第53話 隣国の卑劣な罠。水源に毒を撒こうとする工作員を一網打尽
隣国皇太子ヴィルヘルムと、その背後で甘ったるく囀る元ヒロイン・ミレーヌの密談を盗み聞いてから、私は即座に一つの結論を出した。
――奴らが次に狙うのは、間違いなく『水』ですわね。
「判断が早いな」
執務室の机へ領内の詳細な地図を広げた私に、クライス様が感心したように低く言った。
「当然ですわ」
私は羽根ペンの先で、領都の北側山腹にある巨大な水源地へ赤い印をつけた。
「豊かな領地を根本から崩すなら、狙うべきはまず『食糧』か『水』。けれど魔法で再生した広大な農地は、今の時期に一夜で枯れさせるのは不可能です」
「……」
「でも、水なら違いますわ」
私は顔を上げた。
「特に、山から領都へ直接引いている『主水路の上流部』。あそこへ強力な毒や病原菌を流し込めば、領民の飲み水、お菓子工房の生産ライン、あの温泉施設まで、数時間で全滅(機能停止)します」
「……あり得るな。いや、確実だろう」
クライス様の声が、怒りで低く落ちる。
「しかも、あの短絡的で傲慢な皇太子なら、躊躇いなくやる」
「ええ」
私はニッコリともせず、氷のように冷たく頷いた。
「浅ましさと卑劣さに関しては、絶対に期待を裏切らない底辺の皆様のようですもの」
昼間は“友好的な視察団”として、いかにも平和的な顔をして歩き回っていた。
だが、昨夜の密談で、向こうの狙いはもう完全に割れている。
私個人を愛妾として奪う以前に、まずはフェルド領の経済と領民の心を物理的にへし折る気だ。
ならば、こちらも完璧な『迎撃の盤面』を用意する。
「ハインツさん」
「はいッ」
「北側水源地、主水路の第一分岐点、製菓工房の大型貯水槽、温泉の源泉の手前。そのすべてに、今夜から『夜間完全立ち入り禁止』の通達を」
「すでに手配を進めております」
「素晴らしい仕事の早さですわ」
「領兵の巡回シフトも、通常の三倍に増やしました」
「ええ。ですが今回は、人間の目だけでは足りませんわ」
私は地図の赤い印の上へ、さらにグルリと円を描く。
「私が直接、完全自動の『防犯結界』を張ります」
「防犯、ですか」
クライス様が問う。
「ただ侵入を知らせて防ぐだけの、生ぬるいものではありませんわよ」
私は、悪魔のように少しだけ笑った。
「“悪意を持ってウチの水へ異物を混ぜようとした者だけ”を、自動で逃さず捕獲する(絡め捕る)物理トラップです」
ハインツさんが、ほんの少しだけ顔を青ざめて沈黙した。
ああ、分かりますわよ。
領主の妻が言っていることが、少々えげつなくて物騒ですものね。
だが、仕方がない。
こちらは領民の命綱と、愛する推しの領地を守るのだ。
隣国相手だろうと、1ミクロンの遠慮などしていられない。
「そ、そのような高度な術式が、できるのですか?」
ハインツさんが慎重に問う。
「できますわ」
私はフンスと胸を張る。
「むしろ、こういう陰湿な裏工作を未然に防ぐシステム構築は、私の最も得意とするところです」
「どこでそんな嫌なスキルが得意になるんだ」
クライス様が呆れたようにボソリと挟む。
「前世と現世の経験の、最悪のハイブリッドですわ」
私はサラリと答えた。
「前世の社畜時代に散々、“人間は監視の目がないと思うと、平気でデータを改ざんしてロクでもない不正をする生き物だ”と血反吐を吐いて学び。現世でそれを物理的に阻止する『規格外の魔法』を覚えましたもの」
「……妙に説得力があって納得した」
ええ。
夫に納得していただけて何よりです。
◇ ◇ ◇
その夜。
私は、北側山腹の水源地へ一人で立っていた。
フェルド辺境伯爵領の命そのものと言っていい、神聖な場所だ。
岩肌の間から澄み切った水が豊富に湧き、その清らかな流れがやがて主水路へと繋がり、領都のすべてを潤していく。
月明かりの下では静かで美しいが、だからこそ、ここへ毒など入れられたら被害は計り知れない。
「……少し冷えますわね」
私はマントの襟を少しだけ寄せた。
「だから無理をするなと、さっき言っただろう」
真後ろから、スッと大きな温かいマントを羽織らされ、クライス様が低く言う。
「山の夜風が強い。お前は冷え性だ」
「この程度なら魔法で保温できますから平気ですわ」
「さっきも同じことを言って、少し震えていただろう」
「実際、任務に支障はないですもの」
「妻の体調に関しては、全く信用できん」
「相変わらず、過保護で厳しいですわね」
だが、その夫としての不器用な厳しさが、最高に嬉しいのだからオタクは困る。
周囲の木々の陰には、気配を完全に殺した選りすぐりの精鋭領兵が少数だけ伏せている。
多すぎる人数は逆に敵に警戒されるため不自然だ。
今夜の彼らの役目は、見張りというより、私の結界が発動した後の『証拠確保と連行』が本命である。
私は湧水の前へしゃがみ込み、素手で指先を水へ浸した。
ひんやりとした、極上の感触。
不純物のない、清らかな天然水。よく通った豊かな流れだ。
この美しい水が、領民たちの喉を潤し、あの絶品菓子を焼き、黄金の麦畑を育てている。
(絶対に、守り抜きますわよ)
私の最愛の推しの領地の水。
他国の愚かな輩に、一滴たりとも汚させるものですか。
「始めますわ」
私が小さく告げると、周囲の暗闇で兵たちが一斉に息を潜めた。
両手を湧水の上へ広げる。
膨大な魔力を、静かに、精密に沈める。
まずは地形の完全なスキャン(把握)。
湧水点、流路、岩の陰、侵入者が踏み込みやすい足場、そして逃走経路。
全部を立体的に読み取り、その上へ見えない魔力のセンサー(糸)を張り巡らせていく。
「《水鏡識別》」
淡い銀色の光が、水面全体へ薄く広がり、すぐに透明に溶けた。
毒物、異物、腐食性、麻痺性、汚濁。
『人為的に外から混ぜ込まれた有害物質』を、自然由来のミネラルと明確に分けて弾くための強力なフィルター(識別術式)。
次に、周囲の地面と空間へ。
「《足跡封縛》《侵意感知》」
こちらは、ただの動物や人の物理的な侵入それ自体ではなく、“悪意を持って水へ手を出そうとする意志(殺気)”へ直接反応させる高度なトラップだ。
ただ通り過ぎるだけなら鳴らない。
だが、毒の小瓶を持ち、投げ入れようとし、混入させようとする、その『一線を越えた瞬間』、足元から容赦なく縛り上げる。
「さらに……」
私は深く息を吸う。
「《静圧膜》《夜視返し(リフレクト・ビジョン)》」
目に見えない透明な膜が、ドーム状に水源地全体をスッポリと覆う。
外からは、いつも通りの無防備な水源に見える。
だが、悪意を持って結界の内部へ侵入した者だけ、その輪郭が闇夜の中でホタルのように発光して浮かび上がる仕掛けだ。
最後に。
私は水面へそっと指を滑らせた。
「《告鐘》」
カチリ、と。
空間に、まるで目に見えない完璧な錠前が組み上がる音がした。
「完成ですわ」
私は立ち上がり、パンパンと手を払う。
「これで、誰かが水へ毒を入れようとアクションを起こした瞬間、一瞬で捕縛され、屋敷の私の枕元にまで直接アラート(報せ)が届きますわ」
「……枕元まで?」
クライス様が、呆れたように眉を寄せる。
「今夜、お前は寝る気はあるのか」
「ありますわよ? 明日も商会との打ち合わせがありますもの」
「本当か」
「多分」
「やはり信用できん。どうせ起きて待っているつもりだろう」
「でも、一応は寝床へ戻るつもりではおりますもの」
「その“一応”が、恐ろしく怪しい」
私は小さく笑った。
本当は、徹夜でこの場に張りついて敵の顔を直接拝んでやりたい気持ちもある。
けれど、それでは強すぎる魔力反応で相手も警戒して逃げる。
今夜は完璧な罠を張って、蜘蛛の巣で待つ。それが最善の効率だ。
「クライス様」
「何だ」
「もし私が先に結界の反応へ気づいて、深夜に飛び起きたら」
「俺も当然起きる。そして俺が斬る」
「……」
「当たり前だ」
「そうでしたわね」
「お前一人で、危険な夜の山へ突っ走る気だったのか」
「少しだけ」
「却下だ。俺の背後から離れるな」
「存じております。頼もしい夫ですわね」
◇ ◇ ◇
そして、その夜半。深夜二時。
告鐘のアラートは、鳴った。
――キィィィン……ッ。
頭の奥の魔力回路で、甲高く澄んだ警告音が一つ響く。
私は反射でパチッと目を開けた。
寝ていた。オタクの興奮を抑え、ちゃんと一時間ほど寝ていた自分を少しだけ褒めたい。
だが感心している場合ではない。
「クライス様」
隣へ声をかけるより早く、向こうもすでに完全に起きていた。
さすが、戦場育ちの凄腕騎士ですわね。
「北側の水源か」
「ええ」
私はベッドから跳ね起きながら頷く。
「見事にかかりましたわ」
着替えは必要最低限。
動きやすい服に黒い外套だけ羽織り、ブーツへ足を突っ込む。
クライス様はもう剣を帯びている。その流れるような動きに一切の迷いがない。
「兵は?」
「ハインツさんへ、私の魔力回路と連動させた伝令(無線)が飛ぶように設定済みです」
「いつの間に」
「結界へ告鐘を仕込んだ時に、ついでに」
「……恐ろしく抜かりないな」
「前世から、リスク管理は得意な妻ですもの」
その返しへ、クライス様は何も言わなかった。
だが暗闇の中で、その口元がほんの少しだけ誇らしげに動いたのを、私は見逃さなかった。
夜の屋敷を素早く抜ける。
冷たい山の空気が頬を打つ。だが今はむしろ、それがありがたい。頭の芯まで冴え渡る。
北側水源地へ近づくほど、結界の反応(獲物の数)はハッキリしてきた。
一つ、二つ――いや、三つ。
侵入者は複数だ。
「三人です」
私が小声で言うと、クライス様が短く頷く。
「夜陰に乗じた工作員の数としては、妥当な編成ですわね」
「油断はするなよ。手練れかもしれん」
「当然ですわ。全員無力化します」
水源地の手前で、音もなく足を止める。
木立の陰から覗けば、月明かりの下の水辺に、黒い影が三つ這いつくばっている。
顔を黒布で隠し、軽装で、足運びは極めて静かだ。
素人ではない。
だが、その手際の良さが逆に“他国でこういう隠密工作(汚れ仕事)をやることに慣れきっている”と教えてくれる。
影の一人が、懐からガラスの『小瓶』のようなものを取り出した。
そして、澄んだ湧水へ腕を伸ばす。
来ましたわね。ビンゴです。
「《現像》」
私が冷たく小さく呟いた瞬間、水源の結界が青白く発光した。
工作員たちの周囲に、透明な膜の輪郭が眩しく浮かび上がる。
小瓶を持った男の一人が、ギクリとして顔を上げた。
「なッ――光が!?」
「今ですわ」
次の瞬間、私は一切の容赦なく右手を振り下ろした。
「《捕縛檻》!」
無数の銀糸のような光の帯が、地面から蛇のように跳ね上がる。
一人目の足首を強烈に絡め取り、二人目の手首へ手錠のように巻きつき、逃げようとした三人目の胴へ一気に食い込んで締め上げた。
「ぐあッ!?」
「くそッ、魔法の罠だ!」
「引け! 逃げ――」
逃げられるわけがないでしょう。誰の仕掛けた罠だと思っていらっしゃるの?
一歩踏み出そうとした三人目の足元へ、次の絶望の術式を重ねる。
「《泥沼縛》」
彼らの足元の硬い地面が、一瞬にしてヌルリと底なし沼のように軟化し、膝まで深く沈み込んで固定される。
そこでさらに、トドメ。
「《無音鎖》」
仲間に声を上げようとした彼らの口元へ、魔力の硬い猿轡がピタリと走る。
殺しはしない。
だが、余計な言い訳や悲鳴を叫ばせる理由も権利もない。
「……ッ!」
「……!!」
「…………!!!」
わずか数秒。
それだけで、隣国が放った三人のプロの工作員は、完全に手も足も口も動かせない状態に封じ込まれた。
私は木立の陰から優雅に出て、彼らを見下ろし、ニッコリと微笑む。
「ようこそ」
冷たい月明かりの下、私は外套の裾を翻した。
「我がフェルド辺境伯爵領の、『絶対に逃さないおもてなし防犯結界』へ」
三人の目が、恐怖と驚愕で限界まで見開かれる。
顔を覆った布の隙間からでも、絶望しているのがハッキリと分かる。
完全に想定外だったのだろう。
そりゃそうですわね。
ただのド田舎の辺境伯爵領で、水源に“毒を入れようとした者だけを自動で識別し、魔法で拘束して口まで塞ぐチート結界”など、そうそう張ってあるものではない。
だがこちらは、あなた方の上司の浅ましさなど、昨日の時点で見越していたのだ。
「クライス様」
私が振り返ると、クライス様はもうすぐ後ろに、音もなく立っていた。
月光を浴びたその国宝級の横顔は、血の凍るようにひどく冷たい。
「証拠は」
「バッチリ確保いたしましたわ」
私は魔法の糸で、一人目の手から落ちた小瓶を空中にフワリと摘み上げる。
無色透明な液体。
だが、私の結界の識別魔法は、その小瓶に対して『真っ赤』に反応している。
致死性の毒物。
しかも、無味無臭で水へ極めて溶けやすい、最悪の暗殺用・大量虐殺用の類だ。
「まあ」
私は赤い光を放つ瓶を傾け、氷点下の声で静かに笑った。
「本当に、こんな分かりやすい真似をやってくださったのですね」
「……」
「視察の翌晩に、恩を仇で返して水源へ致死毒を入れようとするなんて。あの皇太子と元ヒロイン、想像を1ミクロンも裏切らない三流の雑さですこと」
クライス様の底冷えする蒼い目が、工作員たちへスッと向く。
その瞬間、三人とも本気で歯の根を合わてガタガタと震え出した。
ああ。
分かりますわよ。
今の怒り狂ったクライス様、巨大な地竜より相当怖いですもの。
「ここで口を割らせるか。それとも斬るか」
低い声。
静かだが、それが余計に本気の殺気を感じさせて恐ろしい。
私は小瓶を証拠品として布へ丁寧に包みながら答える。
「その前に」
「何だ」
「もう少し、あちらの皇太子が絶対に言い逃れできない形へ、美しく証拠を整えましょう」
「……」
「だって、せっかくの機会ですもの」
私はニッコリと、最高に邪悪に笑った。
「この方々が、『どなたの命令』で、どこから来て、この美しい領地に何を撒こうとしたのか。一言一句、全部、丁寧に自白していただかないと」
工作員の一人が、猿轡をされたまま必死に首を振った。
だが、遅い。
私はその泥沼に沈んだ男の前へ、屈み込んだ。
「大丈夫ですわ」
「……ッ!」
「ちゃんと、命に関わらない程度に『優しく』伺いますもの」
「……!!!」
「まずはその見苦しい覆面の布、外してくださいましね」
言いながら、私はふと自分で思う。
ああ。
本当に。
愛する推しの平和な日常を壊すクズへ、私、1ミクロンの容赦も慈悲もございませんわね。
でも仕方がない。
これは、クライス様の大切な領地の水だ。
領民が飲み、私のお菓子工房が使い、あの推しと入った温泉へも繋がる神聖な水。
そんな命の水へ毒を入れようとした時点で、もう彼らに情状酌量の余地など、この世界のどこにもない。
◇ ◇ ◇
その後、すぐに駆けつけたハインツさん率いる領兵へ三人の工作員を引き渡し、私たちは屋敷へ戻った。
まだ夜明け前。
空は濃紺のまま、星が瞬いている。
だが、私の中の眠気は完全に、怒りで彼方へ吹き飛んでいた。
「クライス様」
「何だ」
「やはり、予想通り来ましたわね」
「ああ」
「しかも、一番卑劣な水源狙いの大量虐殺未遂」
「予想通りすぎる下策だ」
「ええ」
私は外套の裾をギュッと握り締める。
怒りは静かだった。
だが、その静けさの底で、オタクの逆鱗に触れた何かが確実にドス黒い熱を持っている。
工作員が自白すれば、次の反撃のステップへ進める。
万が一自白しなくても、この猛毒の小瓶と侵入経路、そして視察団到着の翌夜という事実だけで、状況証拠としては十分に真っ黒だ。
そして、この程度の工作が失敗したからといって、あのプライドばかり高い皇太子が素直に引き下がるとも思えない。
むしろ、逆だ。
「次は」
私はポツリと呟く。
「焦って、もっと強引で派手な手で来るかもしれませんわね」
「……」
「失敗したからこそ、引くに引けなくなる類いの、愚かで底の浅い方々ですもの」
クライス様は、短く重い息を吐いた。
その声は、もう怒りというより、領主としての明確な『決意(殺意)』に近い。
「ああ」
「なら」
私は、決然と彼を見上げる。
「こちらも、腹を括って『最終戦争』の覚悟を決める時ですわ」
「そうだな」
屋敷の正面階段へ足をかけながら、私はゆっくりと、不敵に笑った。
視察という名目の厄介な来客は、ついに領民の命を狙う『毒』まで使ってきた。
ならば、もう後は遠慮なく一段上がるだけだ。
――焦って逆ギレして、我が領地へ宣戦布告でもなさいますかしら?
そんな不穏な予感が、ひどく現実味を持って、私の胸の奥で冷たく光っていた。




