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婚約破棄の瞬間に「前世の記憶」が戻りまして。〜ヒロインの座は譲りますので、私は推しキャラの側仕えを目指します!〜  作者: 綾瀬蒼


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第66話 長男の剣術稽古。夫と息子の手合わせという特等席

 その日の朝、私は目覚めた瞬間に思い出した。


 ――本日は、我がフェルド家が誇る『親子二代推し』による、胸熱な剣術稽古(手合わせ)の日ですわ。


「…………(ドッ、ドッ、ドッ)」


 寝台の上で、私は静かに両手を組み、早鐘のように鳴る心臓を鎮めようと努めた。


 何ですの、この朝起きた時点で確定している致死量の幸福ファンサは。

 昨日からスケジュール帳に赤丸をつけて分かっていた予定とはいえ、改めて頭の中で口にすると、オタクの胸の高鳴りが止まらない。


 あの無敵の『氷の騎士』であるクライス様が、長男のエルへ本格的に剣の型を教えてくださる。

 しかも、今日はただの基礎の素振り反復だけではなく、ついに『軽い手合わせ(模擬戦)』まで見せてくださる予定だ。


 つまり。


 世界最強の父である最推しと。

 その奇跡の遺伝子を色濃く受け継いだ、未来の最強騎士たる息子推しが。

 同じ朝の光の差す訓練場で。

 木剣を交えて、汗を流す。


「無理ですわね」

 私は天井を見つめたまま、真顔で呟いた。

「朝の段階で、すでに尊すぎて私のHP(命)が無理ですわ」


「お嬢様、朝から何が無理でございますか」

 寝室のカーテンをシャッ! と開けていた侍女が、いつものように呆れた冷静な声で問う。


「本日の、我が家の幸福度(作画コスト)が高すぎる件についてです」

「左様でございますか。いつものことですね」

「しかも」

 私はムクリと、ゾンビのように起き上がった。

「今日はただ遠巻きに見るだけではございません」

「はい」

「特等席(アリーナ最前列)での、最高の観覧環境を整えねばなりません」

「……また、いつものアレが始まりましたね」


 ええ、始まりましたとも。


 推したちの神聖な剣術稽古を鑑賞するということは、ただその辺に立って遠巻きに眺めればいいという適当なものではない。

 礼儀正しい姿勢が要る。

 完璧な環境が要る。

 適度な日陰と、上質な紅茶と、甘すぎず重すぎない焼き菓子、そして何より――。


「最も推しが輝く『見やすい角度』が要りますわ」

「角度、ですか」

「ええ」

 私はキッパリと、前世のカメラマンのように言った。

「クライス様の流麗な踏み込みが映え、エルの必死な構えの美しさがよく見え、なおかつお二人の滴る汗と、真剣な横顔と正面の両方を、一切の障害物なく追える完璧な位置アングル

「……」

「そこへ、私の椅子と小卓をセッティングなさい」

「かしこまりました。ただちに」


 侍女が一切逆らわずに淀みなく頷くあたり、ウチの使用人たちも私の奇行(推し活)にだいぶ慣れて(調教されて)しまいましたわね。

 領主夫人として良いことなのか、少し分かりませんけれど。


 ◇ ◇ ◇


 朝食の席でも、私はずっとソワソワ、ウズウズしていた。


「母上」

 パンを上品にちぎっていたエルが、少しだけ不思議そうにこちらを見る。

「今日は、朝からすごく楽しそうですね」

「まあ」

 私はニッコリと、満面の笑みで笑った。

「顔に出てしまって、分かってしまいました?」

「はい。いつもの三倍くらい輝いてます」

「当然ですわ。命の輝きですもの」

「どうしてですか?」

 リリアが、蜂蜜を口元につけながらキラキラした目で聞いてくる。

「きょう、おまつりがあるの?」

「ある意味では」

 私は大きく、深く頷いた。

「ママにとっては、年に一度の大祭典(神イベント)ですわ」

「さいてん?」

「ええ。エルとお父様の、初めての手合わせ(剣術稽古)ですもの」

「……」

 エルが、ほんの少しだけ照れたように耳を赤くした。


 ああ、可愛い。

 最近、こうして真っ直ぐ褒めると、父親譲りのクーデレを発揮して照れるようになったのですわよね。

 そこもまた大変良い。DNAの奇跡。


 クライス様は、そんな私の様子を見て、スープへ手を伸ばしながら低く呆れたように言った。


「ただの朝の軽い手合わせだ。大袈裟な」

「ただの、ではございません」

 私は真顔で即座に返す。

「親子二代の推しの手合わせなど、私にとっては国を挙げての祝日・国家行事級ですわ」

「お前の頭の中の国家は、随分と平和だな」

「いいえ、推し活で毎日大忙しですわ」

「そうか」

「そうです」


 クライス様は小さく息を吐いた。

 だが止めはしない。

 止める気がないのか、妻のオタク気質をもう諦めているのか、その両方か。

 多分、海より深い愛で全部受け入れてくださっているのでしょうね。


「エル」

 クライス様が、スッと父親の顔で息子へ視線を向ける。

「朝食はきちんと残さず取れ」

「はい」

「腹に力が入らないと、踏み込みの足元がブレる」

「分かっています」

「返事だけで終わるな。実戦で示せ」

「終わりません。必ず見せます」

「よし」


 短い、男同士のやり取り。

 たったそれだけなのに、私の胸が尊さで爆発しそうになる。


 ああ。

 父が息子へ、最強の騎士として当然のように稽古の心得を伝え、

 息子がそれを、次代の騎士として真っ直ぐに受け止めている。

 この構図。

 この尊さ。

 朝から摂取してよろしい致死量を超えておりますわね。


「おかあさま」

 リリアが私の袖を引く。

「リリアもみる!」

「もちろんですわ」

「おちゃ、ありますの?」

「当然です」

「あまいおかしも?」

「抜かりなく。特等席をご用意しておりますわ」

「やったー!」


 リリアが両手を上げてバンザイして喜ぶ。

 何ですの、この可愛い生き物は。

 娘の方は剣術そのものより、お茶会つきの観覧席ピクニックへワクワクしているらしい。

 分かりますわよ。

 推しを眺めながらの特等席のティータイムは、オタクの至福ですものね。


 エルが、少しだけ不安そうにポツリと言った。


「……そんなに特等席でジッと見られてると、少し緊張します」

「まあ」

 私は思わず、キュンとして胸を押さえた。

「その強がれない等身大の反応も、また大変よろしいですわね……!」

「母上」

「何ですの」

「やっぱり、顔がちょっと近いです。恥ずかしいです」

「無理ですわ。可愛すぎますもの。撫でさせてちょうだい」

「……」

「諦めてよろしくてよ」

「はい……」


 ああもう。

 どうしてこの子は、父親似のクールな落ち着きと、時々年相応に照れる可愛さを完璧に両立できてしまうのかしら。

 奇跡ですわね。

 推しの遺伝子とは、本当に偉大で恐ろしいですわね。


 ◇ ◇ ◇


 そして、運命の午前。


 フェルド邸の広大な訓練場の東端。もっとも日当たりと風通しが良く、なおかつお二人の動きが完璧なアングルで拝める一角には、私の指示通りの『完璧な観覧席』が整えられていた。


 白い上品な小卓。

 クッションを重ねた、長時間座っても疲れない長椅子。

 日差しを遮る薄青の天幕。

 冷ましすぎない、絶妙な温度の最高級の紅茶。

 雪花菓子の小ぶりな詰め合わせ。

 それから、稽古終わりのエルの好物である『冷やし蜂蜜乳菓』も氷で冷やして用意済みである。


「完璧ですわね」

 私は腕を組み、満足げにウンウンと頷いた。


「おかあさま」

 隣でリリアが目を丸くしている。

「これ、けんじゅつのきびしい見学ですわよね?」

「ええ」

「どうして、優雅なお茶かいみたいになっておりますの?」

「両立できるものは、効率よく両立すべきですわ」

 私は前世のライフハックのように当然の顔で答えた。

「尊いものは、最も上質な環境でリラックスして拝見するのが、推しへの最高の礼儀ですもの」

「そうなんだ……おかあさまはすごいね!」

「そうですわ。ママはすごいですのよ」


 リリアはまだ完全にはオタクの流儀に納得していないようだったが、目の前のキラキラした焼き菓子を見てすぐに「おいしそう!」と機嫌を直した。

 大変に分かりやすくて、チョロくて可愛いですわね。


 その時。

 訓練場の中央へ、クライス様とエルが並んで出てきた。


「…………」


 私は、静かに呼吸を止めた。


 クライス様はいつも通りの訓練衣姿だ。

 余計な装飾の一切ない、黒の軽装。

 なのに、ただそこに立っているだけで一枚の絵画になる。

 いや、もはやただ呼吸して立っているだけで尊い。


 そして、その隣。


 エルも、今日はクライス様とお揃いの、特注の小さな黒い訓練衣をきっちり着込んでいた。

 銀灰の髪は邪魔にならないよう後ろで軽く結ばれ、手には彼専用の子ども用の木剣。

 まだ身体つきは細く幼い。

 けれど、背筋をピンと伸ばして、尊敬する父の隣へ並んで立つその姿は、すでに“騎士の卵”としての凛とした気配を纏っている。


「……ああ」

 私は思わず、声にならない感嘆の吐息を漏らした。

「もう、だめですわね……」

「おかあさま?」

「いえ」

 私はそっと、激しく鳴る胸元を押さえた。

「少々、画面の良さに視力が浄化されておりますの」

「また?」

「またですわ。毎日です」


 クライス様が、まずゆっくりと手本として構えを取る。

 足幅。

 重心の落とし方。

 視線。

 そのすべてを、エルも真剣な目で見て、自分の身体で真似る。


「右の肘は、引きすぎるな。次が遅れる」

「はい」

「肩の無駄な力を抜け。剣の重さに振られるぞ」

「……こう、ですか?」

「そうだ。良くなった」


 一つひとつの指導は、言葉少なで短い。

 けれど的確で、どこまでも分かりやすい。

 エルもまた真剣な顔で、父の言葉を一滴残らず吸い込んでいく。


 そして何より。


「踏み込みは、足からではなく『先の腰』だ」

「腰……」

「足から行くと、体重が乗らずに剣が流れる。威力が死ぬ」

「はい」

「見ていろ」


 クライス様が、スッ、と無音で一歩前へ出る。

 ただそれだけの動作なのに、恐ろしいほど美しい。

 身体の軸が1ミクロンもブレず、一切の無駄がなく、空気ごと真っ二つに切り裂くような、静かで重い踏み込み。

 ああ、分かります。

 分かりますとも。

 間近でこれを見せられれば、エルが憧れて「強くなりたい」と願うのも当然ですわ。


「おとうさま、しゅごい」

 リリアがお菓子を食べる手を止めて、素直に呟く。

「ええ」

 私は力強く、誇らしげに頷いた。

「ママの旦那様は、世界一ですわ」


 エルがそれを見て、同じように一生懸命に踏み込む。

 まだ筋力が足りないぶん、少し前のめりにバランスを崩す。

 するとクライス様の木剣が、スッと伸びて、優しくそのエルの木剣を押さえて支えた。


「焦って急ぐな」

「……はい」

「剣は、ただの腕の速さより先に『美しい形』だ」

「形」

「ブレない綺麗な形で振れるようになれば、本当の速さと重さは後から必ずついてくる。今は焦るな」


「…………」


 ああ。

 名言ですわね。育児書に載せたいですわ。


 私は思わず、卓上のメモ帳へ猛スピードで今のセリフを書き留めそうになってしまった。

 いけない。

 今日はファンとしての観覧日であって、議事録作成のサビ残日ではございませんのに。


「おかあさま」

 リリアが、私の顔を下から覗き込んでコソコソと聞いてくる。

「どうして、そんなにおめめがウルウルしてるの?」

「オタクの感動ですわ」

「また?」

「またです」

「へんなのー!」

「ママの愛が、海より深いと言ってくださいまし」


 ◇ ◇ ◇


 しばらく基本の素振りの反復が続いた後。

 いよいよ、本日のメインイベントである『軽い手合わせ』の時間が来た。


「エル」

 クライス様が木剣をだらりと下段に下ろし、静かに問う。

「やるか」

「……はい」


 短い返事。

 だが、その幼い声には、はっきりと武者震いするような『緊張と決意』がちゃんと乗っていた。


 私は反射的に、長椅子の上で背筋を伸ばした。

 天幕の下、特等席の一番前のめりの端へ寄る。

 美味しい紅茶は一旦置く。

 大好きな雪花菓子も後回し。

 ここから先は、一瞬たりとも、瞬きすらして見逃してはならない。


「おかあさま」

「何かしら」

「そんなに前のめりだと、いすから落ちますわよ」

「大丈夫です。体幹は鍛えております」

「ぜんぜん大丈夫そうじゃないですわ。おちそうです」

「お気遣いありがとう、リリア。優しい子ですわね」

「でもおちたほうがおもしろいから、そのままでいいです!」

「そうですの?」

「はい!」

「……よろしい判断(ドS)ですわね。誰に似たのかしら」


 訓練場の中央。

 父と息子が、ついに真っ直ぐに向かい合う。


 クライス様は、あくまで軽い隙だらけの構えだ。

 当然、大人の本気のそれではない。

 けれど、だからといって「ただの子ども扱い」して甘やかしているわけでもない。

 相手が自分の幼い子どもでも、きちんと『一人の剣士の卵』として、敬意を持って向き合っている顔だった。


「一太刀でいい」

「はい」

「お前の全力で、俺に好きに打ち込んでこい」

「……ッ」


 エルが、小さく、しかし深く息を吸う。


 その横顔。

 真剣で、極度に緊張していて、でも蒼い目は絶対に父から逸らしていない。

 幼いながらも、ちゃんと父の巨大な壁を見ている。

 いつか追いつきたいものとして。

 超えたいものとして。

 そして、きっと、心の底から尊敬して大好きな相手として。


(ああああ……!!)


 尊い。

 本当に、胸が熱くなるほど尊い。


「行きますッ!!」

 エルが、小さな身体で力強く踏み込んだ。


 小さい。

 まだ軌道も荒い。

 でも、迷いのない、真っ直ぐな一撃だった。


 上段から渾身の力で振り下ろす。

 クライス様の木剣が、それを最小限の動きで軽く流す。

 けれど、ただ防いで終わるだけではない。

 流した瞬間、エルの体勢がどこでどう崩れたかまで、身体できっちり分からせる絶妙な角度だ。


「まだ踏み込みが重い。足が残っている」

「はいッ!」

「もう一度」

「はいッ!」


 二度目。

 三度目。

 エルは息を切らしながらも、必死に食らいつく。

 最初よりも明らかに良い。

 踏み込みが少しだけ無駄がなく静かになり、肩と腕の無駄な力が抜けてきている。

 それを見て、クライス様の口元がほんの少しだけ、嬉しそうに動いた。


「そうだ。今の形だ」

「……!!」

 その「父親に認められた」という一言で、エルの真剣な顔が、パッと花が咲いたように明るくなる。


「ッ……」

 私はとうとう、尊さに耐えきれず目元をハンカチで押さえた。

「おかあさま?」

 リリアがまた不思議そうな声を出す。

「今、“そうだ”と」

「うん」

「あの不器用なクライス様が」

「うん」

「息子に」

「うん」

「素直に、褒めましたわ……!」

「はい」

「だめですわ、尊すぎますわ……! スチルをください!」

「いつもより涙がいっぱいですわね」

「本日は、神イベントの大漁ですもの」


 ◇ ◇ ◇


 そして、事件は起きた。


 いえ。

 事件というほど、命に関わることではない。

 でも、オタクの私にとっては、間違いなく歴史に残る大事件だった。


「もう一度だ」

 クライス様が、今度は少しだけ木剣の構えを上げる。

「今度は、俺の剣を受けた後に、打ち返してみろ」

「返す……」

「そうだ。防御で終わるな」

「……はい」


 エルがゴクリと頷く。

 構える。

 再び踏み込む。


 今度は、父であるクライス様が先に動いた。


 ヒュッ、と。

 空気を裂いて木剣が一筋走る。

 当然、クライス様は本気ではない。エルの力に合わせた速度だ。

 でも、それでも素人の私から見れば速い。

 あまりにも速い。


 エルは目を見開いて、反射でその一撃を受けた。

 木剣同士が重く乾いた音を立てる。

 エルの小さな身体が、衝撃で少しよろける。

 けれど、倒れない。踏みとどまった。


 そして次の瞬間。

 父に言われた通り、よろけた体勢から、必死に食らいついて木剣を『打ち返した』のだ。


「ッ」

 クライス様が、その小さな反撃を、今度は軽く横に受ける。


 たったそれだけ。

 たったそれだけの、数秒、数呼吸の親子の攻防。


 なのに私は、その奇跡の瞬間、完全に限界を迎えて駄目になった。


「~~~~ッ!!」


 気づけば、両手を胸の前でギュッと強く握り締めていた。

 無理ですわ。

 何ですの今の奇跡の軌道は。

 あの世界最強の父の一撃を、息子が歯を食いしばって受けて、押し返した?

 まだたった八つなのに?

 しかも、ちゃんとさっき教わった『腰の形』を、その場で実践して?


「おかあさま、へんな声でてますわ」

「仕方ございません!」

 私は思わず、ガタッ! と長椅子から立ち上がっていた。

「今のは、フェルド家の歴史に残る記念すべき瞬間ですもの!」

「え、えぇ?」

「私には、サイリウムが必要ですわ!」

「さいりうむ? なにそれ?」

「ええ、推しを讃える、オタクの魂の応援光です!」


 私は反射的に、指先へありったけの魔力を集めた。


 パァァッ!! と。

 私の両手の空中へ、細長く光り輝く棒が二本現れる。

 クライス様と同じ青と、エルと同じ銀の、私の特製『魔法製サイリウム』である。


(※以前、クライス様の稽古見学で興奮しすぎて、うっかり『高位の身体強化支援魔法』までご本人に飛ばしかけて訓練場を破壊しかけた反省から、今は“見た目だけ派手に盛り上がる無害な光の魔法”へと安全に調整済みである)


「いけますわーーーッ!!」

 私は片手に青、片手に銀の光棒を持ち、誰の目も気にせず全力のオタ芸で振っていた。

「親子二代推し、最高ですわーーーッ!! エル、格好いいですわよー!!」

「は、母上!?」

 エルが、私の奇行に真っ赤になってこちらを見る。

「見てるのは知ってましたけど、そんな、光って……恥ずかしいです!」

「だって最高に尊いのですもの! ママは感動しましたわ!」

「母上ェェ!!」

「おかあさま、きらきらしててきれいですわー!」

 リリアがキャッキャと手を叩いて笑う。


 訓練場の真剣な空気が、私のせいで一瞬だけピタリと止まった。


 クライス様は木剣を手にしたまま、ジッと、ひどくジッとこちらを見ている。

 あら。

 少々、限界オタクとしてやりすぎましたかしら。


「……ルシア」

「はい」

「何をしているんだ、お前は」

「愛する推したちへの、応援ですわ」

「見れば分かる。派手すぎるだろう」

「でしたら、私の愛が伝わったということで問題ございませんわね」

「ある」

「どこがですの」

「だいぶ、精神的にやりづらいという問題がある」


 でも、その文句を言う口元が、少しだけ嬉しそうに緩んでいるのを私は絶対に見逃さなかった。

 つまり、完全な拒否ではない。

 ええ。

 分かりますわよ。

 愛する妻に応援されて、少し面白がって喜んでいらっしゃいますわね?


 エルはまだ茹でダコのように赤い顔のまま、恥ずかしそうに木剣を握り直している。

 ああもう、その恥ずかしそうなクーデレの反応すら可愛い。


「母上」

「何かしら、エル」

「……もう少し、静かに、普通にお願いします」

「善処いたしますわ」

「その顔は、絶対に信用できません」

「そこは本当に、血筋ですわねえ」

「何がですか」

「そういう疑り深いところや、少しだけ父上に似てきたところです」

「……ッ」

「照れると、耳の先まで真っ赤になる辺りとか」

「母上!! もう言わないでください!」

「うふふ」

 リリアが横で「エル、まっかー!」と楽しそうに笑い転げる。


 ◇ ◇ ◇


 結局、その日の記念すべき手合わせの稽古は、予定より少しだけ長くなった。


 エルが、思っていた以上に父の背中に必死に食らいついたのだ。

 クライス様も、息子のその成長と根性が嬉しかったのだろう。

 口数は少ないままでも、指導の手と剣の合わせ方は、ずいぶんと優しく丁寧だった。


 そして稽古がすべて終わった頃には、エルは額に汗を滲ませ、息を切らしながらも、どこかやり切った誇らしげな顔をしていた。

 クライス様もまた、立派に育つ息子を見て、静かな満足の空気を纏っている。


「お疲れ様でしたわ、お二人とも!」

 私は天幕の下から立ち上がり、卓上の冷ました美味しいお茶とタオルを差し出した。

「特等席より、最高の手合わせを拝見いたしました!」

「母上」

 エルが、タオルで汗を拭きながら少し困ったように言う。

「そんな大げさな。僕はまだ、全然父上に敵いません」

「大げさではございません」

 私は真顔で、彼を真っ直ぐに褒める。

「初めて父のお相手として、あれだけ重い一太刀を受けて、見事に返しを入れたのですわよ?」

「……」

「今日は、フェルド家の歴史に残る『記念日』ですわ」

「きねんび?」

 リリアがお菓子を食べながら首を傾げる。

「ええ」

 私は大きく頷く。

「本日のこの雪花菓子は、ただのお菓子ではなく『お祝い仕様の特別パッケージ』ですわ」

「やったー!」

 リリアがバンザイして飛び跳ねる。


 クライス様が、汗を拭いながら低く呆れたように言った。


「ルシア」

「何ですの」

「いつの間に、ただの朝の菓子が『お祝い仕様』になったんだ」

「先ほど、光る棒を振りながら心の中で決定いたしましたわ」

「早いな」

「オタクにとって、推しのお祝い事(記念日)への即応と課金は命より大事ですもの」

「そうか」

「そうです」


 エルは冷たいお茶を受け取り、コクコクと飲んで小さく息をついた。

 それから、少しだけ視線を泳がせて、照れくさそうに言う。


「……母上」

「はい」

「その」

「何かしら」

「そんなに、僕の剣……よかったですか」

「まあ」

 私は目を丸くする。

「もちろんですわ。世界一です」

「……」

「だって」

 私はそっと、汗ばんだエルの銀灰の髪へ優しく触れた。

「あなたが、あのお父様の一太刀を逃げずに受けて、ちゃんと食らいついて返したのですもの」

「……」

「母としても」

 私はニッコリと、心から幸せに笑う。

「限界オタクとしても、感動で泣くに決まっておりますでしょう?」


 エルは少しだけ、嬉しそうに黙っていた。

 やがて、小さく、でもはっきりと、年相応の無邪気な笑顔で笑った。


「……じゃあ、また明日も、頑張ります」

「ッ……!」


 いけませんわ。

 その純粋な笑顔。

 本当に、オタクの心臓にいけませんわ。


 私はその場で、崩れ落ちるように胸を押さえた。

 だめです。

 本日何度目か分かりませんけれど、また致死量の尊さで心臓がやられましたわ。


「母上!?」

「大丈夫です」

「本当に!? またどこか悪いんですか!?」

「いいえ、推しからの供給過多で、大変幸福なだけですわ」

「へんなのー!」

 リリアがまたコロコロと笑う。

「でも、おかあさま、とってもうれしそう!」

「ええ」

 私は深く頷いた。

「とても」


 その時、クライス様がごく自然に、背後から私の肩へポンと大きな手を置いた。


「落ち着け。倒れるぞ」

「無理ですわ」

「だろうな」

「分かっていて、そんなに格好いいお顔でおっしゃるのです?」

「少しは」

「ズルいですわね」

「そうか」

「そうです」

「だが」

 クライス様は、ほんの少しだけ愛おしそうに目を細める。

「お前がそうやって、俺とエルの稽古を見て喜んでいるなら、それでいい」

「…………」


 ああ。

 本当に。

 この人は、どこまで私を甘やかせば気が済むのか。


 私はもう、幸せすぎて笑うしかなかった。


 そうして、親子二代推しによる剣術稽古の、最高の午前は終わる。

 特等席には極上のお茶とお菓子があり、

 母は魔法のサイリウムを全力で振り、

 娘はそれを面白がって笑い、

 息子は照れながらも少し誇らしく胸を張り、

 父は呆れながらも、どこか最高に嬉しそうだった。


 ――ええ。

 毎日が尊くて、毎朝が供給過多で。

 そして今日という日は、その中でも間違いなく、格別な記念日でしたわね。



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