最終話 秋の終わり
「松永さん、これ落としたよ」
同期で入った男性社員がそう言って私を呼び止めた。私はその声に反応するように振り替える。
「これは何?」
そう聞かれて、私は答えに困った。いつも手帳に挟んで持ち歩いていたドレスの切れ端が、その男性の手に握られていたからだ。
私は思わず苦笑した。
「大切なお守りなんです」
私はそう言いながら男性の手からその手帳とドレスの切れ端を受け取る。
「今日は終わり? 俺も終わりなんだけど、どう? 夕食でも」
同期で入った事もあると思うけれど、ちょこちょこそうやってお昼や夕食に誘ってくれる。でも私はその都度断っていた。
この人だって性格はいいし、見た目だって悪くない。だけど、やっぱり私の心の中にはあの人の存在が根強く大きな存在として残っていた。
「ごめんなさい、ちょっと行く所があって……」
私は言葉を濁しながら、その場を急いで立ち去りビルの外に出る。終りかけの秋の空気が冬の匂いを漂わせ、冷たい風が吹いていた。
玲が消えてからそろそろ1年になろうとしている。私はその間に高校を卒業して、就職した。今は一人暮らしをしている。
私の周りも色々と代わり、私自身も髪の毛が伸び、化粧も上手になった。胸がないのは相変わらずだったけど……
ただ一つだけ絶対に変わってないものがある……それは玲への思い。
私は近くの花屋で花束を買うと、タクシーをひろって乗り込んだ。
今日は10月29日、玲の妹さんの命日だった。玲がいない今、私が玲の代わりに妹さんに花を供えようと思っていた。
それに……玲の事を心置きなく話せる相手が私にはいない。だから妹さんの墓前で玲の話をしてこようと思っていた。
私の周りにいる人達はみんないい人すぎて、そんな話をすれば私を心配するでしょう?
私だって少しは大人になって、周りの事を考えられるようになったのよ。そんな事を思いながら私は一人で笑っていた。
タクシーは小高い丘を登って、見晴らしのいい所で止まる。
私はタクシーから降りて、玲の妹さんの墓を探す。
澄川晴美……澄川……澄川……
あれ……風に乗って仄かに線香の匂いが漂ってくる。ふと見ると今火をつけたばかりの線香と真新しい花束が供えてあった。
墓石に刻まれた名前……澄川晴美……
私は一瞬、心臓が大きな音を鳴らすのを感じた。それを発端に心臓が早いリズムを刻み、期待と恐怖の中を彷徨いながら、あの人の姿を求めながら墓地の中を小走りに走った。
玲?……玲なの!?……もしかしたら……でももしかしたら違うかもしれない。
そんな揺れる気持ちの中であの人の影を必死で探す。日が落ちた薄暗い空間に見つけた後姿。
後姿の向こうには街の灯が点々と見えていた。
それは……まぎれもなく、私がいつも傍にいて欲しいと望んでいた存在だった。
名前を呼ぼうとしたけれど、言葉にならなくて、ゆっくりとその後姿に近付いて行く。草を踏みつける音に反応するように、その後姿は私の方を振り向いた。
私は体が硬直して動けなかった。一歩も足を進める事ができなかった。
幻じゃないよね……違うよね……本物だよね。
玲は私に気付いて、冷やかな表情が溶けるように柔らかく笑う。そして私の方にゆっくりと近付いてくる。左足を引きずりながらゆっくりと。玲を包むあの冷やかな雰囲気は少しもかわらない。
玲は私の目の前に立ち、ゆっくりと手を伸ばしてきて私の頬に触る。温かい体温を感じる。
夢じゃないよね。
「いきなり……あら……われる……の……ね」
私の瞳からはとめどなく涙が流れ、気持ちが膨れ上がって言葉にうまくできない。
玲は何も言わず、そんな私をただ見つめている。瞳はゆっくりと揺れ湧き上がる泉のように潤んでいた。
玲の手が私を抱きしめる。言葉なんていらなかった。玲の鼓動が早いリズムを刻み、私に玲の思いを運んでくる。
会いたくて……触れたくて……今まで閉じ込めていた思いが一気に溢れて止まらない。
玲が一瞬、私から離れて、涙でグチャグチャになった顔を見つめる。悲しく切ない瞳で私を見つめていた。
「心変わりしたか?」
玲のひんやりとした優しい声が私の耳をくすぐる。
今までいったいどこに行っていたの?
貴方を忘れようと必死になって、でも……でも……こんなに悔しいくらいに貴方を思っている自分がいて……貴方を眼の前にしてつくづくそれを思い知る。
「残念ね……まだ私は……貴方が好きよ」
涙と一緒になった言葉が冷たい空気を揺らしながら響く。
「待たせて悪かったな……お前のために地獄の淵から戻ってきたんだ感謝しろ」
玲は悲しい瞳をしながら皮肉っぽい笑みを浮かべる。
私はその横柄な態度に少しだけ腹が立って、玲の体にぶつかるように抱きついた。するととたんに玲はバランスを崩して後ろに転ぶ。私もそのまま玲の体の上に転んだ。
その時私の足に何か硬いものが当たったような気がして、自分の足元を見るとそこには玲の足がある。でもその感触は人間の足とは違うものだった。
私は咄嗟に玲がはいていたジーンズの裾を捲くる。するとそこには銀色に輝く義足が存在していた。
「だから言ったろう? 地獄の淵から戻ってきたって」
玲は少し困ったような表情を浮かべながら笑っていた。
よくよく見ると、玲の首筋から火傷の痕らしきものが覗いていた。私は玲の着ているセーターの襟を掴み少しだけ下にさげる。
火傷の痕はセーターの中まで繋がっていて、凄まじい痛みが伝わってくるようだった。
手が震えた……そんな私の手に玲がやさしく手を重ねる。
あの爆発の中で何があったのか私にはわからないけれど、命を落としかねない凄まじい現実がそこにはあったに違いない。胸が締め付けられるように苦しい。
良かった……本当に生きていて良かった。
仰向けになってる玲の頬に白い小さなものが落ちてくる。
雪……だ……。
私がそんな事を思っていると、玲が私の腕を引っ張り自分の方に引き寄せると私を抱きしめ、くるりと横に転がって、私の体を下にしする。
雪が私の頬に落ちて冷たかった。玲の顔が私の顔に近付いてきて、頬に落ちた雪をペロッと舐める。あの時の虹色の光を放つ月を思い出した。
玲の静かな湖のような瞳が揺れ、緩やかに私の唇に玲の唇が重ねられる。
それは激しいけれど優しい思いが流れ込んでくるような口付けだった。長い長い口づけを交わす。玲の思いと私の思いがぶつかり合って共鳴するようだった。
玲の冷たさの中に隠された激しい愛を感じる。
私の心の中に開いていた穴が、まるで魔法にかかったように小さくなって行き、玲に対する愛で心が満たされていくのを感じる。
玲……愛している……心が熱くなって涙が溢れるように流れる。
玲がそっと私から離れ、穏やかな海のような瞳で見つめて私の涙をそっと拭った。
「俺はいつもお前の傍にいる」
玲の言葉が優しく空気を震わせて私に届く。
風の音でもなく、自分が自分に思い込ませる気持ちでもなく、玲の声で言葉として私の心に届く。
その何でもない普通の事に感動していた。
私達は立ち上がると、玲の妹さんのお墓の前に私はしゃがみ込んで、玲は立ったままで手を合わせる。
人間はいつどうなるかわからない。昨日まで元気だった人でも今日はわからない。
だから後悔しないように、大事なものを見失わないように、生きて行きたい。
愛する人を大事にして、愛してくれる人に感謝して、一生懸命に生きて行きたい。
だって……死んでから幽霊になりたくないもんね……
そんな事を思いながら一人で笑っていたら、玲が私の方を見て呆れたように笑みを零す。
「お前は本当にいい笑顔をするな」
「でしょう? 会社でもけっこうもてるのよ」
「ふ〜ん」
玲はほんの少しだけ不機嫌そうに私から目線を逸らして背中を向けた。なんだかその仕草がとても可愛かった。
玲がそんな人間っぽい仕草を見せるなんて、とっても嬉しくて、ついついからかいたい衝動にかられる。
「……結婚しよう」
玲は後ろ向きのままそう言った。私は一瞬耳を疑う。一瞬息をするのを忘れるくらいに驚いた。
だって……玲には戸籍が……無いはずじゃ……
「戸籍は手に入れた……だから、お前から松永恭次郎との繋がりを消してやる」
玲の言葉が私の心の壁をじんわりと伝うように広がっていく。もう……なんだろう……わかんない。
嬉しいのか悲しいのかわからない……胸が苦しくて、心臓が痛むくらいに鼓動が早いリズムを刻んでいた。
私は玲の背中にもたれるように抱きついた……そうしていないと立っていられない気がした。
「俺達二人で新しい未来を作っていこう」
玲の言葉が何よりも嬉しくて、私達二人に未来があってそれを作っていける事に喜びを感じていた。
玲、一緒に生きていこう……
そして二人で未来を作っていこう……
お互いに今こうして生きていることに幸せを感じ、体が動き、心臓は鼓動を打ち、言葉をつむぐ事ができる喜び。
当たり前の事は、当たり前ではなく、本当は恵まれている事なのだと、つくづく私は思い知らされたような気がした。
私と玲は手を繋いで歩いた。
「ありがとう」
私は玲の言葉に優しい愛を感じて、感謝した。
「感謝しろ……そんな幼児体形を気に入ってやるんだからな」
玲はそう言うと、鼻で笑いながら私を見つめる。
「感謝して……そんなひねくれたヤツを気に入ってやるんだから」
私はそう言い返しながら微笑んだ。
軽い雪が舞う中で私達の周りだけが温かい空気に包まれているようだった。
未来へ続く道を私達は今、歩き始めた。
完
最終話まで読んでくださって感謝いたします。
何が当たり前で、何が当たり前ではないのか、これは個人個人の価値観で違いが出るでしょう。
当たり前だと思ってしまうと、眼の前にある大事なものが見えなくなってしまう事があります。
自分にとって、本当に大事なものは何なのか……
そんな問いを投げかけたくて書いた作品ですが、いかがでしたでしょうか?
深く読んでも、浅く読んでも、楽しんでいただけたら幸いです。
本当に長々とお付き合いくださいまして、ありがとうございました。
〜海華より〜