコンペとかに出してもいいんじゃないだろうか。
素人の私が言うのもおかしいかもしれないけれど、そのくらいの衝撃があった。
「気に入ったなら、もっと食べるといい。お前たちは2人分あるんだからな」
そう言って、横目で狩野姉妹を見る。
私も追従して視線を追うと、そこには稀に見る光景があった。
京さんが、崩れ落ちながらも顔を上げ、涙目で人差し指を口にくわえて物欲しそうにしている。
まぁ、京さんはともかくとして。
なんと、愛さんまでもが、京さんと同じ顔をしてこちらを見つめていた。
こうして見ると、本当に双子なんだと再認識してしまう。
そして、愛さんのその表情は、物凄く可愛かった。
その様子を見た森川先輩が、小さく笑う。
「……冗談だ。ほら、みんなで食べよう」
森川先輩の言葉に、狩野姉妹がぱぁっと明るくなった




