第65話 推しの遺伝子、奇跡の成長。毎朝が供給過多で息ができません
子どもという生き物は、なぜあんなにも、ある日ふと急に“成長した”と感じさせるのだろうか。
昨日まで、よちよちと覚束ない足取りで庭を駆け回っていたはずなのに。
昨日まで、おもちゃの木剣を持つだけでふらついて尻餅をついていたはずなのに。
昨日まで、「おかあさまだっこぉ!」と短い腕を伸ばして胸へ飛び込んできていたはずなのに。
気づけば、あたたかい朝の光の中で。
「おはようございます、母上」
小さな身体できちんと騎士のように背筋を伸ばして礼をする、出来上がりすぎた美少年がいる。
「おかあさま、おはようございます! きょうは、このむらさき色のリボンの方がすてきだとおもいますの」
鏡の前で自分の銀髪を結び直しながら、完璧に愛らしい淑女の笑顔を向けてくる、大天使のような美少女までいる。
「…………(尊い)」
私は、朝の身支度部屋の入口で、その光景を目にした瞬間、ピタリと石像のように静止した。
息が。
オタクの心臓が止まって、息ができませんわね。
「お嬢様?」
後ろに控えていた侍女が、不思議そうに固まった私を見る。
「あら、失礼いたしました」
私はハッとして、早鐘のように鳴る胸元へギュッと手を当てた。
「少々、朝一番からの『致死量の供給過多』で処理落ちして固まっておりましたの」
「またですか」
「またですわ。毎日のことですもの」
だって、限界オタクの母として仕方がないではないか。
今年で八つになる長男エルは、日々ますます夫のクライス様へ似てきた。
銀灰がかった髪は父譲りの落ち着いた艶を帯び、蒼い瞳は年齢にそぐわぬ理知的な静けさを湛えている。口数は多くない。だが、だからこそ、彼がふと無防備に笑った時のギャップの破壊力が凄まじい。
しかも最近では、顔だけでなく『立ち姿』まで父親に似てきたのだ。
話を聞く時の腕の組み方。
横顔の視線の流し方。
少しだけ考え込む時の、眉の寄せ方。
その一挙手一投足が全部、“ミニチュアサイズのクライス様”なのである。
一方、六つになった長女リリアは、私に似たフワフワの銀の髪と紫の瞳を持ちながら、表情の豊かさと人懐っこさは前世の私(社畜)以上だ。
よく笑い、よく喋り、よく甘える、まさに我が家の太陽。
だが、その愛らしい笑顔の奥には、時折ゾッとするほど周囲の空気を読む鋭い観察眼がある。
……ええ、多分、そこは良くも悪くも、前世の私の『空気を読む社畜スキル』に似てしまったのでしょうね。
「母上」
エルが一歩、真面目な顔で近づいてきた。
「今日は、午後に南の農地の視察へ行かれるんですよね」
「ええ、その予定ですわ。よく覚えていましたね」
「でしたら」
彼は少しだけ照れたように目を伏せ、それからスッと手を差し出した。
「これ、どうぞ」
小さな手の中には、可愛らしい野の花が一輪。
今朝、庭を散歩した時に摘んでくれたのだろう。
まだ綺麗な朝露を残した、白い可憐な花。
「…………(ドカンッ)」
私の脳内で何かが爆発し、私はその場で崩れ落ちそうになった。
何ですのそれは。
朝からそんな。
推し(夫)の遺伝子を色濃く感じさせる不器用で無口な優しさを、いきなりノーモーションで投げてこないでいただきたい。
「エル」
私は震える声で愛息の名を呼ぶ。
「はい」
「あなた」
「はい」
「存在そのものが、尊すぎますわ」
「……?」
「おかあさま? とうといってなに?」
リリアがキョトンと首を傾げる。
私は花を震える両手で受け取り、そっと宝物のように胸へ抱いた。
ああもう、無理ですわ。
朝から尊い。
本当に我が子が尊すぎる。
「母上、なんで泣いてるんですか……?」
「これはオタクの感動の涙です」
「またですか?」
「またですわ」
「おかあさま、へんなのー!」
リリアがクスクスと笑う。
そのコロコロとした笑い方まで最高に可愛いのだから困る。
しかも彼女は次の瞬間、自分の小さな髪飾り箱をゴソゴソと漁り始めた。
「じゃあ、リリアもあげる!」
「何をなさるの」
「おかあさま、きょうはエルのおはなにあわせて、きらきらした方がいいとおもいますの!」
そう言って、お気に入りの小さな宝石のついた髪留めを私へ差し出してくる。
「……ッ(追い討ち)」
今度は娘からのファンサですの!?
「おかあさま、ぜったいこれ、にあいますわ」
「まあ……ありがとう、リリア」
「ほら、このおとこのひとの目みたいなあおい色、おかあさまのおめめ(紫)にぴったりですもの!」
「…………」
だめですわね。
本当に。
毎朝がこの調子で最高の供給過多で、オタクの母は息ができません。
◇ ◇ ◇
朝食の席でも、その命がけの供給は続いた。
「父上、おはようございます」
先に席へついてコーヒーを飲んでいたクライス様へ、エルが小さな騎士のように完璧な礼を取る。
声色まで、少し低く似てきた。
子どもらしくなく落ち着いていて、必要以上に甘えない。
でも、ちゃんと父を『最強の騎士』として尊敬しているのが声に滲んでいる。
「おはよう、エル。よく眠れたか」
クライス様も短く返す。
その声音が、子どもへ向ける時だけ、あの“氷の騎士”とは思えないほど甘くやわらかい。
はい、尊い。
「おとうさまー!」
リリアは挨拶もそこそこに、真っ直ぐクライス様の大きな膝の上へ突撃した。
「きょうね、リリア、自分でこのリボンむすべたの!」
「そうか」
「ほめてください!」
「よくできたな。お前は賢い」
そう言って、クライス様が優しく微笑み、娘の頭を大きな手で撫でる。
「…………(昇天)」
だめですわ。
二世代の供給が同時に来ましたわ。
父の大きな剣ダコのある手と、娘の小さな銀色の頭。
その絵画のような構図が、すでに後世に残すべき芸術である。
しかもエルはそのすぐ隣で、表面上は“僕はもうお兄ちゃんだから”と落ち着いているくせに、少しだけ羨ましそうに妹が撫でられるのを見ているのだ。
ああ、いけません。
その“ぼくも撫でてほしいけど我慢する”みたいな顔、本当にオタクの母の庇護欲を刺激していけませんわ。
私は朝のスープを前に、そっと天を仰いで神(ゲームの制作陣)に感謝した。
「ルシア」
「はい」
クライス様が、少し呆れた、けれど甘やかすような声音で呼ぶ。
「スープが冷めるぞ。また朝から固まっている」
「仕方ございませんでしょう」
私は真顔で答える。
「推しの供給源が増えた上に、年々その質が爆上がりしておりますのよ?」
「供給源」
「最愛のクライス様に加えて、この天使のようなお子たちですわ」
「……」
「しかもお二人とも、日々順調にクライス様の『最強の遺伝子』を素晴らしく育ててくださって」
「朝から何を言っているんだ、お前は」
「1ミクロンも嘘偽りのない本音です」
「知っている。お前は昔からブレないな」
エルが、こっそり私を見た。
「母上」
「何かしら、エル」
「母上の言う『推し』って、やっぱり、よく分かりません。偉い人のことですか?」
「まあ」
私はニッコリと慈愛の笑みを浮かべる。
「大丈夫ですわ。今は分からなくても」
「はい」
「いずれ、自分の命より大事なものを見つけた時に分かりますわ」
「……」
「ただし、私はもう、とっくに自分の推しが誰か分かっておりますのよ」
そう言いながら、私は卓の向こう――ではなく、隣に座る愛するクライス様へ熱い視線を向ける。
「私の人生の『元祖推し』が、こちらにおりますので」
「がんそ?」
クライス様の膝の上で、リリアが首を傾げた。
「一番最初の大切な人、という意味ですわ」
「じゃあ、おとうさまが一ばん?」
「そうですわ。不動のセンターです」
「じゃあ、エルは?」
「尊すぎる二世代目推し(若手ホープ)です」
「リリアは?」
「当然、二世代目推し(大天使)ですわ」
「やったー!」
リリアが意味もわからず嬉しそうに両手を上げる。
一方でエルは、少し賢い頭で考え込んでから、ポツリと聞いた。
「……それって、騎士として褒められてるんですか?」
「最大級に」
私は即答した。
「光栄に思ってよろしくてよ」
「はあ……」
「納得しておりませんわね?」
「少しだけ。母上の言葉は難しいです」
「まあ、その素直ではないクーデレなところまで、お父様そっくりで可愛いですわね……!」
「母上」
「何ですの」
「顔が近いです。恥ずかしいです」
「無理ですわ。可愛すぎますもの。スリスリさせてちょうだい」
すると、その騒がしいやり取りを聞いていたクライス様が、小さく息を吐いた。
「ルシア」
「はい」
「朝食くらい、落ち着いて座って食べろ。エルが困っているだろう」
「無理ですわ」
「相変わらず即答だな」
「だって」
私は胸に手を当てる。
「目の前で、私の最推しの遺伝子が奇跡の成長を遂げているのですもの」
「……」
「毎朝が、ファン感謝祭みたいなものですわよ?」
「相変わらず、意味が分からん」
「分からなくてよろしいです。私の心の問題ですから」
「そうか」
「そうです」
クライス様は呆れている。
だが、その目元はどこか、愛する妻と家族を見るやわらかい光に満ちている。
もう完全に慣れたのだろう。
私の“夫一人から家族全体へ拡大した重すぎる推し活”に。
ええ。
慣れていただかなくては困りますわ。
これから先、お子たちはますます立派に成長なさるのですもの。
私の摂取する供給量は、減るどころかむしろ増える一方でしてよ?
◇ ◇ ◇
食後、子どもたちはそれぞれの予定(お勉強)へ向かった。
エルはクライス様と、中庭で午前の軽い剣術稽古。
リリアは私と一緒に、庭の魔法植物の観察と、領主の娘としての読み書きの時間。
それが最近のフェルド家の定番になりつつある。
「おかあさま」
庭へ出る途中、リリアが私の手をギュッと握った。
「なにかしら」
「おとうさまとエルって、すごくにてますわよね」
「ええ」
私は深く、同意の意を込めて頷く。
「とても。奇跡のDNAですわ」
「かっこいいですわよね」
「ええ。世界一ですわ」
「リリアも、ああいうふうになれます?」
「もちろんですわ」
私は立ち止まり、娘のやわらかい額へそっと口づける。
「リリアはリリアのままで、世界一可愛くて、そして賢くて強い淑女になりますわ」
「ほんとう?」
「ええ。ママが保証します」
「じゃあ、リリア、おべんきょうがんばります!」
「まあ、えらい」
何ですの、この素直な天使は。
私は歩きながら、心の中で何度目か分からないほど神(と乙女ゲームのシナリオライター)へ感謝していた。
クライス様という最高の推しがこの世に存在しているだけでも奇跡だったのに、その分身みたいな愛おしいお子たちまで授かれるなど。
本当に、前世で過労死した甲斐があったというものですわね。
その時。
庭の向こうの訓練場から、木剣の打ち合う乾いた音がした。
――パァンッ。
――パァンッ。
私はピタリと足を止める。
「あら」
「おかあさま?」
「リリア」
私は真顔で、娘へ向き直った。
「ママ、少々、あちらを見てきてもよろしくて?」
「おとうさまとエルの、けんのおけいこ?」
「ええ」
「いいですわよ? リリアもみます!」
「ありがとうございます!」
私は反射的に、庭の東側へ身体を向けた。
やはり。
やはり始まっておりますのね。
親子二代の推しによる、胸熱な剣術稽古(朝のボーナスタイム)が。
「おかあさま、はしってますわ」
「これは淑女の早足です」
「ぜったいちがいます。はやいです」
「うふふ、バレましたかしら」
だって、仕方がないではないか。
そんな神イベント、オタクとして見逃せるはずがないでしょう?
木立を抜けた先、フェルド邸の小さな訓練場。
そこに、クライス様とエルが真っ直ぐに向かい合っていた。
父は軽く片手で木剣を構え、
息子は真剣な顔で、両手でしっかりとそれに向き合う。
背丈はまだずいぶん違う。
けれど、構えの重心(芯)はもう驚くほど似ている。
踏み込みの前の呼吸の整え方も、相手を見る目線の置き方も、完全に遺伝しているのだ。
「ああ……」
私は思わず、その場で尊さに胸を押さえた。
「もう、だめですわね……」
「おかあさま?」
「供給が」
「きょうも?」
「本日最大級ですわ……!」
リリアが、そんな私を見てクスクス笑う。
ああもう、この子まで可愛い。
私は木陰のベンチに座り、そっとその光景を特等席で見守った。
クライス様が短く剣の軌道を教え、エルが真剣に頷き、もう一度木剣を力強く振る。
まだ幼いのに、父の教えを一つひとつちゃんと吸収しようとしている、そのひたむきな顔がたまらない。
しかも、それを見つめるクライス様の目が、昔の戦場での鋭さではなく、確実に『父としてのやわらかな厳しさ』を湛えているのだ。
(尊い……尊さで焼け死にそうですわ……)
本当に、毎朝がこのレベルの供給過多で息ができませんわね。
でも。
それでいい。
むしろ、ずっとこのままでいてほしい。
だって私は、もう骨の髄まで知っているのだ。
推しがいる人生は最高だ。
そして、その推しとの間に生まれた奇跡の遺伝子が、目の前ですくすくと育っていく人生は――その何億倍も、最高にハッピーなのだと。




