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婚約破棄の瞬間に「前世の記憶」が戻りまして。〜ヒロインの座は譲りますので、私は推しキャラの側仕えを目指します!〜  作者: 綾瀬蒼


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第84話 魔王城への家族旅行(という名目の討伐遠征)

 不吉な赤い空が大陸全土を覆った翌朝。

 魔王を『私の老後計画を狂わせる害虫』と認定し、愛する家族との穏やかな日常を守るためにも、速やかな物理的駆除(討伐)が必要である――。


 その満場一致の結論に至った日の、フェルド辺境伯爵邸の朝食の食卓は、妙に穏やかだった。


 穏やか、というより。

 もはや一周回って、ピクニックの前の日のようなウキウキとした静けさ、と言うべきかもしれない。


「では」

 私は食後の紅茶のカップをコトリと置き、極めて落ち着いた、旅行会社のツアコンのような声で言った。

「本日の家族会議の議題は、『暗黒大陸・魔王城への楽しい家族旅行』についてですわ」


「かぞくりょこう!」

 真っ先に嬉しそうに食いついたのは、もちろん娘のリリアだった。

 紫の瞳が、これ以上ないくらいキラキラと輝いている。

 ああ、可愛い。

 外の赤い空も、行き先のヤバさも何も知らずに、“旅行”という単語だけでこんなに無邪気に目を輝かせてしまうなんて、本当に世界一の天使ですわね。


 一方で、エルはスープを飲もうとしていたスプーンを持ったまま、ピタリと固まって止まった。

「……母上、待って」

「何かしら、エル」

 私はニッコリと、この世の春のような笑顔で微笑む。

「今、“魔王城”って言った?」

「ええ。言いましたわ」

「……それって、家族の旅行先に選んでいい安全な場所なの? 世界の危機だよね?」

「ただの観光ではなく、あなたたちの『社会科見学』も兼ねておりますもの。勉強になりますわよ」

「兼ねてたら行ってよくなる話じゃないと思うんだけど……」

「まあ」

 私は息子の方を見て、深く感心したように頷いた。

「エルは、本日もツッコミが冷静で冴え渡っておりますわね」

「母上が、朝から少しも冷静じゃないから」

「失礼ですわね。私は常にロジカルな完璧主義者ですわ」

「……わりと事実だと思う」

 その呆れ混じりの辛辣な口調が、だいぶクライス様に似てきましたわね。

 大変よろしい成長ですわ。


「ルシア」

 隣から、クライス様の低い声が落ちる。

「何ですの」

「子どもたちを騙すな。“家族旅行”と言い切るな」

「ですが」

 私は真顔で、大真面目に答えた。

「愛するお子たちを連れて行く以上、目的の半分は家族旅行ではなくて?」

「残り半分は」

「魔王の討伐遠征ですわ」

「やはり旅行ではないな。戦地だ」

「でも、道中で美味しい名産品を食べたり、暗黒大陸の珍しい景色を見たり、何よりお子たちに“世界最強のパパの格好いいところ”を特等席で見せたりするなら、もうだいぶ旅行(推し活)の要素が強いと思うのですけれど」

「母上」

 エルがジト目で言う。

「最後のところ、だいぶオタクの『本音』だよね」

「当然ですわ」

 私はフンスと胸を張った。

「だって、あのクライス様が魔王軍相手に無双して戦うところ(新規スチル)を間近で見られるなど、最高の実地研修・社会科見学ではありませんこと!?」

「しゃかいかけんがく!」

 リリアが意味もわからず元気よく復唱する。

「リリアも、パパのかっこいいところ、みる!」

「もちろんですわ」

「おとうさま、世界一かっこいいもん!」

「そうでしょうとも!」

 私は娘と固い握手を交わし、勢いよく同意した。


 クライス様が、やれやれと小さく息を吐いた。

 だが、その妻と娘の暴走を止めはしない。

 止める気がないのだろう。

 というより、多分、この人も私と同じ結論に至って、最初から“子どもたちを置いていく”という選択肢を完全に消している。


 なぜなら。

 今回の件は、一国の戦争ではなく、大陸規模の魔力汚染の異変である。

 あの赤い空が出た以上、屋敷の結界に閉じ込めても『絶対の安全地帯』というものがこの世界のどこにも存在しない。

 だったら、目の届かない場所に置いて不安になるより、私とクライス様という『世界最強の矛と盾(戦力)』のすぐ傍(結界の中)へ置いて守り抜く方が、生存確率として圧倒的に安全で確実なのだ。


「二人とも、確認するが」

 クライス様が、新聞を置いて真剣な父親の目で子どもたちを見る。

「道中、恐ろしい魔物が出て、怖くなるかもしれないぞ」

「うん」

 エルが、少し緊張しながらも力強く頷く。

「でも、行く。父上と母上の戦いを見たい」

「リリアもいく!」

「途中で泣きたくなったり、帰りたくなることもある」

「そのときは、ちゃんと『こわい』っていう」

 エルが、真面目な顔で答えた。

「我慢しないで、ちゃんと」

「よろしい」

「リリアも、こわかったらえんえん(泣く)する!」

「えらいですわ」

 私は娘のやわらかい銀髪の頭を撫でた。

「怖かったら怖い、疲れたら疲れたと、親に素直に頼って言えるのは、とても立派なことですもの。ママとパパが全部助けてあげますわ」

「はーい!」


 ああもう。

 本当に、どうしてこうも我が子は素直で可愛いのでしょうね。


 ですが。

 可愛いだけで、安全な結界の中からただ景色を見せて済ませるつもりはない。

 今回は、これからの時代を生きるお子たちにも、次期領主としてちゃんと学びがあるべきだ。


 親が何のために、何を守るのか。

 どうして理不尽な暴力と戦うのか。

 “世界の危機”なんていうフワッとした大仰な言葉ではなく、自分たちの大切なこのあたたかい日常が、どういう悪意に脅かされ、それをどうやって自分の手で排除するのか。

 その厳しい現実の輪郭くらいは、安全圏からでもきちんと見せておきたい。


 もちろん。

 トラウマになるほど、必要以上に怯えさせるつもりは1ミクロンもございませんけれど。


 ◇ ◇ ◇


 というわけで、出発準備は、いつもの討伐遠征とは全く趣が違った。


 討伐用の予備の武器と防具。

 回復用の高純度の魔力結晶。

 野営用の携帯結界札。

 日持ちする保存食。

 大量の樽の水。

 最高品質の薬草。

 野営のテント道具。

 ここまでは、軍の遠征の基本装備として通常通り。


 そこへさらに。


「長旅ですもの、おやつは飽きないように三段構えで参りますわ」

 私は執務室の机の上へ、きっちり整理したピクニック用の巨大なバスケット(籠)を並べた。

「一段目、日持ちのする特製『雪花菓子』の詰め合わせ」

「……」

「二段目、エルの好きな『蜂蜜乳菓』の魔法冷却ボックス」

「……」

「三段目、果実の砂糖漬けと、塩分補給用の塩気のあるチーズ焼き菓子」

「母上」

 エルが、その豪華なバスケットを見て静かに言った。

「これから行くの、魔王討伐の遠征だよね?」

「ええ」

「お花見ピクニックじゃなくて?」

「両方ですわ」

「……両方」

「だって」

 私は前世のツアコンのように理路整然と答える。

「長旅の空腹と糖分不足による不機嫌は、戦場での判断力を鈍らせますもの」

「それは、理論としてはそうだけど」

「特に、お子たちはすぐにお腹が空く育ち盛りです」

「うん」

「それに」

 私はコホンと咳払いをした。

「愛する推しの格好いい戦闘シーンを特等席で拝見する際、ポップコーン代わりの適切な糖分補給は、オタクの集中力維持に大変重要ですのよ」

「結局、やっぱりそこ(推し活)なんだね……」

「そこですわ。一番重要です」


 リリアは、その横でバスケットを見て大変ご機嫌だった。

「おかあさま! おべんとうもあるの?」

「もちろんですわ」

 私は、魔法で保温された別の大きな箱を開ける。

「卵とハムのサンドイッチ」

「やったあ!」

「食べやすい小さなおにぎり」

「やったあ!」

「冷めても美味しい、焼いたお肉を少し薄味で」

「やったあー!」

「おかあさま、さいこう! テンサイ!」

「当然ですわ」

 私はフンスとドヤ顔で胸を張る。

「楽しい家族旅行ですもの」


 クライス様が、そのピクニックの荷の一覧表を見ながら、頭痛を堪えるように低く問う。

「……ルシア。いくらなんでも量が多すぎる」

「ご安心くださいまし」

「何をだ」

「私の改良した『四次元・魔法鞄マジックバッグ』へ、すべて重量ゼロで入ります」

「そういう物理的な問題ではない。緊張感がなさすぎる」

「あと、これも重要ですわ」

 私は別の設計図の紙を広げた。

「野営用の寝具ですが、お子たちは寝相が多少アクロバティックなところがございますので、野営用の寝台を二つ横並びに連結して、周囲へ虫除けと防音の『安眠保護結界幕』を張る仕様にしましたわ」

「ルシア」

「何ですの」

「お前、魔王討伐というより、本気で『快適な家族のキャンプ計画』を立てているな」

「当然ですわ」

 私はニッコリと、最高の笑顔で笑う。

「魔王城までの道のりで、私たちの睡眠の質と快適さを妥協する理由が、1ミクロンもございませんもの」

「……」

「むしろ」

 私は真顔で、大真面目に続けた。

「移動と野営のストレスを極限まで快適にすることで、お子たちの疲労を減らし、現地到着後の私たちの戦闘時の安全性が飛躍的に増します」

「理屈は、完全に通っている」

「でしょう?」

「だが」

「はい」

「時々、お前はその前世の謎のビジネス理屈で、すべてを強引に押し切るな」

「最高の光栄ですわ」


 ハインツさんが横で、書類で顔を隠しながら「ブフッ」と小さく咳払いをした。

 あら。

 私の有能なツアコンぶりに、笑いを堪えていらっしゃいますわね。

 大変失礼ですこと。


 ◇ ◇ ◇


 出発は、翌朝早くとなった。


 空はまだ不吉に赤い。

 ドス黒い不穏な色は、昨日よりむしろ魔素が濃くなっている気さえする。

 だが、だからこそ一刻も早く暗黒大陸へ乗り込み、サクッと魔王をしばき倒して急ぐ必要があった。


 今回の長距離移動には、軍の馬車ではなく、私が密かに発注していた『特製の遠征馬車キャンピングカー』を使う。

 外見は目立たない普通の大型の幌馬車だが、中は私のチート魔法と財力で、だいぶえげつなく魔改造済みだ。


 完全防音。

 防寒・防暑のエアコン完備。

 対魔物用の衝撃吸収サスペンション。

 物理と魔法の絶対防護結界。

 それから、私がこっそり施した『絶対に酔わない乗り心地改善(無重力)術式』。

 つまり、見た目はただの馬車、中身は『動く超快適なスイートルーム(移動要塞拠点)』である。


「わあ……!」

 リリアが馬車の中を覗き込んで、歓声を上げた。

「すごい! おうちのおへやみたい! ふかふか!」

「ええ」

 私は満足げにウンウンと頷く。

「お子たちがガタガタ揺れる長旅で疲れませんよう、ママの魔法で少々工夫いたしましたの」

「“少々”のレベルではないだろう。王家の馬車より金がかかっているぞ」

 クライス様が、呆れてボソリと言う。


 エルも、馬車の中の豪華な革張りのソファやクッションを見回して、少しだけ目を丸くした。

「……これに乗って、本当に討伐遠征に行くの?」

「何度聞かれても答えは同じですわ」

「うん」

「豪華な家族旅行、兼、魔王討伐遠征です」

「……それ、絶対目的の比重が逆でもいいと思う」

「だめですわ」

 私はキッパリと、教育者の顔で言った。

「お子たちにとっては、まず『楽しい旅行』なのです」

「……」

「その方が、変に緊張せずにリラックスして楽しめるでしょう?」

 エルは少しだけ大人の事情を考えてから、コクリと納得したように頷いた。

「……それは、確かにそう」

「でしょう?」

「うん。母上の言う通りだね」

「よろしい」


 ああ。

 本当に、この子は私の理屈をスッと理解して納得してくださるので、非常に助かりますわね。


 出発前。

 屋敷の門前で、留守を預かるハインツさんをはじめ、使用人たちと領兵たちがズラリと並んで見送りに来ていた。

 心配そうな顔も多い。

 無理もない。

 大陸規模の世界滅亡の異変の中心(魔王城)へ、領主一家がまるごと特攻(旅行)に向かうのだ。


「旦那様」

 領兵隊長が、涙ぐんでビシッと敬礼する。

「フェルド領地と民の避難は、命に代えてもお任せを」

「ああ。頼んだぞ」

「奥方様」

「何かしら」

「……どうか、ご無理だけは」

「しませんわ」

 私は即答した。

「だって、大切なこのお子たちが同乗しておりますもの」

「……」

「でも」

 私はニッコリと、魔王よりも恐ろしい笑顔で笑う。

「道中、邪魔な魔王軍が出たら、1秒も遠慮なく物理でミンチにして潰します」

「……か、かしこまりました。どうかご無事で」


 ええ。

 その「魔王軍が可哀想になってきた」という何とも言えない引きつったお返事、大変よろしいですわね。


 ◇ ◇ ◇


 馬車が動き出してしばらくすると、リリアはすぐに窓へ張りついた。


「おかあさま、おそと、ずーっとあかい」

「ええ、そうですわね」

「なんか、きもちわるくて、いやなかんじ」

 私は娘の隣へ座り、その小さな肩を抱く。

「そうですわね。不気味ですわね」

「……こわい?」

「少しだけ」

 私は、嘘をつかずに正直に答えた。

「でも」

「……」

「世界一強いお父様が、馬車の御者台にいらっしゃるでしょう?」

「うん!」

「世界一魔法の上手なお母様も、ここに隣におります」

「うん!」

「それに」

 私は優しく微笑む。

「大好きなあなたと、頼もしいお兄様も、一緒ですもの。四人いれば最強ですわ」

 リリアは少しだけ考えて、それから安心したように大きくコクリと頷いた。

「じゃあ、ぜったいだいじょうぶ!」

「ええ」

「ぜったい、まけない?」

「絶対に負けませんわ」


 向かいの席では、御者台へ通じる小窓を開けて、クライス様がそんな私たちのやり取りを静かに聞いていた。

 隣の席でエルは、いつでも抜けるように膝の上へ子ども用の木剣を置き、鋭い目で窓の外を警戒して見ている。


「エル」

 クライス様が、小窓から低く呼ぶ。

「何? 父上」

「何かあれば、俺が出る。お前はまず、母さんとリリアを最優先で守れ」

「……」

「ただし」

「……」

「絶対に、無理をして前に出るな。命を大事にしろ」

「……うん。分かった」

 エルは力強く頷いた。

 だが、その顔はすでに、一人前の立派な騎士のように真剣だった。


 ああ。

 本当に。

 頼もしく成長なさいましたわね。


「おかあさま」

 リリアが、また私の袖を引く。

「これって、ほんとうに、しゃかいかけんがく?」

「もちろんですわ」

 私は真顔で、力強く答えた。

「お父様が、戦場でどれだけ無双して格好いいかを最前列で学ぶ、オタクにとって極めて重要な学習機会イベントでしてよ」

「母さん」

 エルが、深々とため息をつく。

「そういう限界オタクの感想、できれば父上の前で大きな声で言うの、やめてあげて」

「あら、何か問題でも?」

「……」

「大いに問題がある気がする」

 小窓の向こうから、御者をしながらクライス様がボソリとツッコんだ。


 その銀の髪に隠れた耳が、ほんの少しだけ照れて赤い。


 ああもう。

 ええ。

 そのクーデレな照れの反応、今日も大変よろしいですわね。


 ◇ ◇ ◇


 昼前。

 最初の休憩地は、北方街道沿いの見晴らしの良い小さな丘だった。


 遠くに、赤黒い瘴気を纏った深い森が見える。

 もう少し先には、暗黒大陸へ渡るための古代の『古い転移門の遺跡』がある。

 空は相変わらず不吉に赤い血の色だが、今のところ街道周辺に、目立った魔物の襲撃の気配はない。


「ここで一度、お昼のピクニックにいたしましょう」

 私は馬車を降りながら、明るい声で言った。


「やったー!」

 リリアが、真っ先に馬車から飛び出して反応する。

「おべんとう! おべんとう!」

「リリア、はしゃぐな。食べる前に、まずは周囲の安全確認だ」

 クライス様が、剣に手をかけながら低く言う。

「はーい!」

 返事の元気はいいのだけれど、やはり視線と意識の半分くらいは、私の持つお弁当のバスケットに向いておりますわね。


 私は手早く周囲に強力な防護の『簡易結界』を張り、クライス様が念のため周囲の森をひと巡りして警戒する間に、丘のやわらかい草の上へ大きなレジャーシート(布)を広げた。

 魔法で保温されたお弁当箱を出す。

 冷たい水筒とコップを並べる。

 風除けの魔法の壁も立てる。


「……」

「……」

「何ですの、その呆れたようなお顔は」

 周囲の索敵からクライス様が戻ってきてから、私をジッと見てそう問うてきた。


「少しだけ」

 私は遠くの暗黒大陸の森を見る。

「自分でも、なぜ世界の命運を懸けた『魔王討伐遠征』の過酷な途中で、ここまで完璧なピクニックのお弁当時間を優雅に整えているのか、分からなくなってきましたの」

「……お前にも、自分が狂っている自覚はあるんだな」

「大いにございます」

「ならいい」

「良くはありませんわね。平和ボケですわ」


 でも、布の上へ綺麗に並んだ小さなおにぎりや、色とりどりのサンドイッチを見て、リリアが「わぁっ!」と歓声を上げ、エルが少しだけ嬉しそうに目を細めるのを見ると。

 やはり“オタクの遠征は、これで大正解ですわね”と満足に思ってしまうのだから、親バカとは困ったものだ。


「母さん」

 エルが、卵のサンドイッチを手に取りながら言う。

「これ、すごくおいしい」

「まあ」

「ほんとうに?」

「うん。お店のみたい」

「よかった」

 リリアもすぐにハムのサンドイッチを一口食べて、パァッ! と向日葵のように顔を輝かせた。

「おいしい! さいこう!」

「でしょう?」

 私はフンスと胸を張る。

「旅行のお弁当は、お腹だけでなく、長旅のストレスの『心』も満たすのです」

「……やっぱり、母さんの中ではこれ、完全に旅行なんだね」

「ええ。快適な家族旅行ですわ」

「……もういいや。美味しいから」


 ああ。

 この“母上のオタクな理屈はよく分からないけど、美味しいから諦めて受け入れた”感じの可愛い相槌、本当に愛しいですわね。


 その時だった。


 丘の向こう。

 遠くの黒い森の上で、赤い空が一瞬だけ、ドクンッ!! と巨大な心臓のように脈打って不気味に揺れた。


 ピタリ、と。

 食事をしていた全員の動きが、完全に止まる。


「……来ますわね」

 私はサンドイッチを置き、静かに呟いた。


 クライス様が、音もなく立ち上がる。

 エルも反射的に膝の上の木剣へ手を伸ばしかけるが、クライス様が目線だけで「座っていろ」と鋭く制した。


「まだお前が出る幕じゃない」

「……うん」

「リリア」

「はい」

「母さんの傍へ行って、結界から絶対に出るな」

「うん!」


 リリアがすぐにおにぎりを持ったまま、私の隣へピタッと寄る。

 私は娘を片腕で抱き寄せながら、森の方角を氷の目で睨んだ。


 どす黒い気配。

 吐き気のする魔力の濁り。

 大地を揺らすような、重く、粘つく、圧倒的な魔獣の群れの嫌な圧。


 ええ。

 始まりましたわね。

 どうやら、ただの家族旅行の“ピクニック”部分だけでは、この世界は穏便に済ませていただけないらしい。


 でも。

 だから何だというのでしょう。


 私は優雅に立ち上がる。

 風に不吉な赤い空が揺れる。

 その絶望の空の下で、私の愛する夫と息子が、敵から目を逸らさずに前を見ている。

 娘は私の手を、信じ切って強く握っている。


 ああ。

 やっぱり、こうして家族全員で一緒に来て大正解だった。


「クライス様」

「何だ」

「どうやら、エルのための社会科見学の『動く教材(魔物)』が、向こうから都合よく歩いてきておりますわ」

「だろうな。四天王クラスの魔力の気配だ」

「でしたら」

 私はニッコリと、オタクの満面の笑みで微笑んだ。

「お子たちへ、“最強のパパの格好いい無双シーン”を特等席で見せつける、最高のボーナスタイムですわね」

 クライス様が、やれやれと小さく息を吐く。

 でも、その目はもう、獲物を狩る最強の剣士のものだった。


「ルシア」

「はい」

「俺が前衛に出る。お前は魔法の無茶はするな」

「そちらこそ。怪我でもしたら承知いたしませんわよ」

「分かっている」

「……」

「だが」

 クライス様の口元が、ほんの少しだけ、この上なく恐ろしく、そして頼もしく上がる。


「お前たちが期待する『見せ場』なら、俺に任せろ」


「ッ……!!」


 ああもう。

 はい。

 ええ。

 完全に、楽しい旅行気分と、血生臭い討伐遠征が私の中で最高に両立してしまいましたわね。


 魔王城までの道のりは、きっとこれからもっと厄介で険しくなる。

 でも。

 だからこそ、こうして家族の絆で進む意味がある。


 自分たちの手で守りたい日常を、守り抜くために。

 そして何より。


 ――世界一格好いいパパの活躍スチルを、特等席の最前列で、思う存分見せつけていただきますわよ!



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