第4話 ハンカチ一枚分の意地
12月31日。《グレイランス》の食堂は、いつもより少しだけ人が多かった。
壁に白い布が張られ、天井から吊した古い投影機が、かすれ気味の光をそこへ落としている。
テーブルは端に寄せられ、真ん中にはベンチと折りたたみ椅子。子どもたちがぎゅうぎゅうに座り、そのあいだにサキが挟まれていた。
「さきせんせー、はじまる?」
「静かにしてれば、ね」
サキが笑うと、子どもたちもつられて笑う。
ヒロは少し後ろの席で、整備班と一緒に座っていた。手には温かい飲み物の入ったカップ。
アキヒトは、壁際で腕を組んで立っている。照明を落とした食堂の隅、出入り口のそば。そこが、いちばん落ち着く。
かけられているのは、灰が降るよりもずっと前に作られた古い映画だ。
人が歩き、笑い、どこかの街で暮らしている。子どもには筋書きまでは分からなくても、動く絵と音楽だけで十分楽しいらしく、ときどきくすくす笑いが起きていた。
やがて、物語はクライマックスに差しかかる。
崩れかけた橋の上で、登場人物が互いの手を伸ばしあう場面。
落ちそうになる誰かを、もう一人が、肩ごと抱え込むようにして引き上げようとする。
サキの肩が、すこしだけ震えた。
隣の子がそれに気づいて、心配そうに顔をのぞき込む。
「……せんせい?」
「だいじょうぶ。ちょっと、ね」
サキは笑おうとするが、うまくいっていない。
目元が赤い。涙が今にもこぼれそうだ。
アキヒトは、その様子を横目にとらえた。
ポケットに片手を入れ、指先で布の感触を探る。
ハンカチだ。
数日前の夜が、頭をよぎる。
スクラップ置き場に立った、鉄くずで組んだ即席のツリー。
それを見上げながら、サキが声もなく泣いていたとき——何も渡せなかった、自分の手。
あのとき、何か一枚でも持ってればと、思った。
それ以来、ポケットにハンカチを入れておくようになった。
――出してやるか。
少し考えて、壁から離れかけた、そのとき。
「……どうぞ」
先に動いたのはヒロだった。
ヒロは席を立つでもなく、ほんの少し身を乗り出して、椅子の背もたれ越しに手を伸ばす。
きちんと畳まれた白いハンカチが、そっとサキの視界の端に差し出された。
「ありがとう……」
サキが受け取り、目元を押さえる。
周りの子どもたちが、ほっとしたように映画へ視線を戻した。
アキヒトは、壁際でその一部始終を見ていた。
――あいつ、いつも持ち歩いてるのか。
ポケットの中で、自分のハンカチをつまんだまま、そっと指を離す。
スクリーンの中で、握り合った手がようやく引き上げられるころ、アキヒトはふっと目を閉じ、視線を外した。
上映が終わると、子どもたちの拍手と、いつもより少し高い笑い声が食堂に広がった。
大晦日の午前は、そんなふうに過ぎていった。
*
同じ日の午後。
艦内放送のチャイムが鳴り、ブリッジの落ち着いたジルの声が響く。
『全乗員に通達。明日、港ハブにて補給品の追加購入を行う』
作業中のクルーが顔を上げる。
『光の園の子どもたちの衣類その他を、サキがまとめて購入する。港にはサキのみ降艦。護衛兼荷物持ちを一名付ける。該当者には後ほど名前を通達する。以上』
格納庫のあちこちで、ざわっと空気が動いた。
「護衛一名って、誰だよ」
「荷物持ちって言い方だと、けっこう重労働だぞ」
「サキ先生一人で港なんて、心配に決まってんだろ」
「子どもたちは艦の中で留守番か……まあ、そうなるよな」
誰かがぼそっと言い、すぐに別の声がかぶさる。
「はいはい、俺が行きまーす」
「何言ってんだ。お前サキ先生より荷物増やすだろ。無駄なもんばっか買ってきて」
「うるせぇ、俺だって役に立つわ」
あちこちから「俺が」「いや俺が」と名乗りが上がり始める。
その騒ぎを、スピーカーの向こうから冷ややかな一言が切った。
『……うるさい。護衛はVOLKから一名とする。以上』
格納庫の空気が、一拍遅れて静まる。
「……VOLKからか」
「そりゃまあ、そうだわな」
「どっちだ?」
自然と視線が向かう。
ヒロと、アキヒト。
ストレイ・カスタムの前で工具箱を片付けていたアキヒトは、手を止めて立ち上がった。
油のついた手袋を外し、そのまま短く言う。
「俺が行く」
向かい側、ヴァルケンストームの脚元でチェックをしていたヒロも、ほぼ同時に顔を上げた。
「隊長の務めだ。俺が行く」
視線がぶつかる。
「隊長は艦に残れ。何かあったときに動かすのは、お前の仕事だろ」
「明日は出撃予定はない。買い出しの護衛くらいは出られる」
「俺は強い」
「それは知ってる。だが、俺も守れる」
「俺だって守れる」
ほとんど子どもの言い合いだが、声にはどこか本気が混ざっていた。
その温度に、周りの整備班がじわじわと笑い始める。
「おお……サキ先生の付き添いで、ここまで揉めるか」
「いや、サキ先生だから揉めるんだろ」
「決め方はひとつしかないな」
ゴーシュがニヤニヤしながら、作業台をぱんぱんと叩いた。
「腕相撲で決めろ。せっかくだ、久しぶりに勝負が見たい」
「賛成!」
「やれやれ!」
あっという間に人垣ができる。
工具と部品が端に寄せられ、作業台の真ん中に肘を置くスペースが確保された。
「ほら、ここだ。肘つけろ、二人とも」
ゴーシュに促され、ヒロとアキヒトが向かい合って腰を下ろす。
ヒロは指を一度握って開き、静かに息を整えた。
アキヒトは肩を回し、軽く首を鳴らす。
「判定は俺がやる。あとで文句言うなよ」
ゴーシュが二人の手を強引に組ませる。
ごつごつした掌が、きしりと音を立てた。
「よーい……」
周りを囲むVOLKと整備班が固唾をのむ。
ポチは隅っこで「どうせ俺は留守番だしな」とぼやき、リュウは壁にもたれて、目だけはしっかり勝負を追っている。
「……スタート!」
掛け声と同時に、二人の腕に力がこもった。
最初の数秒は、びくともしない。
筋肉の線が浮き、血管が浮き上がる。
「譲れ」
アキヒトが歯を食いしばりながら言う。
「ダメだ」
ヒロも負けない。
「護衛は俺だ」アキヒト。
「お前には任せられん」
押し返しながら、ヒロが淡々と返した。
ヒロは、ぐらつきかけた腕を踏ん張って続ける。
「俺は子どもたちに好かれてる」
「俺だって人気ある」
アキヒトも引かない。
「それはないだろー!」
誰かのツッコミが入り、笑いが起きる。
当人たちは笑わない。腕は微動だにせず、ただじわじわと熱を帯びていく。
「いい勝負じゃねぇか」
「どっちも本気だな」
汗が額を伝い始めたころ、アキヒトが少しだけ口角を上げた。
「……なぁ、ヒロ」
「なんだ」
「いつも、そんなもん持ち歩いてるのか」
「何の話だ」
「ハンカチだ。さっき食堂でサキに渡してたやつ」
周りが「あー」と声を漏らす。
ヒロの表情は変わらない。
「男のたしなみだ。お前とは違う」
アキヒトの腕に、さらに力がこもる。
体が前のめりになり、二人の手はわずかにアキヒト側へ傾いた。
「お、押してるぞ!」
「アキヒト、いけ!」
どよめきが起きる。
ヒロは押されながらも、じっとアキヒトの顔を見る。
「……そういえば、アキヒト」
「なんだ」
「お前がいつも、ハンガーに掛けっぱなしにしてる上着」
「……ああ?」
「サキが、いつも洗ってる」
その一言で、アキヒトの腕から一瞬、力が抜けた。
「は?」
心のほうが止まった。
その隙を、ヒロは見逃さない。
押し返す。
ぐぐ、と音が聞こえそうなほど、テーブルの上で二人の手が揺れ、次の瞬間——。
「そこ!」
ゴーシュの叫びと同時に、アキヒトの拳がテーブルに叩きつけられた。
「勝負あり! 勝者、ヒロ!」
格納庫に歓声が広がる。
「さっすが隊長!」
「やっぱり最後は口だな!」
「いや今のは卑怯……じゃないな、多分」
好き勝手な声が飛び、お祭り騒ぎになる。
ヒロは汗をぬぐって立ち上がり、アキヒトはまだ腑に落ちない顔で見上げた。
「さっきの……なんだよ」
「どれだ」
「あの、上着の……」
ヒロは少しだけ口元を緩める。
「嘘だ」
「は?」
「サキが洗ってる、っていうのは嘘だ。自分で洗え。臭いぞ」
そう言って、ヒロは片手をひらひらと振りながら輪の外へ歩き出す。
「護衛と荷物持ちは俺がやる。今日中に名前をジルに出しておく」
「ちょっと待て!」
「負けは負けだろ」
ゴーシュが笑いながらアキヒトの肩を叩き、周りも口々に囃し立てる。
「隊長、明日はちゃんと荷物も持てよー!」
「サキ先生の前で転ぶなよ!」
「うるさい」
ヒロの低い声が返ってきて、また笑いが起きた。
輪が少しずつ崩れ、作業が再開されていく。
アキヒトはひとり、作業台の前に残った。
名前を出された上着は、格納庫の隅のハンガーに掛けられている。
手を伸ばして取ると、油と金属の匂いが鼻を打った。
臭い、か。
少しだけムッとして、けれど気になって、襟元に鼻を近づける。
油の奥に、別の匂いが混じっていた。
洗剤と、柔軟剤のような、ほんのわずかな柔らかい香り。
誰が、洗ったんだ。
答えはどこにも書いていない。
ただ、上着は、思っていたほどには臭くなかった。
アキヒトは上着をもう一度ハンガーに戻し、少しだけ高さを変えて掛け直す。
今度は、床から手を伸ばしてもすぐに取れる位置に。
「……明日は、任せるか」
小さくつぶやき、格納庫を見渡す。
さっきまでの笑い声の余韻と、遠くで鳴る機械の音が混ざっている。
大晦日の夕方。
灰の外の世界は相変わらずきな臭いままだが、この艦の中だけは、少しだけ穏やかだった。




