第82話 復活する魔王軍と、世界各国のパニック
空が不吉な血の色に染まった、その日のうちに。
フェルド辺境伯爵領は、最高に平和で幸せな朝の空気から一転して、完全に『戦時寸前』のピリピリとした空気へ切り替わっていた。
領都の高い見張り台には、ただちに三倍の警戒人員が配置され。
街道には、領内の状況を確認する伝令の馬が飛び交い。
お菓子工房は通常営業を一部止めて、保存食とポーションの備蓄生産へシフト。
温泉街の旅人たちには、ひとまず頑丈な屋内での待機案内がなされ。
屋敷では侍女と使用人たちが、いつでも領民を地下の避難動線へ誘導できるよう、音もなく静かに動いている。
ただし。
誰もパニックになって混乱はしていない。
それはきっと、この領地がここまで、数々の規格外の危機を『領主夫婦の理不尽な暴力』で乗り越えてきたからだろう。
隣国グランゼル皇国の数千の大軍。
神聖教国の経済封鎖と、暗殺部隊の夜襲。
そのたびに、この領地の民は「ご領主様がいれば大丈夫だ」という“慌てない術(絶対の信頼)”を骨の髄まで覚えてきた。
だから今回も、人々は空の異変に怯えながらも、ちゃんとパニックにならずに自分の持ち場へついている。
問題は、領地の外だ。
「空が赤いだけで済めば、ただの珍しい気象現象でよろしいのですけれど」
執務室の窓辺へ立ち、血のような空を見上げながら、私はポツリと呟いた。
その声に、背後で腕を組んだクライス様が低く返す。
「済まないのか」
「ええ、絶対に済まないと思いますわ」
私は振り返り、真顔で答えた。
「前世の乙女ゲームの、ファンディスクの隠しルート“魔王復活”は」
「……」
「この赤い空の演出の後、だいたい世界滅亡レベルの碌なことが起こりませんもの」
クライス様は、私のオタク用語にツッコむことなく黙っている。
だが、その沈黙は“お前の知識で分かる限りの、今後の最悪の予測を具体的に言え”という意味だ。
ええ、分かっておりますわよ。長年連れ添った妻ですから。
私は机の上へ広げた前世の攻略メモ――いえ、正確には、今朝方パニックになりながらも記憶を頼りに羊皮紙に書き出した『バッドエンド要点整理シート』を、ペン先でトントンと叩いた。
「イベントの順番としては」
「……」
「まず、大陸各地での魔物の異常活性化」
「……」
「次に、瘴気による魔物の異常繁殖と凶暴化」
「……」
「そして、街を一つ壊滅させるレベルの『大型個体』の出現」
「……」
「さらに」
私は、最悪のシナリオに顔をしかめる。
「本来なら神話の時代に封じられているはずの“魔王軍の残滓(四天王クラス)”が、この赤い空の影響で封印を解かれ、一斉に動き始めるはずですわ」
「つまり」
クライス様が、戦場を俯瞰する将軍の目で低く言う。
「俺たちの目の届かない大陸の各地で、大規模な同時多発テロか」
「ええ」
私は重く頷いた。
「しかも、これはただの自然災害ではございません」
「……」
「魔王を倒さない限り、無限に魔物が湧き続けて世界そのものがバッドエンドへ傾く、"強制ゲームオーバー"のイベントですもの」
自分で言いながら、胸の奥が泥のように重く悪くなる。
せっかく。
本当にせっかく。
最愛の推しと結婚して、子どもたちも健やかに可愛く育って、領地も大富豪レベルに潤って。
ようやく、何の憂いもない穏やかな家族時間を満喫し、老後に向けて完璧なライフプランを立てていたというのに。
そこへ来て、この理不尽な世界規模の厄介ごと(強制イベント)だ。
(空気を読んでくださいまし……!! 運営の悪意!!)
私は心の中で、前世のゲーム制作陣へ向けて本気で中指を立てて毒づいた。
だが、毒づいて赤い空が消えるなら、今ごろとっくに消えている。
その時だった。
コンコン、と慌ただしく執務室の扉が叩かれた。
「旦那様、奥方様!」
いつになく焦ったハインツさんの声だ。
「入ってよろしくてよ」
「失礼いたします!」
バタン! と扉が開く。
そして、そのハインツさんの両腕の中に、抱えきれないほど山積みになっていた『あるもの』を見て、私は思わず目を瞬いた。
「……あら」
「さっそく、来たか」
クライス様が、面倒くさそうに低く言う。
ハインツさんが抱えていたのは、封蝋の押された『親書(書簡)』の束だった。
それも一通や二通ではない。
山、である。
本当に、物理的な山。
「伝書鷹、魔法使い魔、各国の緊急転送便!」
ハインツさんは、珍しく早口で息を切らして報告した。
「朝から、我がフェルド領への緊急通信が鳴り止みません!」
「でしょうね」
私は静かに、胃を押さえながら頷いた。
「バッドエンドのフラグが、本格的に始まりましたもの」
「差出人はどこからだ」
クライス様が問う。
「王都の国王陛下、隣国グランゼル皇国、北方諸侯連盟、北西の自由港連合、そして神聖教国の暫定教皇庁!」
「……」
「あと、何故か我が領から遠く離れた、南方砂漠王国からも親書が!」
「南方までですの?」
「はい! 赤い空の異変は、大陸全土に及んでいるようです!」
「まあ」
ええ。
そうなりますわよね。
ファンディスクの『隠し最終ルート』ですもの。
一つの領地や国だけの、ローカルな事件で済むはずがない。
「開けますわ。どうせ内容は全部同じでしょうけれど」
私は椅子へ腰を下ろし、一番上の王家の封蝋をペーパーナイフで切った。
最初の一通は、この国のトップ、国王陛下からだった。
最高級の羊皮紙いっぱいへ、あの余裕ある陛下にはたいそう珍しく、インクが飛び散るような急ぎの走り書きに近い筆跡が乱れて躍っている。
『ルシア、クライス。
赤い空の出現と同時に、王都近郊の森で魔物が異常活性化し、スタンピード(大暴走)を起こした。
第一騎士団が出ているが、魔物の数が異常で、規模と被害が全く読めぬ。
お前たち夫婦の、規格外の戦力と見立てがどうしても必要だ。
王としての体裁など捨てて、端的に言う。
国が滅ぶ。頼む、助けてくれ』
「……」
「何と書いてある」
クライス様が問う。
私は書簡から、スッと冷めた顔を上げた。
「とても正直な、プライドを捨てた直球の泣きつき方をされておりますわね」
「陛下らしいな」
「ええ」
私は苦笑する。
「要約すると、“自分たちじゃ無理だから助けてドラ〇もん”ですわ」
次。
隣国グランゼル皇国の書簡。
こちらは、以前、私の前で土下座して国庫が傾くほどの賠償金を払った、あの苦労人のエドゥアルド国王からだった。
『フェルド辺境伯爵夫妻へ。
我が国の国境付近にて、未知の巨大魔獣群の暴走を確認。軍が半壊した。
神殿筋からは“これは我々の傲慢に対する、神の天罰ではないか”という終末論の愚説まで出始めており、国内が絶望で混乱している。
前回のウチのバカ息子の無礼を承知の上で、恥を忍んで頼む。
どうか、お前たちの圧倒的な武力と知見を貸してほしい。
率直に申し上げる。
ルシア様、クライス殿、どうか我が国を助けていただきたい』
「……」
「今度は何だ。隣国か」
「ええ、隣国も」
私は真顔で、ペラペラと手紙を振って答えた。
「大変きれいに、プライドを粉々にして泣きついてきておりますわ」
「そうか」
「ええ。過去のざまぁを反省して、だいぶ素直でよろしいですわね」
さらに次。
神聖教国・暫定教皇庁――つまり、数年前に私が更地にして、改心済み元王太子改め、暫定新教皇候補として過労死寸前まで働いている『アーサー』から。
『ルシア、クライス殿。
聖都周辺の古代の封印遺跡で、未知の巨大な魔力の逆流と爆発を確認した。
旧教皇派の残党が、この世界の終わりに乗じて反乱を起こす可能性もある。
こちらでも聖騎士団を率いて命がけで対処は進めるが、正直に言う。俺たちだけでは無理だ。
お前たちの規格外の知識と、理不尽な戦力が必要だ。
今度こそ、俺の命に代えても教国の民を守るために、どうか力を貸してほしい』
「……」
私は、そこで小さく息を吐いた。
「こちらは、修道院で揉まれただけあって、少しだけ王族らしい責任感のある言い回しに成長しておりますわね」
「要するに、助けてくれ、ではないのか」
「ええ。プライドを捨てた“助けて”と同義ですわ」
「そうか」
「ええ。ポンコツなりに頑張ってはいるようですわ」
ハインツさんが、さらに別の書簡の束を机へドンッ! と置く。
「奥方様、まだ山ほどございます!」
「まあ」
「北西の自由港連合からは、“海にまで巨大な海竜が出たので、奥方様の新航路の魔法による安全保障を至急お願いしたい”と!」
「それは、流通の要ですから困りますわね」
「北方諸侯連盟からは、“赤い空の夜から、大規模な墓地がアンデッド化して騒がしい! 助けて!”と!」
「物理攻撃が効かないのは、やめていただきたいですわね」
「南方砂漠王国からは、“空の色が不吉すぎて、国中の占術師が絶望して泣き叫んで仕事にならない! どうにかして!”と!」
「それは少し自業自得で面白いですわね」
「奥方様、笑い事ではございません!」
「失礼いたしました」
だが、ハインツさんの言う通り、笑ってばかりもいられなかった。
こうして、かつて私たちが関わったすべての大陸中の国々から、一斉に『SOS』の書簡が届くということは、つまり。
大陸中で、完全に同時多発的に『防ぎきれない規模の異変(魔物の暴走)』が起きているということだ。
しかも、それぞれがまだ“何が起きているのか正確に分からない”初期段階で、すでに軍隊が半壊して泣きついてきている。
ということは、現場の最前線ではもっとひどい惨状になっているはずだ。
混乱と被害は、書簡の文面よりはるかに深刻だろう。
「……本格的に、バッドエンドルートが始まっておりますわね」
私は静かに、眉間を揉みながら言った。
「その、魔王軍とやらが原因か」
クライス様が鋭く問う。
「まだ“魔王の本隊”と呼べるほど、魔王自身は目覚めていないでしょうけれど」
私は窓の外の、不気味な赤い空を見る。
「かつての残滓、眷属、瘴気にあてられた暴走個体、その辺りが世界中で連鎖して暴れているはずですわ」
「厄介だな」
「ええ、大変に」
「俺の剣で斬るとして、どの程度の規模と強さだ」
「正直に申し上げますと」
私は、山積みのSOSの紙をトントンと揃えながら、絶望的な事実を答える。
「ゲーム本編のラスボス戦(バカ王太子の断罪)なんて、スライムのチュートリアルに思えるほど可愛いレベルの強さですわね」
「……」
「ファンディスク制作陣の、プレイヤーへの殺意(悪意)を感じる、鬼畜難易度です」
クライス様が、小さく息を吐く。
だが、その横顔は恐怖するどころか、すでに完全に『最強の剣』としての臨戦態勢に入っていた。
◇ ◇ ◇
その日の午後、屋敷の大会議室では緊急の作戦会議が開かれた。
参加者は、領主である私とクライス様。
家令のハインツさん。
大商会頭。
領兵隊長。
そして、子どもたち(エルとリリア)は直接は同席させず、隣室の安全な部屋で待機。
何かあれば、すぐに状況を伝えられるようにしてある。
「まず、結論から申し上げます」
私は机の上に、大陸全土の巨大な地図をバサリと広げながら言った。
「これは、一部の国境防衛などの局地戦ではございません」
「……」
「大陸全土が滅ぶかどうかの、完全な異常事態ですわ」
「原因は、やはりあの不気味な赤い空か」
領兵隊長が、冷や汗を拭いながら問う。
「ええ」
私は重く頷く。
「そして、あの赤い空は、ただの不吉な前兆や自然現象ではなく」
「……」
「古代の『魔王の封印の歪み』を可視化した、魔力汚染の光です」
「魔王の、封印?」
ハインツさんが、神話の言葉に目を細める。
「はい」
私は指先で、地図の北部山脈と東方廃都、そして暗黒大陸を結ぶ線をスッとなぞった。
「古い神話の時代、この大陸では一度、勇者たちによって“魔王”が討たれております」
「おとぎ話の伝承では、確かにそう聞きますが……まさか実在すると?」
「ええ。実在します。でも問題はそこではなく」
私は深刻な顔を上げた。
「勇者たちは魔王を討っただけで、その強大すぎる存在を、完全には消滅できていないことです」
「……」
「倒すことはできず、巨大な封印指定箇所に分割して眠らせて、世界の表面から無理やり隔離(隠蔽)しただけ」
「つまり」
クライス様が、話の核心を突いて低く言う。
「その封印の要の何かが、揺らいで解けかかっているのか」
「その通りですわ」
私は、頭の奥の記憶を必死に手繰り寄せる。
ファンディスクの断片的なシナリオ。
分厚い公式攻略本の隅に書かれていた、小さな裏設定集。
隠しシナリオの中でだけ語られる、“古代魔王封印機構”のシステム。
「本来なら」
私は地図の要所を指差して言う。
「世界各地の要所へ点在する『五つの封印核』が、互いの魔力を循環させて魔王の本体を抑え込み、支えているはずでした」
「……」
「でも今、世界中の全部の空が赤い」
「……」
「つまり、どこか一つの封印が壊れたのではなく、五つの封印すべてが同時に緩んで、魔王の瘴気が漏れ出しております」
部屋が、シン……と水を打ったように静まり返る。
ああ。
そうでしょうとも。
なかなか、笑えない絶望的な状況ですものね。
世界中を閉じ込めていた地獄の檻の鍵が、一斉にすべて外れかけている、というパニック映画の導入みたいな話なのだから。
「我々の対処はどうする」
ハインツさんが、冷静さを保って問う。
私は一瞬だけ黙った。
対処。
それ自体は、ある。
あるにはあるのだ。攻略法は知っている。
だが問題は、その“ある”が、普通の人間にとっては『絶対にクリア不可能なほど無茶苦茶な条件』だということだ。
「まずは、各国のSOSを整理し、各地の異変規模と残滓の強さを正確に把握」
「……」
「次に、赤い空の濃さから、五つの封印核の正確な位置を特定し、再封印」
「……」
「そして」
私は深く、重い息を吸った。
「最終的には、暗黒大陸へ乗り込み、『魔王本体』を私たちの手で物理的に完全に叩き潰す(討伐する)しかございません」
「ま、魔王の本体を……!?」
領兵隊長の顔色から、一気に血の気が引いて白くなる。
「ええ」
私は淡々と、絶望的な事実を続けた。
「でなければ、瘴気のある限り、四天王クラスの魔物の残滓は、倒しても倒しても無限に湧き続けます」
「……」
「雑草の根(魔王)を残したまま、上の葉っぱ(魔物)だけを刈り続けるような、終わりのない防衛戦ですわ」
「それは」
大商会頭が、ブルブルと震えて青ざめた。
「つまり、放置すれば、世界中から未来永劫、我々に助けを求めて泣きつかれ続けると」
「そうなりますわね」
私は即答した。
「しかも、そのたびに我が領の流通は止まり、収穫祭のお祭りも中止になり、私の愛する家族との水入らずの団らんの時間も、全部サビ残で圧迫されます」
「……」
「……」
「……え?」
絶望的だった部屋の空気が、妙な意味でピタリと固まった。
「お、奥方様」
ハインツさんが、メガネを押し上げながら慎重に口を開く。
「最後の『家族時間』のところだけ、たいへん個人的な『怒り(私怨)』が混ざっておりませんか」
「当然ですわ」
私は真顔で、バンッ! と机を叩いて答える。
「せっかくこの前、家族四人で変装して、感謝祭でお忍びデートまで楽しんで、平和を噛み締めていたのですもの」
「そ、そこですか……世界の危機より」
「そこです。そこが私にとって一番重要なのです」
「……」
「何より」
私はそっと、怒りでワナワナと震える拳を握る。
「今の私は、世界の危機よりも、だいぶ本気で不機嫌です」
「理由は」
クライス様が、呆れたように問う。
私は、机の上へバサリと『一枚の巨大な羊皮紙』を置いた。
そこには、私が夜なべしてびっしりと何かを書き込んでいる。
日時。
場所。
エルとリリアの年齢。
季節ごとの領地の行事。
二人の子どもたちの進学と成長予測。
そして――クライス様と二人きりになった後の、温泉旅行などの『完璧な老後の希望欄』。
ハインツさんが、目を細めてそれを読む。
「これは……フェルド領の長期計画書ですか?」
「いいえ、クライス様との『穏やかで完璧な老後計画年表(推し活スケジュール)』ですわ」
「……ええと」
「昨日の夜、子どもたちが寝た後に、幸せな気分で一人でニヤニヤしながら少しだけ見直しておりましたの」
「……」
「それが」
私は、窓の外の赤い空を憎々しげに見上げた。
「このふざけた魔王復活のバッドエンドのせいで、全部サビ残(討伐)でスケジュールが狂うかもしれないのです。許せませんわ」
沈黙。
それから。
クライス様が、深く、長く呆れたような息を吐いた。
「なるほど」
「ええ」
「お前が、世界の滅亡よりも、自分の推し活のスケジュールを邪魔されて、だいぶ本気で怒っていることはよく分かった」
「そうでしょうとも」
私はキッパリと、魔王のような顔で言った。
「私の完璧な『推しとの老後計画』を邪魔する気ですのよ?」
「……」
「相手が世界滅亡の危機だろうが、神話の魔王だろうが」
私は静かに、邪悪に笑った。
「その、私のささやかな幸せ(オタクの夢)を邪魔したという一点だけで、だいぶ万死に値して許せませんわね」
クライス様の端正な口元が、ほんの少しだけ、嬉しそうに上がる。
ああ。
ええ。
世界の危機に笑っていらっしゃる場合ではないのだけれど。
でも、この人は、こういう非常時ほど私の“怒りの軸”がどこにあるかで、安心するのだろう。
「……ルシア」
「何ですの」
「そのお前の完璧な老後計画」
「はい」
「魔王ごときに、絶対に邪魔させるな」
「もちろんですわ」
私は即答した。
「邪魔など、指一本させませんとも」
◇ ◇ ◇
緊急会議が終わった後。
私は隣室で大人しく待っていた、子どもたちのところへ向かった。
リリアは少し不安そうな顔で、うさぎの絵本をギュッと抱いていた。
エルは椅子へ座っていたけれど、やはり外の異常な気配に落ち着かないらしく、膝の上で小さな手を固く組んでいる。
「おまたせいたしましたわ」
「おかあさま!」
リリアがすぐに駆け寄ってきて、私のドレスにしがみつく。
「どうだった? そら、あかくてこわいよ」
「大変、オタクにとって面倒なサビ残が発生しましたわね」
私は率直に、溜め息をついて答えた。
「でも」
私は二人の前へしゃがみ込み、その小さな肩を抱く。
「大丈夫ですわ」
「ほんと?」
「ええ」
「父上も、会議の前にそう言ってた」
エルが小さく、安心したように言う。
「そうですの?」
「うん。俺が全部斬るから心配するな、って」
「では」
私は世界一頼もしい母の顔で微笑んだ。
「なおさら本当ですわ。パパが言うなら絶対です」
その時、窓の外で赤い空が、さらにドクンと濃く脈打つように揺れた。
ああ。
はい。
分かっておりますとも。
これは、絶望の始まりにすぎない。
これから魔王軍の残滓は各地で本格的に動き出す。
各国はパニックになって混乱する。
国王たちからの泣きつきの親書は、これからもっと絶望的な内容で増えるだろう。
でも。
私は子どもたちのやわらかい頭を撫でる。
その小さなぬくもりへ触れた瞬間、胸の中の苛立ちは、きれいに『研ぎ澄まされた一本の強靭な殺意(意志)』へ変わった。
――この子たちの平和な日常を、私の完璧な老後計画を、二度と脅かさせない。
世界が滅ぶとか。
古代の封印がどうとか。
伝説の魔王がどうとか。
もちろん、この世界に生きる人間として大事だ。
でも、私にとって一番大事なのは、やっぱりそこ(推しの平穏)だった。
「ルシア」
廊下の向こうから、マントを羽織ったクライス様が呼ぶ。
「何ですの」
「まずは、王都の陛下へ返書を書く」
「ええ」
「隣国にも」
「ええ」
「あのポンコツの教国にも」
「……ええ」
私はゆっくりと立ち上がる。
「事務処理で大忙しですわね」
「そうだな。お前の嫌いなサビ残だ」
「でも」
私は、子どもたちの肩をそっと抱き寄せ、無敵の笑みで振り返った。
「あの魔王もろとも、全部まとめて、私たちが物理的に片づけて(更地に)差し上げますわ」
不吉な赤い空の下。
大陸中が、未知の魔王の恐怖でパニックに陥ろうとしている中で。
私の胸の奥には、奇妙なくらい静かな『限界オタクの静かなる怒り』だけが燃え盛っていた。
国王も。
隣国も。
教国も。
皆、絶望して泣きついてくるだろう。
『ルシア様、クライス様、助けて! 世界が終わる!』
――ええ、仕方ございませんわね。有能な私たちの出番ですわ。
ただし。
その人助けの前に、まずは一つだけ。
復活した魔王様には。
私の立てた『推しとの完璧な老後計画』を邪魔して白紙に戻したこと、物理的にボコボコにして、きっちり骨の髄まで後悔していただきませんとね。




