第96話 何度生まれ変わっても、私はあなたを推し続けます
厳しかった冬の終わりだった。
朝の空気はまだ少し冷たい。
けれど、庭の梅はもう可愛らしくほころび始めていて、縁側へ差し込むあたたかい陽射しにも、ほんのわずか春の匂いが混じっている。
私は、愛用の湯呑みを両手で包みながら、その美しい景色を静かに眺めていた。
「……きれいですわね」
心からくつろいでそう呟くと、隣から低く、年輪を重ねた落ち着いた声が返ってくる。
「ああ」
ただその一言を聞くだけで、私の胸の奥がジンワリとあたたかく甘く満たされる。
結局、何十年経っておばあちゃんになっても、私はこの人の声ひとつでこんなふうに幸せな限界オタクになってしまうらしい。
私は、そっと隣を見た。
私の人生のすべてである、クライス様がいる。
白銀の髪が世界一似合う、私の最愛の推し(夫)。
若い頃の氷のような鋭さと美貌はそのままに、でも、今はその輪郭のすべてへ、共に歩んだ穏やかな年月がやさしく宿っている。
目尻の笑い皺も、剣ダコのある指先の節も、ゆっくりとした大人の余裕のある動きも、全部が全部、狂おしいほど愛おしい。
ああ。
本当に。
人生の最後まで、推しは作画崩壊知らずの最高の推しなのですわね。シニア枠の最高峰ですわ。
「何だ」
クライス様が、お茶を飲みながら視線だけこちらへ寄越した。
「何がですの」
「今、また俺の顔を見て変なこと(オタクの妄想)を考えていただろう」
「失礼ですわね」
私は真顔で、スッと背筋を伸ばして答えた。
「白髪になってもスチルとしての完成度が高すぎる推しの横顔について、静かに国宝級だと感動していただけです」
「……」
「何ですの、その呆れたような沈黙は」
「お前は、今もその言い方(熱量)なのかと思ってな」
「当然ですわ」
私は小さくなった胸をフンスと張った。
「何十年一緒にいても、どれだけシワが増えようと、推しは推しですもの」
「そうか」
「そうです」
クライス様は、やれやれと小さく息を吐いた。
でも、その口元は、ほんの少しだけ嬉しそうにやわらかい。
ああ、ええ。
その“何十年経っても、妻の愛の重さに慣れているようで照れてしまう”可愛い反応まで含めて、本当に大好きですわ。
◇ ◇ ◇
私たちの子どもたちは、もうそれぞれ立派に独立して家庭を持った。
エルは領地の中心を担い、フェルドの名に恥じない完璧な次期当主になった。
若い頃のクライス様とよく似た美形でクールな顔で、でも、私へ向ける時の『オタクへのツッコミの語彙力と呆れ方』だけは、若い頃より遥かに容赦がない。
いえ、たまにやさしい時もある。
その辺りのツンデレ具合は、完全に父親譲りの最高の育ちですわね。
リリアは、変わらず華やかで、やさしくて、少し規格外な淑女だ。
満面の笑顔で国境レベルの大規模防衛結界を張るところは、だいぶ我が家の脳筋な血を感じるけれど、花冠を編むのが今でも上手で、可愛い孫たちにもよく作ってやっている。
その孫たちもまた、賑やかで、天使のように可愛くて、オタクの供給量としては少々危険である。
推しと私の遺伝子を継ぐ『SSR確定の存在』が増えるというのは、幸福であると同時に、老後の心臓へ大変よろしくない。
けれど、そうした賑わいの全部が去った後。
一日の最後に、静かさが戻ってきた時。
私が必ず一番落ち着く場所は、やっぱり、この人の隣だった。
若い頃は、嵐のように毎日が過ぎた。
理不尽な婚約破棄。
念願の推しの側仕え生活。
奇跡の結婚。
貧乏領地の改革。
神聖教国へのカチコミ。
魔王のワンパン討伐。
子育て。
家族の成長。
その一つひとつが、当時は世界を揺るがす大事件で、山あり谷ありのジェットコースターどころではなかった気がする。
でも、今こうして縁側で振り返ってみると、不思議だ。
その激動の全部の真ん中に、いつもクライス様がいた。
怒ってくれた時も。
困り果てた時も。
赤くなって照れた時も。
命懸けで守ってくれた時も。
不器用に愛してくれた時も。
私の人生のどのスチル(場面)を切り取っても、必ずこの人が隣にいた。
だからきっと、私はどんな困難があっても、今日という日まで幸せに歩いてこられたのだろう。
◇ ◇ ◇
「ルシア」
不意に、クライス様がやさしい声で私の名を呼んだ。
「何ですの」
「少し」
「はい」
「庭を、歩くか」
私は目をパチパチと瞬いた。
縁側の向こう、あたたかい光の差す庭へ続く飛び石を見て、それから夫を見上げる。
「まあ」
「何だ」
「デートのお誘いですの?」
「そうだ」
「……」
「嫌か」
「いいえ」
私はすぐに、少女のようにパッと笑った。
「むしろ、大歓迎ですわ」
クライス様が先に立ち、スッと自然にエスコートの手を差し出してくれる。
私はその大きな手を取り、隣へ並んだ。
昔のように、敵を薙ぎ倒して勢いよく走ったりはしない。
でも、その代わりに、今は夫婦で歩くこの一歩一歩をちゃんと味わえる。
土のやわらかい感触。
朝のあたたかい光。
木々のやさしい匂い。
そして、時折すぐ傍で聞こえる、クライス様の頼もしい呼吸。
庭の奥には、昔リリアが小さな花冠を作っていた木陰がある。
もう少し先には、エルが汗を流して木剣を振っていた広場。
さらに向こうには、可愛い孫たちが転げ回る芝生。
全部、ここへ残っている。
私たちが命を懸けて守り抜いた時間が、積み重なった形で、ちゃんとこの領地に残っている。
「……本当に、幸せですわね」
私は、ポツリと心からの本音をそう言った。
クライス様はすぐには答えなかった。
少し歩いてから、私の手をギュッと握り返し、低く、短く言う。
「ああ。俺の人生は完璧だ」
その揺るぎない一言だけで、私には十分だった。
私たちは広い庭をゆっくり巡り、最後に、ひときわ大きな老樹の下で立ち止まった。
この木は、私が王都からこの辺境領地へ追放されて来たばかりの頃には、まだ細くて若かった。
それが今では、空を覆うほど枝を大きく広げ、季節ごとに違う美しい表情を見せてくれる。
その太い幹へ、そっと手を触れる。
「長く、ここにおりますのね」
「ああ」
「私たちも」
「……そうだな」
私は木を見上げ、それから隣のクライス様を見た。
白銀の髪。
刻まれた深い皺。
海のように落ち着いた眼差し。
でも、私の中では、不思議なくらい若い頃の面影と完全に自然につながっている。
側仕えだった頃の、人を寄せ付けない凛とした氷の横顔。
結婚式の夜の、やさしくも独占欲に満ちたズルい微笑み。
子どもたちを抱き上げる、不器用な父の顔。
家族を脅かす敵に向けた、絶対零度の怒りの目。
私の重い愛に照れた時の、少し赤くなる耳。
全部。全部、今のこの愛する人の中にちゃんとある。
そう思ったら、胸の奥がジンワリと熱くなって、少しだけ涙が滲みそうになった。
◇ ◇ ◇
「クライス様」
「何だ」
私は、少しだけ深く息を吸った。
この問いを、私はずっと胸のどこかに持っていた気がする。
若い頃から、半分は限界オタクの冗談みたいに、でも半分は切実な本気で。
でも、今なら、人生の終盤の今なら、ちゃんと聞いてもいい気がした。
「私、生まれ変わっても」
「……」
「また、あなたの『側仕え』にしてくれますか?」
あたたかい風が、静かに吹いた。
互いの白い髪が揺れる。
庭の枝先が小さく鳴る。
遠くで、孫たちの楽しそうな笑い声がかすかに聞こえた。
クライス様は、しばらく何も言わなかった。
ただ、真っ直ぐに、深い蒼い瞳で私を見る。
その真剣な視線へ、私は少しだけ少女のように照れてしまう。
何十年経っても、この人にちゃんと見つめられると、鼓動が跳ねて少しだけ落ち着かない。
「……ルシア」
「はい」
「それは」
「ええ」
「完全に違うだろう」
「……まあ」
私はパチクリと瞬いた。
違う?
何がですの?
オタクにとって至高のポジションである側仕え(メイド)では、いけませんの?
ほんの少しだけ不安になりかけた、その瞬間。
クライス様の大きくて分厚い手が、そっと私の両手を取って、大切に包み込んだ。
昔より、少しだけ剣ダコでごつごつしている。
でも、その火傷しそうなほどのあたたかさは昔と同じだ。
包まれた瞬間、ああ、本当にこの人だ、と魂から思う。
「何度生まれ変わっても」
低い声。
でも、どこまでも重く、やさしい、絶対の誓いの声。
「俺の『最愛の妻』になってもらう」
「――ッ」
ああ。
もう。
本当に。
本当に、この人は、最後の最後まで、そういう心臓に悪い殺し文句を、当たり前みたいなイケメンの顔でおっしゃるのですから。
私は扇がないので、両手で口元を押さえた。
でも無理だった。
嬉しくて笑ってしまうし、尊くて泣きそうにもなるし、心臓は限界突破して忙しいし、どうにもならない。
「ズルいですわ……」
「何がだ」
「今の」
私は、半分泣き笑いみたいな声で言った。
「だいぶ、致死量レベルでズルいです。泣いてしまいます」
「俺の魂からの本音だ」
「ええ」
「ならいい」
「心臓に良くありません」
「そうか」
「そうです」
「だが」
クライス様の目が、ほんの少しだけ、この上なく甘く細められる。
「お前が俺の側仕え(モブ)で終わるはずがないだろう。俺が絶対に許さん」
「ッ……」
ああ、駄目ですわね。
スパダリの追撃まで完璧ですわね。
私はとうとう、その場で一歩、彼へすり寄って腕の中に収まった。
というより、甘い引力で逃げ場をなくしてしまったのは私の方かもしれない。
「クライス様」
「何だ」
「私」
「……」
「本当に、何度生まれ変わって別の世界に行っても」
「……」
「あなたを、私の最推しとして愛し(推し)続けますわ」
静かな沈黙が落ちる。
それは気まずい沈黙ではない。
私の重い愛を、ちゃんと全身で受け取ってくださっている時の、あの極上の静けさだ。
やがて、クライス様はごく小さく息を吐いて、私の肩を強く抱き寄せた。
「好きにしろ」
「まあ」
「どうせ」
「ええ」
「お前のその愛の重さは、今さら俺には止められん」
私は、夫の胸の中でクスクスと笑った。
「そうですわね」
「ああ」
「でも」
私は彼の広い肩へ額をコテンと寄せながら、そっと続ける。
「次の人生でも」
「……」
「きっと、私はまたあなたに一目惚れしますわ」
「……」
「それで」
「……」
「側仕えになりたがって、あなたの傍をウロチョロして」
「……」
「でも、最終的には必ず『奥様の座』を実力で勝ち取りますの」
クライス様が、私の言葉にほんの少しだけ肩を揺らした。
声に出さずに、笑ったのだろう。
「勝ち取る、か。お前らしいな」
「ええ」
「言い方が、相変わらず物理的で物騒だな」
「推し活と愛は、時に熾烈な戦いですもの」
「そうか」
「そうです。絶対に他の女には譲りませんわ」
「なら」
彼は、私の耳元で低く、甘く囁いた。
「俺も、次も絶対に負けるつもりはない」
「……まあ」
私は胸の中から顔を上げた。
「それは、どういう意味ですの?」
「決まっている」
クライス様の蒼い目が、獲物を逃がさない猛禽類のように真っすぐ私を見る。
「次も、最初からお前を離すつもりはない。俺の方からお前を見つけ出して、絶対に逃がさん」
「ッ……!!!!」
だめですわ。
本当にだめですわ。
真・最終回の最後の特大の火力として、あまりにも強すぎるでしょう。
私は、完全に限界を迎えて両手で顔を覆った。
でも、多分、耳の先までリンゴのように赤い。
自分でもよく分かった。
「ク、クライス様」
「何だ」
「今の、だいぶオタクにとって危険です。キュン死します」
「そうか」
「そうです」
「だが、本音だ」
「……」
「何度生まれ変わっても」
「……」
「俺がお前を見つける。覚悟しておけ」
そのストレートすぎる重い愛の言葉へ、もう、何を返したらいいのか分からなかった。
ただ。
ハッキリと、魂で分かったことが一つだけある。
たとえ何度生まれ変わっても。
世界が変わっても。
立場が変わっても。
時間が変わっても。
私はきっと、またこの人をどうしようもなく好きになる。
この人の隣へ立ちたいと願う。
この人の格好よさに心を奪われて、限界化して。
この人の不器用なやさしさに甘やかされて。
この人の底なしに重い愛情へ、結局最後まで、幸せに負け続けるのだろう。
それでいい。
それがいい。
だって、それ以上の『完璧な幸せ』を、私はもう知ってしまっているのだから。
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
縁側へ戻った私たちは、また並んであたたかいお茶を飲んだ。
湯気の立つ二つの湯呑み。
庭を美しく染めるオレンジ色の夕陽。
家の奥から聞こえる、愛する家族の賑やかな気配。
そして、隣にいる、宇宙一格好いい最愛の人。
私はそっと、クライス様のあたたかい肩へ寄りかかった。
「クライス様」
「何だ」
「来世でも」
「……」
「私を、ちゃんと見つけてくださいましね」
「当たり前だ」
「ええ」
「お前もだぞ、ルシア」
「もちろんですわ」
私は、心から幸せに笑う。
「だって」
「……」
「私の推し(あなた)は、どの世界にいてもキラキラと輝いてしまうでしょう?」
「……」
「オタクの私が見逃す方が、絶対に無理ですもの」
クライス様は、「敵わんな」と呆れたように小さく息を吐いた。
でも、その大きくてあたたかい手が、そっと私のシワの寄った手を、永遠を誓うように強く握る。
「なら」
「ええ」
「次も、よろしく頼む」
「はい」
私は、何より幸せな気持ちで、深く頷いた。
「こちらこそ、末永くよろしくお願いいたしますわ」
こうして。
理不尽な婚約破棄から始まった、一人の限界オタク令嬢(私)の波乱万丈な人生は。
最推しの側仕えとなり。
推しの妻となり。
チートな子どもに恵まれ。
世界まで物理で救って。
最後には、白髪の似合う最高に幸せな老夫婦になって、完璧な幕を閉じる。
けれど、それは決して「終わり」ではない。
だって私は、もう魂で決めているのだ。
何度生まれ変わっても。
何度世界が巡っても。
何度人生をやり直しても。
――私は、永遠にあなたを愛し(推し)続けますわ。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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今後とも、よろしくお願いいたします。




